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「賀川豊彦」のぶらり散歩ー作品の序文など(第156回『賀川豊彦全集9』第19回配本「月報19」)

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「<あすてっぷKOBE>前の像」(本日のブログ「番町出合いの家」http://plaza.rakuten.co.jo/40223/)



賀川豊彦」のぶらり散歩
   

―作品の序文など―

      第156回


賀川豊彦全集9』(第19回配本「月報19」)


  
 『賀川豊彦全集』の第19回配本は、昭和39年3月10日に「哲学・経済・社会学」として分類されている第9巻が刊行されました。

 今回の「月報19」には、「『預言者の子ら』の一人」と題して古屋安雄氏(国際基督教大学教会牧師)、「神視社と兵庫信用組合」と題して谷部光司氏(中ノ郷信用組合企画室)などが寄稿しています。

 いずれも、貴重な文章ですので、前回と同じく箱表紙と本体の扉・写真と共に、月報の前記二つを取り出して置きます。また今回も月報に掲載されている写真も、鮮明ではありませんが取り出してみます。




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           『賀川豊彦全集9』第19回配本「月報19」

               「預言者の子ら」の一人
              
                 古屋 安雄


 一九六二年は米国長老教会の最古最大の神学校である、プリンストン神学校の創立百五十周年であった。カール・パルトの連続講演をもって一昨年四月に開幕した、多彩な記念諸行事は、昨年の六月、パウル・テイリッヒによる卒業礼拝の説教をもって閉幕したのであるが、卒業式の当日、記念事業の一つとしてかねてから企画されていた本が出版された。題名は「預言者の子ら」(Sons of The Prophets)であるが、「プリンストン神学校からでたプロテスタントの指導者達」(Leadrs in Protestantism ffrom Princcton Seminary)という副題がついている。過去百五十年間に同神学校で学んだ学生のみならず、教授として教え、また理事として援助した、多くのプリンストン関係者の中から、今日なお現代のキリスト者にチャレンジするところのメッセージをもち、信仰の生涯を生きぬいた十二名をえらんで、その人々について書かれた評伝論文集である。その十二名の中にはアメリカ以外ではほとんど知られていないアメリカ人もいるが、わが国にも知られているアメリカ人では、「組織神学」のチャールス・ホッジ、「もう一人の博士」のヘンリー・ヴァン・ダイクや、「キェルケゴール」のウォルター・ロウリーなどがいる。アメリカ人以外では二人だけで、一人は最近来日したチェッコスロヅアキアのジョセフ・ロマドカ、もう一人はわが賀川豊彦である。(ブルンナーも予定されていたが、執筆者の都合で、他の論文集に収録された)

 私が同校の同窓生でもあるよしみもあって、賀川先生については私が害くようになったが、プリンストン神学校は開校からでた誇るべき「預言者の子」として賀川をえらんだものである。非欧米人は賀川だけである。しかし賀川は一九一四年(大正三年)からわずか二年間、同校に在籍していたばかりでなく、当時の極めて教条主義的な同校の神学には興
味がもてず、「特に学ぶものはない」 といって、むしろ隣接のプリソストン大学で心理学、数学、生物学の勉強に専心したのであった。神学の講義よりも教室の机の上の落書きをしらべて、アメリカの学生心理を研究する方がおもしろく、ある机で「四十二の女の顔」を数えていた神学生であった。この落書きの件は私の原稿を読むまで、編集者の教授達は御存知なかったであろう。しかし彼らは賀川のいわゆる反神学主義については承知の上で、いやむしろそれ故にこそ、賀川を十二名の「預言者の子ら」の一人としてえらんだのであった。

 賀川の反神学主義といったが、厳密にいうならぱ賀川はある種の神学に対して批判的であったのであって、彼自身は常に神学していた神学者でもあった。彼が排撃したある種の神学とは、神御自身よりも神についての知識、キリスト御自身よりもキリスト論を愛するような誤れる神学のことである。よきサマリヤ人になることよりも、隣人愛とは何かと議論することの方が、信仰的であり、福音的であるかの如くに説く、頭だけ口だけのインテリ信仰と神学主義を激しく批難したのであった。日本で賀川はほとんど評価されなかったという「神話」が、今なお外国でも信じられているが、その原因の一つはわが国のキリス
ト教界の一部、しかも極めて影響力のある一部が、神学主義者であったからである。逆説めくが、賀川ほど故郷のキリスト教界内外の一般大衆から広く敬愛された預言者の子はこの国にはいなかったであろう。しがし有弁な神学主義者達が彼を無視しようとしたために「神話」が出来上ったのである。今日神学界ではブルトマンの提唱した新約聖書の「非神話化」が論ぜられているがそれが、遂行されたときよりも賀川評価の「非神話化」が完遂されたときの方が、わか国の教会の体質改善と福音の前進とがみられるときであろう。
                                  〔国際基督教大学教会牧師〕
   




                神視社と兵庫信用組合

                  谷部 光司


 墨田区東駒形にある中ノ郷信用組合は、先生が東京で組織された協同組合運勁の数ある実践の一つともいえよう。他に中野医療協同組合があり、かつては江東消費組合があった。

 大正十二年九月に関東地方を襲った大地震は東京を未曾有の大混乱と焼野原におとしいれた。賀川先生はこの報を聞きいち早く海路上京して、当時本所松倉町と称したこの地区に本拠をかまえて、神戸からいっしょにきた青年だちとイエスの友会の人々と共に、救護運動に大活躍をされた。精神面の混乱をさけるために伝道集会を各地に開き、物資面では神戸より送ってくれた救援品を配布し、人事相談、職業紹介と日夜奮闘を続けた、現在でも墨田区横綱町にある東京都慰霊堂(昔は震災記念堂と称した)には当時の惨状を語る絵や写真が保管されている。

 当時或る篤志の人から賀川先生のこの仕事に敬意を表され金一千円を寄付されたことがあった。先生はこの金で金融面の救済を行なおうとし、その名も神視杜(神がこれを見給う)と名付け、無利息で附近の人々に貸付けた、しかし実際にやってみると、返済の滞るもの、行先不明になるものが続出した。またそれ以上悪いことには、金融の知識が皆無で、借りた金を貰ったつもりになる人が少なくなく、感謝の気持を表わす人々が少なかったのである。いわゆる救護ズレをしていたのであった。この様に金融事業の難かしさが痛感されたものである。

 さきに先生は、東京の隣保事業を続けるために、本所基督教産業青年会を創立し、この人々と共に簡易宿泊所、日曜学校などを行なってきたが、神視社で金融問題の必要性を痛感せられ、金融面を徹底するために、信用協同組合の設立を考えられていた。

 現在地の旧地名を採ってその名称も「中ノ郷質庫信用組合」として、昭和三年六月に設立認可を得たのである。

 この信用組合の最初の事業は質屋であった。現在でも質庫を事業分野におさめて、全国でも唯一つの空前絶後の特色ある信用組合で、政府はこれ以外は許可していない。

 最初は「ヤソが質屋を始めた」と好奇の眼で見ていた周囲の人々は、中ノ郷が低率の利息と流期の長いことなど、当時の質屋金融では考えられないような、有利な庶民金融を行っているのを知り、「あの質屋は俺遂のためになるところらしい」と変って行き、利用者も日を追って増加して行っだ。また各新聞はこの特異な質庫信用組合を宣伝報道してくれた。

 しかしながらなれぬ仕事の悲しさ、鰹節の桶詰めと思って質に預ったところ、上辺だけで鰹節であとは籾殼や石であったりのインチキもの、朝食を済ませてご飯の入ったお櫃を質入れして電車賃を借り、夕べに手間賃をもらってから受出しにくる常連。

 それでも金融の知識を徐々ながら、附近の人々に知ってもらった。

 一方では組合員の貯蓄心の育成と、質貸付の資金源として小額の日掛積立金貯金を始めた。中ノ郷賃率信用組合の役職員は、毎日家庭を廻ることによって組合員の人々と接することが出来、いろいろな相談相手になることも出来た。これが現在の貯金部の前身である。

 初代の組合長は当時明治学院総理の職にあった田川大吉郎先生、賀川先生は他の仕事の都合で理事に名を運ねた。そして第二次大戦後田川先坐は健康上の理由で辞任され、賀川先生が組合長の職につかれた。

 賀川先生の永眠後、神戸から先生に従って上京し終始先生を助けてきた木立義道氏が、第三代の組会長に就任し、理事は現在においても、ほとんどが創立当初よりの人々である。職員一四〇名の大世帯になった現在でも、賀川先生の遣志を継ぎ、愛の奉仕の気持で庶民金融に徹することを使命と考え信用協同組合事業を続けている。
                                  〔中ノ郷信用組合企画室〕
   




                賀川先生の想ひ出(下)

                  木立 義道


 もともと無口の私は、同時に他人の語る言葉よりも実際の行状、生活に目をつけるくせがあるらしくこの出来事を見てから、先生の社会的名声よりキリストに対する忠誠と、その行者的態度にうたれた。それからというもの私は先生のその信仰にあやかりたいと聖書の講義にも出るようになり研究するようにもなった。それにも拘らず頑くなな私の魂はなおも低迷を続けて信仰の告白に践み切れなかった。先生は意識してか無意識にか私に聖書講義の梗概の作成(当時先生は毎週の聖書講義に半紙いっぱいの梗概を謄写されて使用された)の手伝いや、聖句の引用、照合など指導された。このようにして私の聖書に対する限は少しずつ開かれキリストの血による贖いよらねば救にはいることの出来ぬことを悟り、遂に入信を決意して先生から洗礼を受けるに至った。イエスが耳が聞えず、口のきけない人を群衆の中から連れ出して両耳に指を入れ、またつばきでその舌を潤してその耳を聴えしめ、舌のもつれを解いた(マルコ七ノ三三)の奇蹟は、私にとっては賀川先生であったのである。

 大正十二年八月末東京イエスの友会の後藤安太郎氏等の努力によって、御殿場東山荘において「イエスの友第一回修養会」が開かれることになった。先生は私をとくに伴われた。静寂な山荘における祈会の経験、又先生の「ヨブ記の研究」は来会者一同と共に大きな感動を受け、私の耳は神の言葉を判っきり受入れるようになった。

 帰途、東京における社会事業を見学するよう賀川先生にすすめられ上京したが、二ッ日目の九月一日の関東大震災に遭遇し、辛じて七日神戸に帰ったが、賀川先生は早くもこの間海路上京されて具さに惨状を視察され引返されて救援運動を起されているところであった。早速先生のお伴をして学校、教会等に実状を報告訴えて救援物資を集めこれを携え、先生は深田種嗣氏(現国分寺教会牧師)薄葉信氏と私の三人の青年を率いて長崎丸に乗じ東京に向った。

 東京における先生の活動は誠に超人的というの外なく、私には現在もなお生々とし想出となるのである。本所松倉町に設けられた天幕、バラックを本処とした本所基督教産業青年会のセッツルメント事業は、罹災者救恤、附近勤労庶民階級のため各種の施設をしたか、その後幾多の変遷を経て、今日では東駒形教会を中心として光の園保育学校、中ノ郷信用組合が残されて継続されているに過ぎない。しかし先生の信仰、思想は広く高く多くの人の魂に植えつけられたことと思う。

 昨年十月二十日東駒形教会において創立四十周年記念の礼拝と感謝の集りが催されたが、私にとって土にまぶれた一介の鋳物工が、先生のお導きによって今日あることにただ感謝せずにはおれなかった。
                                    〔中ノ郷信用組合長〕




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