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「賀川豊彦」のぶらり散歩ー作品の序文など(第194回:松本清子著『劇画:賀川豊彦物語ー日本の生協運動の父』)

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「花壇の植え替え作業」(今日のブログ「番町出合いの家」http://plaza.rakuten.co.jp/40223/)



賀川豊彦」のぶらり散歩
   

―作品の序文など―

      第194回


松本清子著『劇画:賀川豊彦物語―日本の生協運動の父

  
 標記の作品は、昭和59年6月に灘神戸生活協同組合から発行され、話題を呼びました。

 本書には、著者が聴き手になって、賀川純基氏の「父を語る――賀川豊彦は、人に“生き方”を伝えることが、楽しくてしょうがなかったんですね。――」という貴重な記事も盛り込まれています。

 ここでは、当時の組合長理事の高村氏の「まえがき」(当時の新聞に掲載された「随想」と共に)と著者の「あとがき」を取り出して置きます。




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                    まえがき

                    高村 勣


 賀川についていま語ることの重要性を一番感じている一人として私はこの刊行を心から喜んでいます。賀川自身の著作を集めた全集をはじめ賀川をテーマにした著書は数多いが、これを劇画に仕たてたのは初めてのことではないでしょうか。現代は若者たちだけでなく活字離れとかで、どんな立派な論文を書物にして出版してもなかなか読まれないそうで、著者も出版社も大変な苦労のようです。

 そこで賀川についても、映画や芝居にして見てもらおうという試みがあるのですが、これも費用と観客見込みが相応せず、脚本ができていてもなかなか実現が遠いようですし、実現してもそう多くの人に見てもらう機会にはなり難いのではないでしょうか。巷に見るマンガブームからして若い人々向けには、今度の松本さんの労作は賀川への関心を高めるいとぐちとしては好個の材料になります。

 劇画と言えば荒唐無稽の作品が多く目につきます。私も子供のころはマンガをはじめ少年もの空想物語の世界にひたり込んで、忍者ごっこなどに無中になっていました。そしてそれなりに豊かな情操をはぐくんでくれたものと思っています。

 松本さんは賀川について二十数巻の書物などを資料とし、しっかり考証済みの材料でこの劇画を書かれたということです。その努力に敬意を覚えますが、そのような真剣な取り組み態度そのものが非常に大切なことです。絵の巧拙は私にはわかりませんがこれだけの材料を読ませる力を持っていることは確かで、構成の土台がしっかりしているからでしょう。

 この「賀川豊彦物語」が灘神戸生協の職員や組合員に広く読まれるだけでなく、日本中の仲間にも、広く社会的にも推奨したい。そして賀川を通じて生協を理解し、賀川の生涯から灘神戸生協に息づいている組織の精神に目覚め、生協運動への情熱に火をつけられる人が出てきてくれるのではないかと期待しています。

                                 灘神戸生協組合長理事



      付録:掲載紙の典拠不詳ですが、高村氏の当時の「随筆」が残っていますので、
         ここに収めて置きます。


                   賀川と神戸

                    高村 勣


 賀川豊彦生誕百年を四年後に控え、いま賀川の再発見の動きが関係者によってすすめられている。賀川全集二十四巻に収められた著述や、新しくできた松沢資料館に見る彼の幅広い才能と実践に驚かされるのであるが、彼が神戸に残した足跡は大きい。

 大正七年の米騒動は、神戸では鈴木商店焼き打ち事件となり、大正十年の川崎・三菱の長期ストライキは戦前の労働運動史上特筆されている。明治四十二年のクリスマスイブの日に二十一歳の若さで貧民救済に身を投じた賀川は、自らかかわったこの二つの事件で大きな衝撃を受け、その思想と行動の軌跡は変わっていった。スラムの生活で貧乏が人間をむしばむ姿を見たし、暴動や争議の闘いも挫折と分裂を味わことになって、彼の期待はひとつひとつ裏切られていった。そしてこの年に神戸でも貧乏をつくらない社会の仕組みをめざす生協運動が始まり、“灘”“神戸”の二つの生協が同時に誕生した。

 私は外国旅行しで灘神戸生協を紹介するのに、「あのドクター賀川の創った生協」と言えば足りる。彼の真骨頂はもちろん牧師としての神の国伝道にあろう。灘区に住むスウエーデン人の宣教師グンナルさんは、ストックホルムでの賀川の野外伝道集会で数千人の聴衆が集まり、雨が降りだしてもだれ一人さるものがなかった、と若い日の感動を語っておられる。アメリカでも熱狂的ともいえる追随者たちがあったが、聴衆の一人は彼の英語での熱弁に「彼の日本語はすべて分かった気がする」と語ったという笑い話が伝えられている。プリンストン大学をでた彼の英語以上に、訴える力をもっていたようだ。アメリカでの生協の多くは賀川の伝道の影響で生まれ、私どもと姉妹関係にあるバークレー生協もその一つである。
 
 戦後、平和と暮らしを守るために全国の生協運動再建の先頭に立ち、また神戸市の復興の顧問に迎えられた。東西に対立する二つの社会体制は自由か平等かの選択であろう。賀川の唱えた第三の選択である友愛の理想は、今日輝きを増しつつある。
                                (灘神戸生活協同組合組合長)


                    あとがき

                    松本 清子


 入所してもうすぐ一年たとうか、というころのこと。スキー帰りの列車の中でたまたま同席した男性に、「灘神戸生協を起こした人、知ってる?」とたずねられた。私は首をプンプンと振ったが、横にいた先輩が答えてくれた。「賀川豊彦さんでしょう」。

 その後、三ヵ月もたたないうちに、私も当時の「婦人学級」(職員教育のIコース)で生協の起こりを学び、再びその名前と出会うことになった。が、入所後丸一年もたつまで賀川豊彦氏を知らなかったとは、今思えば赤面モノである。

 時は過ぎて、昭和五十五年暮れ。来年度の『にじの友』の企画会議の中で、「賀川豊彦の一生をマンガで紹介しては」という提案があった。だれが言いだしたのかは思い出せないが、「やろう、やろう」とホイホイムードで決まったのは確か。それまで、カットやイラストは描いていたが、劇画なんて全く初めて。なのに、作者も私、と決まった。実にオソロシイ話である。初めてとはいえ、小学四年生のころマンガ家を夢みてエンピツでストーリーマンガを描いていたことはある。ところがたいていの場合、タイトルページを念入りに書き、登場人物を紹介するあたりでおしまい。根気というものがおよそない人間なのだ。だが、世の中よくできたもので、連載は毎月三ページずつになった。根気がつき果て、「も
うアカン」というころ、出稿というわけだ。

 まずは下調べというわけで、賀川氏の著書や伝記などを読むうちに、賀川豊彦の若かりしころの写真に出会う。なんと、中原中也か篠田三郎かというような男前! 当時芳紀まさに(?)二十四歳だった私の胸はドッキンと高鳴る。また、賀川ハルさんという女性の魅力にもグイグイとひかれながら、実に楽しく描き進むことができた。当初一年間の連載の予定が、友貞理事(当時の担当理事)の一声で半年のばすことになったり、連載中に結婚して子供が生まれたり、いろいろと思い出も多い。

 単行本になるなんて、うれしいけれど恥ずかしい。マンガの描き方は素人まる出しだし、説明文が多すぎたり……。「プロじゃないんだから、ゆるしてン」と甘えてみるには少々トウが立ちすぎているしなあ、などと自己弁護のしかたをあれこれ考えてみたりもする。今のところは「純基氏のインタビュー記事、いいですよオ」でなんとか五千部いくんじゃないか、なんてムシのいいことを考えているのだが……。

  一九八四年六月十二日


      松本清子(まつもと・きよこ)

 1957年4月長崎県佐世保市江永町生まれ、28歳。県立佐世保南高校を卒業後、1975年灘神戸生協に入所。観光部(現在はコープ観光株式会社)に配属。生協内部の資料にカットなどを描きはじめ、1978年10月から職員向けの内報『にじの友』の編集を担当。 1981年4月から同誌に17回にわたり「賀川豊彦物語」を連載。1982年8月より、機関紙『協同』の編集を担当し、現在に至る。広報部主任。一児の母。

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