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「賀川豊彦」のぶらり散歩ー作品の序文など(第155回『賀川豊彦全集14』第18回配本「月報18」)

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「梅雨の季節の須磨離宮公園(最終回)」(本日のブログ「番町出合いの家」http://plaza.rakuten.co.jp/40223/)



賀川豊彦」のぶらり散歩
   

―作品の序文など―

      第155回


賀川豊彦全集14』(第18回配本「月報18」)


  
 『賀川豊彦全集』の第18回配本は、昭和39年2月10日に「文学作品(小説)」として分類されている第14巻が刊行されました。

 今回の「月報18」には、「『死線を越えて』についての疑問」と題して鑓田研一氏(作家)、「僕は失望した」と題して長尾已氏(画家)などが寄稿しています。

 いずれも、貴重な文章ですので、前回と同じく箱表紙と本体の扉・写真と共に、月報の前記二つを取り出して置きます。また今回も月報に掲載されている写真も、鮮明ではありませんが取り出してみます。




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           『賀川豊彦全集14』第18回配本「月報18」

              『死線を越えて』についての疑問

                   鑓田研一


 「死線を越えて」は――正確にいえば、その前半の、初め「鳩の真似」という題で書かれた部分は、果して「遺書」としての性質を持っているかどうか、というのが私の疑問である。

 私の書いた伝記小説「賀川豊彦」(昭和九年十二月刊)に、次のような一節がある。

 「ある日の午後だった。八太がめづらしく遊びに来た。賀川は机にかぢりついて、右手にかたく筆を握ってゐた。そのそばには陶器の痰壷が置いてあった。
 「何を書いてゐるんだ?」八太は机の上をのぞき込むやうにした。
 賀川は答へないで突っ伏した。
 「君、どうしたんだ? あまり真面目すぎるのも程度だぜ。」と八太はきめつけるやうに言った。
 賀川はやっと顔をあげ、手の甲で荒く涙をふいて、
 「俺の淋しい生涯を書き遺すんだよ。」と言った。
 改めて机の上を見ると、なるほど、厚く綴ぢ合はされた原稿が置いてある。そしてその表紙に『鳩の真似』と書いてあった。」

 これは想像で書いたのではない。材料の提供者は、文中に登場している八太という人である。
 八太の名は舟三といい、のちにアナーキズムの大立物になった人だが、当時は明治学院普通部に席を置いていた。神学予科の賀川にとっては、一種の先輩であった。
 「俺の生涯を書き遺すんだよ。」という涙まじりの言葉は、真実だったにちがいない。なぜなら、肺結核になって「死」と対決するという極限状況が、それを虚構と見ることを許さないからである。
 一言でいえば、『鳩の真似』は遺書として書かれたのである。少なくとも、この処女作を書き出した動機は、自分の半生涯を描いて、遺書としてこの世に残すということだったのである。

 ところが、いま改めて『死線を越えて』(『鳩の真似』に重点を置いて)を読みかえしてみると、何よりも先に、フィクションがあまりに多いことに気づく。
 フィクションという語には、作り話とか作り事とかいう意味がある。小説をフィクションと呼ぶこともある。小説は事実と対立し、事実は素材としか言えないからである。
 『死線を越えて』の全編にわたって、事実とフィクションとのふるい分けをすることは、紙幅がないので許されないが、明治学院時代の賀川は、すでに出生地の神戸にも、少年期をすごした阿波にも、帰るべき家を持っていなかった。父も故人になっていた。

 作者自身だと信じられて来た新見栄一は、悪徳の名の高い父を持っている。新見自身も、茶屋(待合)で二人の芸者に挾まれて川の字になって寝たりする。 
 こんなフィクションで飾られた「死線を越えて」は、極限状況のきびしい雰囲気の中で書かれるべき、事実の追求を生命とする遺書とは言えないと思う。『死線を越えて』はあまりに小説的である。

 この作品が書き出されたのは明治四十年で、この年の九月には田山花袋の『蒲団』が発表されたし、前年の三月には島崎藤村の『破戒』が自費で出版された。絢爛な形式美に最高の価値を求めた硯友社文学を否定して、最初の一歩を踏み出した自然主義は、早くも全盛期を迎えようとしていた。

 賀川は新鮮な自然主義文学に、どれほど広く、どれほど深く接触したか、それを実証するに足る確実な資料を私は持っていない。しかしこごで断定的に言えることは『死線を越えて』の表現技術は非常にリアリスチックであり、その限りにおいてこの作品は自然主義文学の系列に属するということである。                                                 〔作家〕

   




                   僕は失望した

    パ               長尾 己


 賀川豊彦君、なつかしや賀川豊彦君、私には賀川先生とはどうしても呼べないのだ、豊彦君と呼ぶのが一番親しく感ずるからだ、それは彼と共に青年時代から我家で寝食を共にし兄弟のように育って来たからだ。

 君がはじめて私の家にやって来た時、紺かすりの着物を着てぽろに近い袴をはいていた、彼の十九才の時である、やせ細っているくせに比較的大きな声を出してしやべる、しかもそのしゃべることがどんな話でも話が大きい。もしかしたらこの男誇大妄想狂ではなかろうかと思ったこともあった。しかし月日が立つにつれて、なんでもよく知っている男だと言うことに気がついた。この時既に明治学院のライプラリーはみんな読んでしまったと言うていたから驚く。

 私の家にやって来てもはじめの頃は家の中で読書ばかりしていたがのちには外出して外の空気を吸うようになった。その頃なんとのうさみしそうな男に見えたのは家庭愛に恵まれなかったせいであったのだろう。だが私の家にやって来てからはだんだんと朗らかになって来たように思える。

 平和な貧乏伝道者の家族の一員に加わって彼は幼き頃の朗らかさを取戻して来たのだろう。夕食の時には大きな声を出して笑うようになった。

 或日笑ったはずみに喀血した。既に胸を患って三期に達していたのだ。彼が憂欝な顔つきをしていたのは胸を患っていたせいもあったのかも知れない。血の仕末は私の母と姉とでしたが、わが子を十人抱えた上の豊彦君の世話は、母にとって並大抵のものではなかった。しかし母はなんらいやな顔一つしなかった。豊彦君をわが子同様にもてなした。

 一番上の姉は胸を病む青年の身の上にいたく同情を寄せ、あとう限りの世話をした。豊彦君も姉の愛情に心うたれ思慕の念を抱くようになったのも当然であったろう。のちに彼は友人富田満を姉と見合せたが、二人の結婦後、豊彦君は姉に対して「僕はさみしく失望した」と告白している。

 豊彦君はのちに『死線を越えて』を著わしているが、あの中に出てくる女性のモデルの中に、ひそかにありし日の姉との思情を物語っているのを見るのも宜なるかな。

 君は菜食主義だと言って肉を喰わなかった。母が肺病患者は野菜ばかり食べていたのではカロリーが足りないと言って魚肉をすすめたが、君ははじめの中は中々母の言うことを
きかなかった。だが、のちには母の説得ににが笑いをしながら、しぶしぶ食ぺはじめた。

 君は一度言い出すと自説をくつがえさない強情さと信念とをもっていたが、私の母と父の言うことはすなおにきいていたようである。よほど信頼していたものと見える。

 高木誠一と言う不良青年の長髪をたしなめるに、父は自らの頭髪とあごひげをすり落した。この父の身をもって範を示した態度を見て、豊彦君はキリストの愛に依る実践の哲理を学んだ。

 父が或日の夕暗近く外出先からの帰途、小出三吉と言ういざりの乞食を引張って来た。母が自分の夕食を与え、父が聖書を渡して話をしている様子を見て、賀川は「基督教はこれだ」と叫んだ。君のひとみは美しくかがやき、口元はしかと堅く結ばれた。異状な決意をしたのである。彼は其後、神戸の新川の貧民窟に身を投じた。

 その後、父は名古屡に転居し、賀川は神戸に去ったので、小出三吉は引つづいて愛の手を差しのべてくれる者がなく世をはかなんで自殺した。

 或家の物置の片隅で父から貰った聖書をしかと胸に抱き、エンピツのはしりがきの遺書を傍にして、首を縊って死んでいた。遺書には
 「長尾先生は神様だ、賀川さんはえらい人、わたしは主のところに来ります」
とたどたどしい字で書いてあった。神戸の賀川に小出三吉の自殺したことを伝えたら、彼は慟哭久しうして顔を上げ得なかった。
 
 あゝ豊橋時代の賀川豊彦君、懐しき限りだ。             
                                           〔画家〕






               賀川先生の想ひ出(上)

                 木立 義道


 大正十年一月、神戸葺合新川にある賀川先生の事務所で私は働かせてもらうことになった。それまで、私は神戸兵庫の西端にあった橋本汽舶の苅藻島造船所に鋳物工をしていた。たまたま大阪藤田造船所職工をして友愛会の幹部だった野田律大氏(後に労働総同盟が分裂して労働組合評議会の委員長となった)が、組合の組織宣伝にやって来て、私をいつの間にか「友愛会苅藻支部幹事を依嘱する」といった、友愛会長法学士鈴本文治名の辞令めいたものが与えられた。

 不景気首切りで同造船所にストライキが勃発するや若輩の私が代表におしあげられ、これが契機となって神戸の労働運動にも顔を出すようになり、連合会の会合などで賀川先生を知るようになった。

 もっとも、当時神戸には毎日新聞には村島帰之さん、朝日には岡成志さんというような
立派な記者がいて労働運動には好意をもって書いていたし、賀川先生のことについてはよく紹介されていたので、その程度の先生の思想や事業は承知していた。

 先生の許で直接働くようになった機縁は、先生や川崎造船所職工の青柿善一郎氏等の首唱で発起された神戸消費組合創立準備のため、鷹取工場支部の堀義一氏の推綬によったものであった。
                     
 このような事情からであったので、私としては当時は先生の信仰や思想に共鳴し、又貧民窟事業に情熱を燃したものではない。多くの青年立ちが出入りした中に、労働組合側からは行政長蔵、安藤國松氏等の名が記憶に残っている。

 北本町六丁目の貧民窟の表通りの見すぼらしい二階家が先生の事務所で、階下が伝道所、診療所に使われ、二階は先生の書斎であり、又関係の社会運動、社会事業の会合に使われていた。

 私の仕事は消費組合の設立準備ということになっていたが、事実は先生の多方面にわたる活動のお手伝いの方がむしろ多かった。間もなく賀川先生、杉山元治郎先生と共に日本農民組合の組織が発表され、そのお手伝い、また労働組合との連絡、地区困窮者の世話等々、このほか未信仰の私に聖書研究の助手めいたことまでやらせられたのには閉口した。

 私は先生の社会運動における思想的立場には幾分の理解をもっていたが、こと信仰上のことについては個人の自由に属することとして、礼拝や、祈会等の集会からはいつも逃避していたものである。

 そのころ、貧民窟に松井という沖仲仕をしていた男がいた。賀川先生もずいぶんめんどうを見たらしいが、酒癖が悪く、当時先生の『死線を越えて』の莫大な印税が入ったことを耳にして、俺達のことを書きやがってもうけたんだろうとたかりに来ていた。一夜事務所で大暴れをしたことがあり、周囲の者もハラハラしたが、先生御夫妻は少しもあわてずただ黙然と祈られていた。このときの光景は私の魂に深く印象づけられた。
                                     〔中ノ郷信用組合員〕





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