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「賀川豊彦」のぶらり散歩ー作品の序文など(第197回:賀川豊彦記念講座委員会編『賀川豊彦から見た現代』)

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「2012オカリナフェスティバルin神戸」(今日のブログ「番町出合いの家」http://plaza.rakuten.co.jo/40223/)



賀川豊彦」のぶらり散歩
   

―作品の序文など―

      第197回


賀川豊彦記念講座委員会編『賀川豊彦から見た現代

  
 1999年5月に刊行された本書は、ここに隅谷三喜男氏の「まえがき」と目次のスキャンを収めて置きます。

 そして参考までに「あとがき」も加えます。



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                    まえがき


 賀川豊彦なる人物は、大正初期から第二次大戦後にかけて、次に述べるように、日本社会において、多くの人々に大きな影響を与えた人物としても、またその社会的活動の広さとその見識の高さにおいても、忘れられてはならない人物である。世界的にも最も広く知られた日本人であった。しかし残念なことに、近年日本社会において、彼の名は次第に忘れ去られようとしている。歴史的に影響力のあった人物については、多くの場合、その人物を絶賛する人がいる他面で、批判をする人々もいる。後述するように賀川の場合もそうである。

 賀川は明治の末年、神戸のスラムに入り込み、そこに住む色々な問題をかかえた貧しい人々の友となり、彼流の知識と筆とをもって『貧民心理の研究』なる一書を世に問うた。明治三〇年代から大正初期に、新聞・雑誌記者などで貧民街に興味をもった人々が、そこに入りこんで書いた文書がいくつかあるが、それは一般に「貧民街探訪記」的なものであった。賀川のようにその中に住みこみ、生活を共にし、それを分析したものは無いと言ってよい。その意味で賀川は日本におけるスラム解放運動におけるパイオニアーであった。

 その彼が次に関係を持つことになったのは、第一次大戦末期からデモクラシー運動とロシア革命の影響を受けて、急速に活発になった労働運動であって、その実践的・理論的なリーダーとなった。当時の労働組合の全国組織であった労働組合友愛会の一九一八年の総会で、新綱領とも言うべき「宣言」を起草したのは賀川であった。この労働運動がアナーキズムの影響で賀川の念願する方向に背を向けた時、彼は労働階級より大きな問題を抱えた農民の解放運動こそ緊急の課題と考え、一九二二年春には農民組合を組織し、その創立大会を開くのである。その農民組合運動は、その頃から影響力を持ち始めた共産主義運動の影響の下で分裂を見るようになると、賀川は運動の中心を、労働運動のリーダーとして活躍していた頃からその背後の運動として手をつけていた生活協同組合運動に移していった。彼は日本における生協運動の理論的・実践的な開拓者であり、これとの関連は戦後も続き、彼の影響は彼の死後今日まで続いている。このように、彼の社会運動との関係は全分野に亘り、それぞれの時点で開拓者として、又理論家として、大きな影響力をもった。このような人物は日本の近代史の中では他に見出すことはできない。

 ここで一言申しておかねばならないのは、平和運動とのかかわりである。彼は早くから平和について書き、語ったが、特に日米関係が緊迫した時には、平和使節の一員として訪米し、平和を訴えた。それゆえに、彼は憲兵隊から睨まれ、拘束もされたのである。戦時中の言論については問題がなかったわけではないが、戦後も世界連邦の提唱者として活動した。

 なお、彼の運動分野は上述したような社会運動の領域に止まらず、彼の人生がよって立つキリスト教関連の運動に於ても、比肩する人物を見出し得ないほど幅広く強力であった。彼はもともとキリスト教の神学校の卒業生であり、一九一四年にアメリカに留学したのも、神学の勉強が中心であり、一六年にはプリンストン神学校から神学士の学位を得ている。そして、一九年には牧師となる按手礼も受け、二二年には彼をリーダーとして「イエスの友会」が発足する。それは活発な活動を展開し、今日に至るまで存続している。その側面で、全キリスト教会を捲き込み、彼が中心となって全国的に展開されたのが、二六年に発足した「神の国運動」である。それは二九年、三〇年の大恐慌・大混乱の時期には、いっそう活発に日本のキリスト教界の力を結集し、全国的に運動を展開した。賀川の赴く所、会衆は堂にあふれた。

 だが、賀川を理解するためには彼のもう一つの側面を紹介しなければならない。それは詩人・小説家としての賀川である。この側面で彼が最初に刊行したのは詩集『涙の二等分』(一九一九年)である。そして彼を社会的に有名にしたのはその自伝小説とでも言うべき『死線を越えて』(一九二〇年)である。これは当時ベストセラーとなり、彼の名を広く社会に知らしめるとともに、彼の活動資金の供給源ともなった。彼はその後いくつもの小説を書いている。

 本書はこの広く社会運動の理論家・実践家であり、キリスト教界の指導者であっただけでなく、詩人・小説家であった賀川豊彦と、そのどこかの分野で交友関係をもったり、影響を受けたり、関心をもったりした方々の、これまで必ずしもよく知られていない関係を語って頂いたものである。その点で賀川の多面性と独自性とがいっそう明らかにされている、と言ってよいであろう。

 ところで、そのような賀川の多面性と独自性は、時に軌道を、特に理論的分野で外れることがある。たとえば、私の専門分野である経済学についていえば、一九二〇年に出版された『主観経済の原理』などは、マルクスの唯物論的な経済学を批判して、ドイツ観念論などを持ち出し、唯心的な経済哲学を論じるが、経済の原理にはなっていないと言ってよい。従って彼の社会運動の原理としては傾聴に値する点もあるが、経済学者は賀川理論に全く関心を寄せないのである。

 無視される所があるのはよいとして、非難される点も出現した。それは部落問題についての賀川理論である。賀川は前述したように神戸のスラムに入りこんだが、そこには「部落」関係の人も少なくなかった。そこで彼は彼流になぜ「部落」の人々がスラムに多いのか、どういう背景をもつのかというような問題を、当時の有力な説などを参照しながら論理を形成し、『貧民心理の研究』などの中に展開し、発言したのである。当時の有力な説から見た、彼の議論が特別に差別的とは言えないと思うが、彼の言説は社会的に影響力が大きかった。しかも戦後、部落解放運動が活発に展開し、研究も急速に進展している中で、『賀川豊彦全集』が刊行され、賀川の部落問題をめぐる言論が原型のままで特別の注記もなく刊行されたので、大きな差別問題として取り上げられ、批判されることとなった。それは確かに賀川の言論が時にもつ欠陥であり、経済理論の欠陥などとは異質の問題で、その関係者に大きな社会的・精神的打撃を与えることとなった。このことを我々賀川に関心をもつ者は謙虚に受け止めたいと思う。

 しかし、賀川が近代日本における最も幅広い活動家であり、理論家であったことは否定しえない。人は皆神の前で罪人であり、問題をかかえている。しかし、そのマイナスも背負いつつ、どこまで神の僕として神の栄光を現わしたか。この点を踏まえながら、この賀川論をそれぞれの思いを抱きながら、ここに刊行する次第である。

   一九九九年四月
                            隅谷三喜男




                   あとがき

                     賀川豊彦記念講座委員会委員長 金井 信一郎


 本書は、一九八八年、賀川豊彦生誕百年を記念して行われたいくつかの講演およびその後十年の間に行われた賀川記念講演を収めたものである。

 賀川豊彦がわが国の近代化の過程において開拓者的に関わった分野の多面性については、本書「まえがき」でも述べられているとおりであるが、賀川豊彦生誕百年記念のために組織された実行委員会(委員長隅谷三喜男)には賀川が生前に関わった四〇を越える団体の代表が参加した。この年には「総合・平和・未来」のテーマのもとに、東京、大阪、神戸、徳島、さらにはアメリカでも、後援会やシンポジウムなど多彩な催しが行われた。本書に収められている「人間性の探求としての平和」(武者小路公秀)、「いと小さき者と賀川豊彦」(三宅廉)、「信仰を持たないものの側から何かできるか」(大江健三郎)はいずれも賀川豊彦生誕百年記念行事の一環として行われた講演のテープから稿をおこしたものである。その他の講演は賀川豊彦記念講座委員会主催による講演である。

 賀川豊彦記念講座委員会は、一九六〇年、賀川豊彦の死去により米国カガワーフェローシップ(賀川後援会)が解散した際に送られてきた活動資金をもって発足した。これまでさまざまの分野において第一線で活躍してこられた方々を講師として招き、次のような講演会を開催してきた。

 第一回(一九六一年) 隅谷三喜男 「社会改革と人間変革-賀川豊彦の社会思想」
 第二回(一九六二年) 湯川秀樹 「軍縮問題と世界連邦」
 第三回(一九六三年) J・ロマドカ 「共産圏におけるキリスト教」
 第四回(一九六四年) 木村健二郎 「原子力利用の現在及び未来」
 第五回(一九六五年) 渡辺善太 「聖書学体系論」
 第六回(一九六六年) 村田四郎 「新約聖書のキリスト教」
 第七回(一九六七年) 嶋田啓一郎 「社会思想史より観たる賀川豊彦とその時代」
 第八回(一九六八年) 大槻虎男 「自然科学的生命探求の進歩」
 第九回(一九七〇年) 横田喜三郎 「人類の危機を打開する道」
 第十回(一九七一年) 金井信一郎 「賀川豊彦の社会政策思想」
 第十一回(一九七二年)ニーマ・ゲッフェン 「イスラエル共和国と旧約聖書」
 第十二回(一九七三年)鷲山第三郎 「ユグノー運動の顛末」
 第十三回(一九七四年)桑田秀延 「日本の神学思想史に現れた神学の問題と人物」
 第十四回(一九八八年)武者小路公秀 「人間性の探求としての平和」
 第十五回(一九八九年)坂本義和 「いま、平和とは」
 第十六回(一九九三年)森静朗 「賀川豊彦と世界通貨-Ecの通貨政策」
 第十七回(一九九四年)磯村英一「いま、なぜ賀川豊彦なのかI現在に生きる賀川豊彦」
 第十八回(一九九五年)高村勣 「賀川豊彦と生協運動-現代に生きる賀川精神を生協運動に見る」
 第十九回(一九九七年)日野原重明 「いま賀川先生が再現されたら何を語るか」
 第二十回(一九九八年)金井新二 「現代日本とキリスト教-問題状況と展望」

 この間、一九七四年以後、諸般の事情により活動の停滞を余儀なくされていたが、武者小路講演を賀川豊彦生誕百年記念実行委員会との共催とし、これを契機に活動を再開して今日にいたっている。

 この講演集の公刊にあたり、講演者の諸先生にはご快諾いただくとともに、ご多忙のなか原稿にお目どおしいただき、心より感謝申し上げます。誠に残念なことに、三宅廉先生と磯村英一先生はすでに帰天されている。このような形でご講演を本書に収めることをご快諾くださった両先生のご家族に深く御礼申し上げます。三宅稿および磯村稿の変更については最小限にとどめたが、とくに三宅稿に目を通していただくなど、村山盛嗣氏にご協力いただいた。深く感謝申し上げます。なお、大江稿の初出は『賀川豊彦研究』一七号(財団法人本所賀川記念館)、坂本稿の初出は『世界』一九九〇年二月号(岩波書店)である。

 本来なら、賀川豊彦生誕百年記念実行委員会の解散後、関連行事の記録を出版する計画があり予算化もされていたが、この度、このような形で刊行することができたことは誠に幸いである。教文館の渡部満氏および所桂子さんにはさまざまのかたちでお世話になった。ここにしるして感謝申し上げたい。

 本書が多くの読者に読まれ、思想的に空洞化し、混迷の度を深めつつある現代世界、特にこの国にあって、新たな示唆を与えるものとなるよう心から希う次第である。
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