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「賀川豊彦」のぶらり散歩ー作品の序文など(第182回:吉田悦蔵著・賀川豊彦序『湖畔聖語』)

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「柳原のえべっさん」(今日のブログ「番町出合いの家」http://plaza.rakuten.co.jp/40223/)


賀川豊彦」のぶらり散歩
   

―作品の序文など―

      第182回


田悦蔵・賀川豊彦序『湖畔聖話

  
 前回に続いて吉田悦蔵著『湖畔聖話』(大正15年、春秋社)を取り出して置きますが、本書も吉田の筆が発揮された逸品で、賀川豊彦の「序」も吉田悦蔵との友情を印象深く書き記しています。

 上製本で、貴重な写真も入っていて、ここでは賀川豊彦の序とともに収めて置きます。




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 何年前であったか、もう余り久しいことなので、判然した事は忘れてしまった、確か大正七年の春ではなかったかと思ふが、私は吉田君に連れられて、琵琶湖畔の村落傅道に出かけたことがあった。

 それはガリラヤ丸が出来て間の無いことであった。私は自転車でガリラヤ丸を繋いである堀割の奥まった所まで駆け付けて、気持ちのよい船長さんに迎へられた、そして近江の酉北部の傅道に出かけた。

 一行は吉田君の他に武田猪平氏、青年のチヤタニ君の二人が、私と一緒に行くことになってゐた。ガリラヤ丸は美い堀割の茅の繁った間を、湖水の方へ出て行く。あの辺りの景色は琵琶湖でなければ見られない柔かさがある。強いてその例を求めるなら、支那の楊子江の沿岸に似た柔かさである。殊に長命寺(私の記憶が間違ってゐるかも知れぬが)の附近に出て行くと、ピラミッド型になった山が湖水と相對して非常に美しい。それにチヤタニ君の出身地であると聞かされた大きな島が私の眼には、瀬戸内海の何處かで見る様に、実に美しくまた大きく見えた。

 琵甕湖は湖水の様な気がしない。ガリラヤ丸は瓦斯エンヂンの据った、相常に大きな船であるが、竹生島の辺りに出ると、太平洋にでも出た様に、船が揺れる。安土の城址が右手に輝いて見える。船は北西に進んで行く。二時間も走ったかと思ふうちに、中江藤樹先生の郷土に着く。私はあの感化の多い尊敬すべき近江聖人の跡を尋ねて、また船に引返した。西近江と東近江は文化の程度に於て、余程異った所がある。安土の文化は今日まだ八幡を中心にして、その面影を近江商人の豪放なやり方に残してゐるが、西近江は何がか遅れてゐる様に思はれてならなかった。

 その遅れた――然し考へ様によっては湖面が水準に落付いてゐる如く、変わらざる落付きを持ってゐる――その保守的な湖畔の村々に、ナザレのイエスの福音を話して廻ることは、何となくガリラヤの湖畔を擾がせた漁夫の一群に似ないわけでもないと思った。昼の間にビラを刷って、晩になると村の公會堂や、放館の廣間で、子供の會や、大人の會を次々に催して行くのであるが、何とも云へぬ風変わりな傅道旅行であると思った。大抵私は船で寝た。そんな放行を四日許り続けて、私はまたガリラヤ丸で近江八幡の堀割に帰って来た。

 この風変わりな傅道を思立ったのは、勿論、ヴォーリズ氏である。彼が約二十年前一中等學校の英語数師として、近江に来てから吉田兄を初め、村田兄佐藤兄の様な有力な弟子をつくり、近江に新しい空気を吹き入れたことは全く奇蹟的な出来事であった。

 織田信長が何故あんな便利の悪い安土に、あの様な尨大な城を築いたか、私は知らない。恐らくは北陸と東海道の敵があすこで防けると思ったからであらう。然し、彼處に咲いた南蛮文明はまた、一種特有のものであった。信長の信じたキリスト教は、愛の宗数ではなくして、一種のマホメツト教の様なものであったらう。然し、今日ヴォーリス君を中心とする近江の兄弟達の手によって、新しい装ひを以て安土の山蔭に、再興せられようとは何人が期待したであらうか。

 信長の雄圖は、近江商人の資本主義的実力の中に今日も残って居る。大阪に於ける近江商人の勢力と云ふものは、実に絶大なものである。恐らくは信長の後を嗣いだ秀吉の城下に近江商人が喰入って、今日尚世襲的勢力が、今なほ保存せられてゐるのだと私は思ふ。そして、不思議にも近江の資本主義の中心は大津市ではなくして、ヴォーリスの群が居る八幡町である。であるから近江の実力は八幡町にあると云っても差支へない。そこに不思議な歴史的発展があって、今日まで全く忘れられた八幡町が、この芥種の一群で、世界に再び知られる様になったのである。つまり近江の兄弟達は、信長時代のキリスト教を、全く新しい型に於て再興すべき使命を負はされてゐるのである。これらの兄弟達は全く、愛と柔和の信條の外何物も持ってゐない。ヴオーリス兄弟も柔和であれば、吉田兄弟も柔和である。吉田兄はあの忙い経済上の心配の間に、何時も傅道に努力して居る。結核療養所の仕事だけでも、一つの大きなものであるに拘らず、毎年数萬圓を投じて、ガリラヤ丸を 中心とする近江各地の傅道事業は、普通の人間に出来ない大運動である。私はこの兄弟達に何時も敬服してゐるので、十数年前から、腹蔵なき相談に乗ってゐる。兄弟吉田は私の心より愛慕する友達である。彼は商買人の仕事をして居る。然し彼は天幕を縫ひつつ傅道した聖パウロの心持ちで、メンソレータムを賣ってゐるのである。彼の得る利益は、決して、一文だって彼が私するのではない。それを私は保証する。幾分でもその利益か残れば、結核療養所の経営と、数萬圓を要する湖畔の傅道に使はれてゐるのである。兄弟吉田は、人好きのする男である。永年つき合をしてゐても、厭になる所が少しもない気持ちのよい男である。彼のお母さんが篤信の婦人であった如く、彼もまた忠実なるイエスの僕である。私は彼を最も親しい友人の一人として持ってゐることを、私の幸福の一つに数へてゐる。私は彼の要求することは嘗て拒んだことはない。彼もまた私の要求を一つも拒んだ事を知らない。彼はどんなに忙くても、機會ある度毎に貧民傅道や、社会運動に疲れてゐる私を慰めるために、種々と心配して呉れる。彼の文章は平明で且つ優雅である。彼はその文章の様な人物である。彼がなければ、今日のヴオーリスがあったかないかは、私は疑問にする。兄弟村田が、ヴオーリスの左手なら、兄弟吉田はヴオーリスの右手である。実業家としても彼は、毛色の変わった実業家である。これ以上私は多く云ふ必要はないと思ふ。彼は必ずしも、仙人の真似をする男ではない。そうかと云って、極端な主義主張に現実の人間苦を忘れるような男でもない。私は彼のなすことの凡てに、理解と尊敬を持ってゐる。彼の云ふことを聞いてくれる人は、また私にとってもよき友人であると考へる。所謂世の実業家と云ふ人々が兄弟吉田の様な男になれば、日本の問題は大部分かたづくと思ふ。
 私は書物の序文の代りに、永年の友人としての吉田悦蔵を世間に紹介了る。

  一九二六年六月三〇日            
                武蔵野アンペラ小屋にて

                      賀   川   豊   彦



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