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「賀川豊彦」のぶらり散歩ー作品の序文など(第153回『賀川豊彦全集12』第16回配本「月報16」)

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「須磨離宮公園のぶらり散策」(本日のブログ「番町出合いの家」http://plaza.rakuten.co.jp/40223/)



賀川豊彦」のぶらり散歩
   

―作品の序文など―

      第153回


賀川豊彦全集12』(第16回配本「月報16」)


  
 『賀川豊彦全集』の第16回配本は、昭和38年12月10日に「哲学・経済・社会学」として分類されている第12巻が刊行されました。

 今回の「月報16」には、「“立体農業”の生みの親」と題して藤崎盛一氏(豊島・武蔵野農民福音学校校長)、「先生のお顔が、お声が」と題して中田功氏(高遊原伝道所牧師)などが寄稿しています。

 いずれも、貴重な文章ですので、前回と同じく箱表紙と本体の扉・写真と共に、月報の前記二つを取り出して置きます。また今回も月報に掲載されている写真も、鮮明ではありませんが取り出してみます。




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          『賀川豊彦全集12』第16回配本「月報16」

              “立体農業”生みの親
            
                 藤崎 盛一


 賀川先生が百科大辞典のような頭脳の持主であったことは周知のとおりであります。専門の宗教はもちろん、あらゆる面に造詣が深く、殊に社会科学、自然科学に対しては非常な趣味を持たれ、専門書を熟読されると共に、機会あるごとに標本の蒐集、実地見学視察に骨身を惜しまれなかった知識欲には驚嘆させられることが多くありました。

 世人がよく自然科学については素人だと言いましたが、先生は専門書を実に広く数多く読まれていました。ただ多くの学者のように、研究室に引籠って実験しつつ、その研究に専念することができなかったことは事実ですが、これは忙しい先生には到底望めないことであります。また先生は詩人であり、理想家であり、預言者であったために、時々いわれることが飛躍して、我等平凡人には夢のように感じられた点がないでもありませんでした。

 しかし先生の知識は専門の学者以上で、原書を読破し、それを頭の中に整理箱の引出しに専門別に整理しておられたと思うくらいに記憶されておりました。先生は進化論、岩石学、土壌学を得意とせられ、自然科学者であるばかりでなく更に技術的研究書までよく読まれていました。

 かつて先生が満州から帰国された時に、荷物殊に書籍類の整理をしたことがありますが、驚いたことはその本が科学書で、主として岩石学と緬羊の専門書で、三十冊余を船中で読了され、主要な点にはマークされていたのです。

 ある日、先生と二人で農林省の林業試験場に研究に出かけたことがあります。当時先生は幼稚園の子供に自然を教えるために、自然教案についての研究に専念されていました。子供に樹木の形(樹冠)を教えるためと、立体農業の大敵である天牛(かみきり虫)の研究が訪問の目的であり、それぞれの専門の技師に逢いました。樹冠の研究をしたいが適当な書籍はないだろうかときかれると、某技師が図書室から二、三冊の最新の本を持って来られました。それを先生はパラパラと頁をくって、これは二、三年前に読んだといわれました。私は、こうした専門家以外は読まないような本までも読んでおられた先生には感服しました。

 次は天牛の研究のために昆虫室を訪ね、某技師(有名な昆虫学者)に先生が名刺を出して、
 「今後よろしくご指導を賜りたい」
とていねいに挨拶されたところ、その技師が、
 「指導どころではありません。私は若い学生時代に先生の甲虫の研究論文を読んで教えられたもので、かえってこちらがご指導を仰ぎたい」
との挨拶で、私は二度びっくりしたものです。

 賀川先生の農業に対する考え方は、こうした広汎な専門的基礎知識と、世界を広く幾度も見てこられた博識と、日本における長い社会運動――米騒動や小作問題や食糧問題や人口問題等に関係して――と、先生の宗数的熱情と理想と堅い信仰、殊に聖書に立脚した農業思想によって基礎づけられた農法が、立体農業の構想であります。

 先生が社会運動、政治運動、経済運動の最前線に立って活躍された長い経験の結果、生産をぬきとしてはこの運動は解決できないという結論から、國土の狭い日本の将来の食糧問題を憂慮され、生産の増強化、農家の有富を計るためには国土の立体化を計る外に道なしと恩われたのです。

 国土が狭小の上に、山野が八〇%以上を占める我が国土の実情を活用するためには、今までのような米作中心の農業――米作農業は代表的な平面農業である――に偏重していることが食糧の行詰りであり、又国土の低利用度が解決されねばならぬことに着目されたのであります。

 米作農業は長短があり、長所は更に増強すると共に短所を補強して、農業の完成を目指し、その補強工作として樹木農業と草生農業により家畜導入を強化すると共に、農村の工業化をも含めて、土地の立体的利用と生活の立体化を計るような農業のしくみ(営農)を強調されたのであります。

 先生にはこうした構想が先生自身の頭に画かれていたのですが、更に先生に大きな影響を与えたのは、米国の元コロンビア大学教授で有名な農業地理学者ラッセル・スミス氏であります。同先生の著書「世界食糧資源諭」(賀川先生の訳)の姉妹縮である“Tree Crop”を先生が「立体農業の研究」として日本に紹介されたのが昭和八年で、立体農業ということばが初めて日本の活字として現れたのです。

 畑違いの先生の造言であり主張でありますから、官学の学説、官制の技術万能に立った米作重点主義の農業政策で、米作と芋作の批判をすることさえ非国民扱いされた時代に、余り注目されなかったのは当然のことであり、かえって弾圧されるような状況でした。

 農林省の農務局では取り挙げられませんでしたが、林業界の大先輩本多静六博士が立体農業の構想に共鳴され、低級林業(今日までの林業は用材と薪炭を目的とする林業)から高級林業(樹木農業を意味する)を提唱すると主張されましたので、林野庁関係は協力的で、林業の在り方について新しい構想が現れてきました。このあらわれが特殊樹木の栽培の奨励ということになりました。これは確かに立体農業の構想の影響の賜物と思います。

 今回の世界戦争は新しい時代の転機となり、殊に敗戦日本にとってはあらゆる面に大きな転回をよぎなくさせられました。なかんずく農業はその転回を大きく要求され、米作中心の農業から一歩前進して、畜産、果樹という線に、今日までと変った意味と広さで大きく要求されてきて、戦前馬鹿にされていた立体農業の主張が、今日の農業構造改善の内容を持つものと思います。

 農業というものは本質的観点から見るならば、日本のように勝負によって農業が変り、景気不景気によって営農が盛衰すること自体が問題で、農業が正しい型で営農されていれば、時代の移変で手の平を返すように変革するものではないと思います。農業が正しい型で指導され営農されるならば、恒久的なものであり、恵まれる訳であります。

 恒久農業こそ立体農業の農法であるといって過言でないと思います。この意味で賀川先生は偉大な農村指導者であったと敬意を心から表すると共に、先生の構想を現実化し、乳と蜜の流るる郷を建設することが先生に対する報恩であると共に、日本への農民の救国愛国の運動であると信ずるものです。

 賀川先生は立体農業を提唱されたと同時に農民教育に終始されました。これもあらゆる社会運動をされた結論として[人作り]が先決であることをさとられ、昭和二年、自宅(現在西宮市高木町)を開放して日本農民福音学校を起し、農閑期を利用して1ヵ月間寝食を共にする塾教育による三愛主義―-愛神・愛人・愛土――に立って青年の教育に非常な努力を注れたのでした。

 この小さな塾教育事業は賀川先生の事業としては大きな事業で、卒業生は約二千人に及んでいます。かつての青年であった同志達が今は働き盛りの年令に達し、あらゆる運動の原動力となり、立体農業の実現化に挺身し、農村教会の中心となっています。同志の中には伝道を決心し、神学校に入学して伝道者となった二十八名の牧師があり、これだけでも大きな功績といえると思います。

 貿川先生の多くの事業の中、農民福音学校と立体農業運動は永久に残る事業であり、この運動は南米のブラジルに、東南アジアに延びつつあります。
 武蔵野と豊島は先生亡き後も継統され、先生の遺志をつぎ、有為な青年の教育と立体農業の実践を計りつつあります。
                     〔豊島、武蔵野農民福音学校校長、農村伝道神学校教授〕





                 先生のお顔が、お声が
                    
                   中田 功


 拝復 お手紙感謝いたします。阿蘇高遊原の開拓地の伝道の御困難を察し申しあげます。
 就ては第一以下の点を御報告下さい。
  一 水はどこから取っていますか?
  二 集会所を建てるとすれば何坪ですか?(二万円は悦んで私方で負担します)
  三 托児所を開くとすれば村で世話する娘さんはいませんか?
  四 乳山羊を入れてあげたいですが隈府――特に癩療饗所――あたりによき種山羊を売ってくれるものを見    つけて下さい。それを先づ二、三匹入れて増加させませう。この金も私が負担しませう。
  五 豚の種も入れたいものです。これも周旋してあげて下さい。之も私が寄附しませう。
  六 無尽頼母子講を作り、家屋を改良する必要ありと認めます。何かの工夫はつきませぬか。落花生を    売り出して互助的に家屋を修善する工夫を教へてあげて下さい。
  七 天水を屋根から取れば善いから(但し天水だけのめば純粋すぎるからその中へ小石を入れて、化合    させて無機塩類をも飲むこと)
    そのために是非樋をつける工夫を教へること。

 右のようなことが出来るか御返事下さい。
 主にある御平安を祈って
                                 トヨヒコカガワ
   中田均様待史

 右は原文のままです。私はこの先生の農村伝道の教書をいただいて高遊原に来ましたが、まだ先生の御計画を実行することができませんでした。最近、かつてなかった農民の困窮を見る時、私は先生のこの農村伝道教書を高遊原に実行したいと祈っています。

 高遊原開拓地の伝道は、賀川先生がアメリカ伝道の際シアトルで元田清子さん御夫妻初め彼の地の有志達が祈祷会を開いた時、この伝道が始まったと先生から承わりました。帰国後先生は、このシアトルの祈祷会で開いた仕事を私に託されました。先生は終戦後三回熊本に見えて、高遊原伝道について祈られました。

 亡くなられた年、私は先生を松沢のお宅に訪ねました。既に重体で面会謝絶になっていました。一泊することになり、奥様が私の寝床を病室の隣にとってくださいましたので、できるだけ足音のしない様に二階への階段を上って室にはいろうとしましたところ、病床の先生が、
 「中田君よく来たね、ちょっと来てちょうだい、君に頼みたいことがある」
としゃがれた声で呼ばれました。その時先生は私の手を長いこと握って御自分の胸のところにもってゆかれました。そして、

  一 熊本の農民伝道を君にたのむ。
  一 高遊原の託児所はどうなったか?
  一 自分の家を建てるな、いつでもどこへでも飛んでゆけるように腰をからげていること。
  一 子供達を勉強させること。
  一 帰りに神戸で途中下車して武内さんに上京するよう伝えるとと。汽車賃はあげるから、そう伝えな    さい。

 そのようなことを私に依頼ざれ、仮睡なさるまで私の手をはなされませんでした。私は今も、先生の笑顔とお言葉と温かさ柔かさを忘れることができません。私は先生に叱られて、しばらく恐ろしい先生と思ったこともありましたが、今日もう懐しいばかりです。私には今も先生のお顔が見えます。先生のお声がきこえます。
                                    〔高遊原伝道所牧師〕




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