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「賀川豊彦」のぶらり散歩ー作品の序文など(第161回『賀川豊彦全集24』第24回配本「月報24」)

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「私たちの住宅の庭(続き)」(本日のブログ「番町出合いの家」http://plaza.rakuten.co.jo/40223/)



賀川豊彦」のぶらり散歩   

―作品の序文など―

      第161回


賀川豊彦全集24』(第24回配本「月報24」)


  
 『賀川豊彦全集』の第24回配本は、昭和39年8月10日に「文学作品(随筆・旅行記・その他」として分類されている第24巻が刊行されました。

 今回の「月報24」には、「強い感化力」と題して杉山元治郎氏(日本クリスチャンアカデミー名誉理事長)、「うちの本」と題して賀川梅子氏(雲柱社主事)などが寄稿しています。

 いずれも、貴重な文章ですので、前回と同じく箱表紙と本体の扉・写真と共に、月報の前記二つを取り出して置きます。また今回も月報に掲載されている写真も、鮮明ではありませんが取り出してみます。




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            『賀川豊彦全集24』第24回配本「月報24」

                   強い感化力

                   杉山元治郎


 賀川全集月報の最終刊の発行に発って、一言述べることの出来るのは私に取って光栄である。最初全集の発行に当っていろいろの意見があった。文字通り賀川氏の著書全部を網羅すべきであると、そうすれば四十冊以上にもなり、毎月一冊宛の発行にしても三年以上にもなり、会費が三万円以上にもなり、いろいろな方面に困難があると考え、最後に発行期間を二か年とし、先生の著書中著名なるもののみとしたのであった。幸に編集者諸賢の非常な努力と共に、最後まで協力された読者諸君に深く感謝する次第である。

 賀川先生は御承知の通り博覚強記の方で、例へば農業問題について話したこちらは忘れているが、賀川氏はちゃんと覚えており、何かの話の際それに肉を付け血を通わして立派なものに仕上げる作者であった、賀川氏から聞くと一つの立派な話も、元は我々のつまらぬ話が素材になっていることが往々あるのである。

 賀川氏は米国のプリストン大学にいた時、図書館の大英百科全書を全部読了しこれを強記していた。折にふれその博学の知識はひょいひょいと出て来るので、いろいろの学者連も自分の専問の領域において 一流の学者にも劣らない識見に敬服しておったのである。

 そのように賀川氏の著書には専問の基督教に関するものの外に、自然科学あり、社会科学あり、経済学あり、哲学あり、詩あり、小説ありというように行くところ可ならざるはなしで、著書を通じて氏の人となりがよく現はされているのである。

 賀川氏は人に対して厚いが、已に対してごく薄かったことは、冬は若いころ賀川服と称するコールテン服ですまし、夏は木綿の小倉服でおられたことによっても知られる。氏は受けるよりも与えることの幸福を深く感じておられた人で、財布に少しでも金があれば他人に与えたくてしかたのない人である。私はこうした経験をいくつも持っている「杉山君小使があるかね」とよくいわれる。そのような場合に馬鹿正直に「ありますから結構です」と答えると御機嫌が良くない。少しは持っていても「先生頂けますか、あれば少々下さい」というと御機嫌で、にこにこしながら若干の金を下さるのある。そうであるから先生は多くの人々に金を下さる約束をする。時には一円の金もないことがある。与えたくもないのだから仕方がない。そのような時に賀川は約東を破ったとか何とかいって氏の悪口をいう人がある。それは賀川氏の一面のみを見て全体を見ていないからである。

 私は全的に賀川氏に敬服する、氏も人間であるから時に怒ることがあろう。ことに感情の高い詩人であるから我々よりも怒ることがあろう、併しさらッとして毒気がない、いろいろな欠点も現われる時があろう、しかし全体を通して氏の如きまねは出来ない、私は全的に賀川氏に敬服する。そして教えられるところは非常に多い。

 こうした賀川氏の人格は著書の内に充分現われているから、氏を直接知ると否とに拘らず、賀川全集を座右に置けばきっと強い良い感化を万人に長く与えるだろうと私はかたく信じて疑わない。
                           〔日本クリスチャンアカデミー名誉理事長〕





                   うちの本

                   賀川 梅子


 私共の家には本が沢山あり、私たちは本にかこまれて育ったものでした。本の方が大切で人間はそれに従って生活するようなものでしたから、ある時私の友人が私たちの家に遊びに来て、まず家がボロなので驚きました。そして次に本が沢山あるので驚き、帰る時、父豊彦が何のためにお金を使ったかよくわかったといって帰ったことを今でもよく覚えています。

 私も本を読むのが大好きで、いつもおせんべいをボリボリたべながら続んでおりました。私は父に科学や歴史の本は読んでもよいが、小説は悪い影響を与えるからよんではいけないと禁止されておりましたので、世界文学全集とか、現代日本文学全集とかを読む時にはI袋のおせんべいと本とを持って人のいない部屋を探し、息をひそめて読みました。ことに頁をめくる時と、新らしいおせんべいをたべ始める時には神経を集中して音をたてないようにするのに苦労しました。こうして中学の終る頃までに家にあった本で私が読めそうな本は大体よんでしまいました。どんな本があったかを知るには明治学院にできた賀川文庫の目録を見れば大体わかることですが、百科辞典を始めギリシヤ文学、支那歴史、百万人の科学、アインシュタインの相対性原理、ナショナル・ジオグラフィック等々手あたり次第読みました。これらはすべて文字として読み、画として見ただけで、系統だって読んだわけでもなく、批判的に読んだわけでもないのでその内容をほとんど忘れてしまいました。大学に入って友人たちから本をどうやって読むかを教えられ、始めて自分が無駄な読みかたをして来だのを知って今では残念に思っています。

 家のなかにあった本で私の読めるものをほとんど読み、読むものがなくなったので本を買いたいといいましたら、母がこんなに本があるのにまだ慾しいのかといわれたことを今でも覚えています。

 子供の私にとって一番わからなかったことは、父がとうてい自分では統みきれない本をどうして沢山おいておくのかという事でした。外国の本ではまだ頁の切ってない本もかなりあった事を覚えています。しかし、自分で原稿や論文を書くようになると、本とは必ずしも始めから読んで最後まが行かなくとも、自分にとって必要な所を索引で引いてその人が何をいっているのか確かめるためにも必要なのだということを知り、なる程と思いました。更に大きな部厚い辞書は実用にも使はれ、時に椅子の高さを増すために子供たちのお尻の下にひかれる事もありました。沢山あった本棚は蔭れんぼをするにも便利でした。

 ヨーロッパの学者たちは代々本を受けつぐので幅の広い奥ゆきのある学者ができるのだそうですが、本が廻りに沢山あってうず高く積み上げてあると自然に本に親しみを感じるようになるのだと思います。これまであった沢山の本がなくなり不便ですが、明治学院におかれ、賀川文庫として多くの学生や一般の人々に親しまれ利用され、これまで私を育ててくれたように一層多くの人々を育て教育するようになれば父も努力して本を集めたかいがあったと考えていることだろうと思います。
                               〔賀川豊彦次女、雲柱杜主事〕




                 代議士製造業者

                  杉山健一郎


 神に捕われた人賀川豊彦先生は、神戸神学校在学中のある年の十二月二十四日の夕方、自分の夜具とみかん箱につめた蔵書を大八車に積んで熊内の坂を下った。落ちつき先きは葺合新川の貧民街の木賃宿の一室であった。翌日附近の子供を呼び集めてクリスマス祝会を開いたのが、底辺伝道のさきがけというべきだろう。

 牧師というには、あまりにも型破りの異彩を放っていた。当時神戸市の社会課長木村義吉(元牧師)は、「ケタはづれだ」といっていた。賀川先生がプリンストン大学神学部に学
んだ時これくらいのことを勉強するのなら米国に来る必要はないと他の学部で数学、自然科学、生理解剖学等の畑違いの学科を学んで神学部を卒業した。

 先生のキリスト教の根本をなすものはルカによる福音書第四章のナザレ宣言によるものと推察される。すなわち貧しき者が、獄にある者が解放されることだ。貧乏人を政治的、経済的、社会的に解放することだ。農民、労働者、婦人の解放で、殊に普選運動のためには第一線に立ち、神戸の市街を乗鳥でデモンストレーションをしたことがあった。

 大正九年十月「死線を越えて」が改造社から出版されるや暗黒社会が明るみに照介され、青年学徒を始め一般読者はわれもわれもと買って読み洛陽の紙価を高めた。

 版を重ること二百何十版というから、その印税はぱく大なものであった。現在の金にすればおそらく何千万というのだろう。いったいその金はどこへ行ったろうと思う人もあるだろう。先生はこれを惜しげもなく福音伝道のために使った。貧民階級の医療のためにイエス団友愛救済所の財団組織の基本金に投げ出した。診療は無料であった。投薬、医師、看護婦を始めその経費は多額に及んだ。次に大阪の川口教会を会場として労働者学校を設立した。この時西尾末広が賀川先生に学校設立の資金に千五百円か二千円出してもらうつもりで先生を訪ねたところ、先生はぽんと即座に八千円くれたのには驚いたと話していた。

 ここから多くの労働者出身の代議士を世に出した。井上良一、河合義一、浅原健三、府県会の議員としては行政長蔵、山上某又農民出身者もあり、数えれば相当の数である。友人関係にある現社会党河上丈太郎氏を始め、杉山元治郎、阪本勝、松沢兼人、三宅正一、民社党首諸氏の選挙にはきっと先生は資金を調進してやった。またこれらの人々の選挙応援のためには骨身をおしまなかった。遠近を問わず寝食を忘れ、文字通り代議士製造業者であった。浅原健三は「熔鉱炉の火は消たり」の中に賀川先生から資金の援助を受けて立候補したと書いている。

 日本の無産政党のためには心身を粉にして尽力された。当時は今曰のような民主的な思想は皆無で東京基督教青年会講堂で警官のものものしい警戒のもとに綱領、宣言を可決し、「無産政党成立万歳」をしたあと二時間後には弾圧を食って解散させられた。最初の党首は元衆議院副議長杉山元治郎氏であった。

 第二次世界大戦は厳粛な神の審判を受け日本が敗戦して軍備が解除され丸腰となった日、民主々義は芽をふき初めた。そこで水谷長三郎、三宅正一その他が、キリスト新聞社に賀川先生を訪ね、社会党の統一を依頼した。このため賀川豊彦、高野岩二郎、安部磯雄、三氏の発起人で新らしく統一した社会党が成立した。

 かつて片山内閣が成立し、参議院改選期に際し是非立候補してほしいとの要望があったが、その時「僕は代議士の育成はしたが、自からは政治家になりたくない」といっていた。

 この問題はイエスの友の中央委員会に一任された。中央委員会では慎重に問題を扱い、「先生は福音の戦士であり、政治家として泥沼に生きる人ではない」との意見で、私どもは新橋の片山事務所に辞退願を持参じた。

 社会党が衆議院に議席を三分の一を占めるようになったが、昭和三十四年十月臨時大会では民主社会党が現われた。先生はとうとう召天まで社会党顧問であった。

 賀川先生の著書「死線を越えて」「太陽を射るもの」「壁の声きく時」の三部作の印税は社会解放と政治運動に使われ、そこから社会保障法が生れた。
                              〔日本M・T・L常任理事〕


   

                  ▲編集室から▼


▼本全集はこの最終巻をもって、ついに計画通り全二十四巻を刊行いたしました。愛読者各位またこの刊行に直接、間接にご支援くださった方々に対しまして心から感謝いたします。

▼ご承知の通り、本全集には賀川豊彦の著作のうち著名なものは、もちろん、そのほとんどを鋼集いたしましたが、まだまだかなりなものが残されており、これは後日またの機会に第二期計画といたしまして刊行さるべきでしょう。

▼その中には小説、紀行、聖書講話、説教といったようなものがふくまれております。賀川の著述活動がいかに活溌であったかをもの語るものであります。

▼またその遺墨にいたっては、たんざく、色紙をはじめ、半折、びょうぶにおよび、その数を知らず、聖書、さんびかの扉の揮毫までいれると、どれほど頼まれて書いたものかわからないでしょう。

▼米国にはいたるところに、びょうぶ、掛軸、横額など、かなりの大作、力作が見られるそうであります。

▼賀川の書は一種独特な品格のある、しかも美しい字でありました。行く先き先きで、誰もが賀川の一筆をほしがりました。
 このために賀川の足跡のあるところ必ず遺製があるわけであります。それかどこにも家宝のように保存されてあります。

▼「賀川豊彦遺墨集」なども刊行すればよいものができると思います。時代が移れば、自然消滅するものもあると思うので、賀川豊彦記念館といったものを造り、一か所に集めて保存しておけばよいのではないでしょうか。

▼本全集の巻頭に掲げたものと月報用に多くの写真を集めた関係上、賀川のいろいろな写真を見たのですが、これなぞも全国から集めてアルバムを刊行して、この世紀の巨人を偲ぶよすがとしたいものです。





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