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「賀川豊彦」のぶらり散歩ー作品の序文など(第151回『賀川豊彦全集16』第14回配本「月報14」)

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「須磨離宮公園:ROSE Festival 2012」(本日のブログ「番町出合いの家」http://plaza.rakuten.co.jp/40223/)



賀川豊彦」のぶらり散歩
   

―作品の序文など―

      第151回


賀川豊彦全集16』(第14回配本「月報14」)


  
 『賀川豊彦全集』の第14回配本は、昭和38年10月10日に「文学作品(小説)」として分類されている第16巻が刊行されました。

 今回の「月報14」には、「やわらかな握手」と題して石田正弘氏(天満教会牧師)、「天成の詩人」と題して竹内良雄氏(松沢教会牧師)などが寄稿しています。

 いずれも、貴重な文章ですので、前回と同じく箱表紙と本体の扉・写真と共に、月報の前記二つを取り出して置きます。また今回も月報に掲載されている写真も、鮮明ではありませんが取り出してみます。



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           『賀川豊彦全集16』第14回配本「月報14」

                 やおらかな握手

                  石田 正弘


 昭和二十一年の夏、イエスの友夏期聖修会が比叡山で開かれた時に初めて参加したのが賀川豊彦先生を親しく知る機会となった。それ以来、私はイエスの友同志に加わって、毎年、正月と夏に催される聖修会に出て先生の人格に触れ、活ける生命の糧とするのが何よりの楽しみとなった。

 三年計画で「新日本建設キリスト運動」の火蓋がきられ、先生は中心講師となり、黒田四郎牧師を伴って長途の旅に出た。全国の都市という都市は荒廃にきし、人心の動揺もおさまらない只中にあって夜を日についでもなお足らない多忙さであった。当時、私の属していた大津教会も市内諸教会との連合で、大伝道集会を中央小学校で開いた。広い講堂一杯に莚を敷き、それでも足りないものは講壇の周辺にうずくまるほどの超満員で立錐の余地もない盛況であった。

 「世のたのしみうせゆき、
  人のなさけきえはて………」(旧讃美歌五四四)

 一際高く会場を圧する先生の声は、敗戦の苦悩を負い、窮乏と悲嘆に暮れている人々に非常な慰めと力となった。それから「社会革命と精神革命」と題して二時間以上に及ぶ熱弁、時計が午後九時半を打つというのに、誰一人席を立って帰るものがなく、満堂の聴衆は吸附けられてしまった。集会が終り、くたくたに疲れ果てていたにも拘わらず、そのまま会場から次の旅先に向って直行するという有様であった。駅頭に見送った私達は、神の使徒としての厳しくもまた尊い姿に襟を正す思いであった。その夜は、琵琶湖上に描く満月の美しさと共に、生涯忘れ難い伝道者の姿に接した。

 今日は西に、明日は東にと全国をくまなく伝道する賀川先生にとっては、何物にもまさって祈りの力添えが嬉しかったに違いなかった。伝道集会の準備として祈祷会が熱心に開かれる教会では不思議に講演に実がはいり、回心者の数も多かったようである。このことは先生自身、昭和二十八年九月、東京で開かれた全国宣教会議の特別講演の中で、「私は敗戦日本の有様に、あまり惨憺たる日本の形相を見て涙ながらに全国をぐるぐる廻っている。国亡びて山河すたれ、山河すたれて良心まで荒れすさんでしまった日本を興すには、祈りの外には絶対に不可能であります。………私は全国を廻って見て町々に着いた瞬間、出迎えに来た人の顔をみてすぐわかる。ああこの人は祈っている。祈っていたら、祈っているところには妙なくらい必ず奇跡が起きる」といわれている。“祈りなければ、奇蹟なし”とは、先生の五十年の信仰体験から得た貴重な確信であった。

 昭和三十四年初頭に、恒例の西宮一麦寮で冬期福音学校が開かれ、私も講師の一人として「己が生命を賭け」、「絶えず祈れ」と題し、二回にわたってビリビ書簡の奨励を行った。先生は、ストーブの傍に腰かけ、終始慈父のまなざしをもって、この若き伝道者の言に耳を傾けて下さった。諮り終えて近ずくと誰もが温かく触れたであらう柔かなあの手で私の手を力強く握りしめて、
 「石田君、しっかり頑張って頂戴よ」「ハイー」と、後は唯、固く両手で握り返して応答した。だが、この言葉が先生との最後の会話になろうとは……。二目後、「伝道者が伝道に倒れるのは本望だ」と言い切って、四国伝道に旅立たれ、遂に再起することが出来なかった。しかし、あの聖修会での標語は、「されど、今日も明日も次の日も我は進みゆくべし」(ルカ13の33)であったが、先生は、自分の屍を乗り越えて、日本教化と世界平和のために献身する若人のある事を期待されていたに相違ない。今にして宣百記念大会の録音のメッセージを想起する。今回、刊行された賀川豊彦全集は、幾千幾万の若き魂に、先生の人格と思想を植え付け、その衣鉢を嗣いで奮斗する人々が現われることを確信し、この企画に欣びを禁じ得ないものである。  
                                     (天満教会牧師〕





                天成の詩人

                竹内 良雄


 『繁忙な社会運動に疲れて、我々が帰って来る処は矢張詩であり詩篇である。』(聖書社会学の研究三七頁)とあるように、賀川先生は、旧約の詩篇に深い慰めを得た人であった。そして、繁忙な中にあって、多くの詩にその詩想を昇華させた詩人であった。

 私は若き日に、朝日新聞に載った「復活」についての先生の短文を初めて読み、その詩のような文章に魅せられたことを覚えている。それから間もなく、「賀川豊彦人生読本」(鑓田研一編)をもとめて愛読した。その中の、生命のほとばしるような人生詩、素朴にうたわれながら深味のある宗教詩のいくつかが、私の若い魂にやきつけられ、賀川豊彦は宗教詩人として印象づけられた。

 全集第二十巻に収録されている、詩集「涙の二等分」「永遠の乳房」の中に、それらの詩を見出し、懐しい思いに迫られている。

 神学校を卒業して、私の最初の任地であった伊豆の宇佐美で伝道していた頃、賀川先生は二度伝道にきてくださった。最初は昭和二十三年、二度目は二十六年の五月であった。
 
二度目のとき、伊豆の山と太平洋にはさまれた宇佐美村(現在伊東市)は、田植えを前にして初夏の太陽に照らされていた。海に近い川端の牧師館で小憩されているうちに、先生は私のノートに次の詩を書いて下さった。

            宇佐美の初夏

         せせらぎの  小川の流れ
         草蔭に聞き  露の行末
         見守れば
         鎮守の森に緑ふかし
         苗代作りは  畝に立ち
         天地の声に  耳すます
         字佐美の初夏 空は晴れ!

 先生はベンを手にして、しばらく考えていられたが、数分の間に書きしるされた即興の自然詩であった。この詩とともに、次の二首の歌もスラスラと書いて下さった。

         苗代見守るこの日 日本に
             魂稔る 秋の待たるる
         せせらぎの小川の蟹をさがし行く
             宇佐美の児らを我は羨む

 この歌のあとに「九坪の王者良雄兄」と書き添えて、先生は面白そうに笑われた。苦労して建てた牧師館は九坪の小さいものであったが、せせらぎの音が聞こえ、すぐそばで、海から上ってくる石垣の大きい蟹を裸の子供達がとっていた。

 「先生はこうして旅先で作られる詩や歌を書きとめておかれないのですか。」
と、私は尋ねてみた。すると、
 「黒田先生が一緒だと、書きとめておいて下さるのだがね」
といわれて、自分では書きとめようとされなかった。最初のときはごいっしょであった黒田四郎先生は、このときはお出でにならなかった。このようにして記録されずに、あちらこちらに書き残された作品はすくなくないであろう。

 その頃私は、宇佐美の隣の漁港綱代にも伝道しており、受洗した数名の若い漁師か中心となって、賀川先生を迎えた。「海国日本とキリスト精神」という講演をされた先生は、青年漁師のために、

          海洋をわが故郷と知りぬれば
          わが領域に太陽没せじ

と墨痕鮮かに書いて与えられた。そのとき、もう一人に別の歌を与えられたが、それはどうしても思い出せない。
 いつでも詩や歌が生まれてくる、賀川先生は天成の詩人であった。
                                   〔日基教団松沢教会牧師〕




                 何度でも赦された

                  黒田 四郎


 私が先生の仕事に加わったのは昭和三年の六月でした。しかし中学生の時から、先生のクラスメート鈴木伝助氏が、私の家に泊まっていられたので、新川の話をよく聞きました。また神戸神学校に入学してからは、よく新川へ出入をしました。引続いて、最初赴任した二宮教会が新川のとなり町でしたので、それからはグループの一人として手伝をおおせつかっていました。それで先生のことは相当よく知っているつもりでいたのであります。

 ところか、神の国運動の助手として先生と起居を共にし始め、まだ知っていなかったいろいろな面を発見して、びっくりいたしました。そのうちで、一ばん驚いて大きなショックを受けたことを記して見ましょう。 
                 
 それまでに、『賀川の事業はみな失敗する。成功したものは一つもない』とか、『賀川のぐるりにおる人間はろくなものはいない。だからどの仕事もめちゃくちゃになる』とか批難をされていました。私はそれをなさけなく思っていたので、一つでもよいから、仕事をまともにしあげたいと思いました。それで秘書の吉本健子姉とも話しあい、先生から私に託された一つの仕事を、最初から計画を慎重に立て、経理の点もしっかりし、事務も整然とするように注意しました。半年も経過したころ、その仕事もやっと軌道にのり、この調子で進めば、どうにか失敗せずに完成するのではないかと考えられるまでになりました。

 ある日、先生の書斎に見知らぬ人が訪れてきました。聞いてみると、何度も金と女で失敗した人で、数年前にも先生に非常な迷惑をかけて飛び出しながら、それ以来各所で先生の悪口を言いふらしているということでした。私はクリスチャンの母にきびしく育てられていましたので、そんなふしだらで無責任な人物は、ほんとにきらいでした。それで、非常に不愉快に思い、一刻も早く先生が彼を追いかえしてしまえばよいと、考えずにはおれませんでした。ところがです。隣室の私が先生からよび出されました。

 『黒田先生。XX君に、例の仕事をしてもらうことにしますから、事務を引きついで下さい』
と言われるのです。青天のへきれきというのでしょう。私は息もつまるほどびっくりいたしました。私は一瞬間、言葉も出ず、頭の中は混乱してしまいました。

 『こんな男に、あの仕事を渡したら、たちまちめちゃくちゃにされる。どうして先生はそれがわからぬのか。誠心誠意苦心してきたことも考えずに、…………』

 しかし仕方なく、その仕事を彼の手に渡す外はありませんでした。涙をのんだ気持をもって。案のじょう、二三ヶ月して、彼は先生のところから突然姿を消してしまいました。例の事業は根こそぎ破壊しつくされてしまいました。私は先生の事業の経営法に絶望を感ずる外はなく、泣くにも泣けぬ思いでした。

 けれども、その時私はつくづくと知らされました。先生は事業家ではなく、救う人だ。仕事よりも人間を大切にされる。何回失敗した人でも、何回でも赦される。すると何十人の中の一人か二人は立派に立ち直るかも知れない。先生が捨てたら、その人は亡びる外に道がないのだ。だから人を救う必要から、先生の仕事はいつも失敗を賭けられているのだ。これが先生の仕事の失敗の根本原因だ。

 そしてその時、ふとまた思いました。私が大失敗をして、誰からも捨てられるようになっても、私が悔いてあやまってゆけば、賀川先生だけは快く赦して、その日から私にやり甲斐のある仕事を与えて下さる。ありがたい。

 そう思って、私はそれまで少しも人を赦したことのなかった事実に気がつき、愕然といたしました。先生こそ、主の御言葉通り、七度を七十倍も赦して下さる方だと思いました。またその先生のもとで使って頂く光栄をしみじみ味わうことができました。
                                     (東駒形教会牧師)




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