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「賀川豊彦」のぶらり散歩ー作品の序文など(第220回:賀川豊彦記念松沢資料館編『日本キリスト教史における賀川豊彦―その思想と実践』

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「今年のよさこい祭り:大学生編」(今日のブログ「番町出合いの家」http://plaza.rakuten.or.jp/40223/)



賀川豊彦」のぶらり散歩
   

―作品の序文など―

      第220回


賀川豊彦記念松沢資料館編『日本キリスト教史における賀川豊彦―その思想と実践』

  
 本書は2011年5月に、新教出版社より刊行された、重要な論文集です。当初「賀川献身100年記念」の折りに刊行を予定されていましたが、諸般の事情で少々遅れましたが、先行研究の貴重な論文も含まれていて、今後の研究の基礎資料としても有益です。

 ここでは、雨宮氏の「はしがき」と戒能氏の「あとがき」のみ取り出して置きます。




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                    まえがき


 若き賀川豊彦が、大八車に、布団、書籍、それに幾らかの手荷物を積み、当時「貧民窟」といわれていた神戸新川に入って居を構えたのは、今から一〇〇年前一九一〇年の前年クリスマスの夕べであったことはよく知られている。年号で言うと明治四二年十二月ということになる。これを記念して準備に準備を重ね「賀川豊彦献身一〇〇年記念実行委員会」が神戸、東京、徳島に作られ、この書物の刊行はこの記念事業の一つとして、そこから生まれたものである。

 ところで、彼の新川入りの目的としたところは、最初は住民の救霊事業にあった。賀川はこの年の九月から、新川近くでいわゆる路傍伝道を開始している。そもそもこの路傍伝道なるものは、道端に立ち、道行く人々に、ただひたすらにキリストの福音を伝える業であった。キリストの福音を伝えることによって、聞く人に呼びかけその人の魂を救済することが目的であったのである。今日の言葉で言うと「福音宣教」であり、又「伝道」と言うことであった。

 当時神戸の新川という地域は、如何なる地域であったであろうか。安保則夫氏の『ミナト神戸 コレラ・ペスト・スラム』によると「兵庫の一角にあった旧市街を除いて、ほとんど寒村に近い状態から明治以降急速に都市化した神戸の場合、スラム形成の過程は、江戸時代からの流民が沈殿して、早くから下層階級を形成していた東京や大阪の場合とは、おのずから異なったものであった」のである。この神戸新川の場合は、一八八三(明治一六)年外国人のための家畜処理場が、この場所に移転されたことと、関浦清次郎の二百軒長屋がここに移転されたことから「新川地区」が生まれたようである。ここに神戸市内の木賃宿が集められ、あわせて神戸市内から出されるごみの捨て場になり、埋め立てが行なわれ、木賃宿、長屋の密集する地域になった所である。それに神戸におけるペスト、コレラ流行の時には、この新川地域に患者の発生が少なくなく、あたかも新川全体がペストの病原地であるかのように見られた。そのような地域であったのである。

 賀川はこの地域を目指して、キリストの福音を宣教したいと願ったのである。そして、賀川が新川に入ったのは、この福音宣教の業は、新川の外に居を構えて出来るものではないという判断が、彼の中に生まれたからであろう。酷く困難な状況に生活する住人の中に入り、生活を共にすることなくして、キリストの福音宣教は不可能と考えたのであろう。そこで生活環境の劣悪な、スラム新川に入り、生活をともにする必要を痛感したからであろう。賀川が新川で最初に作ろうとした団体を称して「救霊団」としたことは、その目的をどの様に考えていたか明らかにしている。

 その救霊団に早くから参加した武内勝氏によると、『賀川豊彦とそのボランティア』という彼の著書に述べているのであるが、その新川という場所は、「最初ここに移住してきた人たちは、あらゆる段階の落伍者であって良いと思うのであります。たとえば事業で失敗した人、貧乏で行くところのない人、未亡人、身体障害者、老衰者、道徳的失敗者、病人、失業者等、不幸に陥った人たちが大多数でありました。それと共に落伍者の住み易い条件が自然に備えられ形成されていたのであります。即ち、
 第一に、居住者が多くなれば、それに応じて家賃の安い長屋が立てられていったこと、
 第二に、他で売れなくなった品物をここに持ってきて、安く投売りされたこと、
 第三に、どんなみすぼらしい風采でもお互い様で、恥じにならない気安さがあること、
 第四に、日雇いの雇い主が手配に寄ってきて、簡単に就職出来ること、
 等が挙げられます。新川に住み着く者の生活標準は最低と言うよりどん底でありましたから、彼らにとって、新川ほど住みやすいところはなかったのであります」(一七頁)とある。

 またこの書物には、地域の環境として、家賃のこと、共同便所、高利貸し、賭博、喧嘩のことが淡々として述べられている。

 あるいは第五章の「妨害、脅迫、迫害」の頂では、賀川が『死線を越えて』で描いている自分への脅迫の出来事が、日常のこととして述べられている。脅かされても、殴打されても、刃を突きつけられても、ただ無抵抗に徹して忍耐した賀川の姿が、その傍らに居た者の証言として語られている。いずれにせよ、今日では想像に困難な地域であった。

 ただ賀川の場合、伝道者であろうとするにしても、この新川入りに彼の独自性が見られる。つまり普通の神学生が、神学校を卒業して既成の教会に牧師として招聘を受け、そこに住居が与えられ、生活費も用意され、そこで伝道・牧会がなされる。これが通常の伝道者の歩む道である。賀川はそのような道を歩まなかった。自ら「非戦主義者」であること、また「社会主義者」であることを公表していた賀川である。普通な牧師として歩むことを断念していたに違いない。

 当時神戸に急速に拡大しつつあったスラム新川に、単身で住み込み、そこに在る長屋の一軒に居を設けることにしたのである。そこで伝道を試みたのである。恐らく彼をしてこのような新川に入ることを促したのは、長尾巻牧師との出会いがあったことは知られている。

 一九〇七(明治四○)年夏、神戸神学校に転校直前、夏期伝道の奉仕者として「豊橋教会」に行き、その教会の牧師であった長尾巻を知ったのである。この方は生涯清貧に甘んじ、貧困に苦しむものに対して、市中のホームレスに至るまで、求められれば惜しみなくあたえた人である。

 後に賀川は、長尾巻牧師召天三周年に行なわれた記念講演会で次のように語った。

 「長尾巻はこの世において位はなかった。牧師は皆貧乏だが、これくらい貧乏な牧師は見たことがない。自分は明治四十年、彼の伝道を助けるつもりで豊橋に行ったことから彼を知るに至った。自分は肺病で彼の家のぼろ二階に寝かせてもらい、親身も及ばぬ世話になった。
 彼は貧乏のどん底にいながら、愚痴、不平を一度だって彼の口から聴いたことはなかった。また彼が怒ったのを見たことがなかった。彼の行いは満点であった……長尾巻に接し、新約が日本人のものとなったと思った。こんなのを『聖人』と言うのだと思った。『隠れた聖徒』これが長尾巻に奉るべき、もっとも適当な称号であると思う。
 自分が神戸新川に入って貧民伝道を思い立っだのは、長尾巻から学ばされたからである。彼の生活それ自身が神の生活、それが真の宗教生活である」と述べている。その通りであろう。

 更に賀川の新川に入ることに影響を与えた人物として、ジョン・ウェスレーの存在が考えられる。賀川が新川にはいる前年、一九〇八(明治四一年「結核性痔痩」の手術を受けるため、京都大学付属病院に入院した時、ウェスレーの日記を読んで「貧民伝道」をひそかに考えたということもあったようである。

 賀川は退院した後、京都五条の穂波牧師の二階にしばらく静養させて貰った。その間、ウェスレーの日記を読んで、感激をしたらしい。ウェスレーが胸を患いながら、驚くべきキリスト教伝道のため大事業を展開したことを学び、そこから得た感激が、賀川をして新川伝道に赴かせたという説、がある。周知のように、ウェスレーは一八世紀のイギリスにおいて、信仰覚醒運動を起こし、当時イギリスの植民地であったアメリカ・ジョージアヘの伝道の旅をつづけている間、モラビア兄弟団の人々に触れ、その影響を受けている。またルターから学び、回心後、極めて熱心に伝道に励み、鉱山に入り、また貧しい人々の中に入り、ただひたすら伝道に尽くした。この日記が賀川に新川入りを促したというのである。大いにあり得ることである。

賀川は新川に入り、驚くほどの労苦を払っている。キリスト教を宣教するために彼は新川に入ったが、彼は住人の貧困に目を向けざるを得なかった。当然であろう。彼は人間全体の救済を願ったのである。新川住民の困窮を見ることなくして、住民の救いを求めることは不可能であった、この地城には、行き倒れの人、寄る辺なき病人、看取る者なくして死に往く者、捨て子もいる。賀川はそれらの人たちの世話をすることを厭わなかった。進んで世話をした。賀川の住いに絶えず病人が転がりこんでいた。彼は自分の課題は人間の魂の救済にあり、肉体的・物質的救済は自分の仕事ではないと、決して考えなかった。ひとりの人間の救済は、その人の全人格的なものであり、身体を捨象した抽象的な霊魂の救済のみを思考することは出来なかった。

 賀川は住民の救貧を求めた。神戸市内の諸教会に訴えて、新川住民のために物的救済の道を探った。しかしそれには限界かおることが分かったのである。上からの救済であり、施しである。そのようなことで真実な貧困の救済は得られない。

 彼は「救貧」から「防貧」の道を求めたのである。なんとしても住民が、自らの貧困を克服する手段を考えた。そのために地域住民のために「天国屋」と称する一膳飯屋を経営するが、見事に失敗するのである。食い逃げ、貸し倒れによる。本当の防貧策は何であるのかが、賀川の真の課題になったのである。その根底には、人間の全人間的救済が問題であった。

 賀川はそのような課題を抱きながら、アメリカに留学する。彼はプリンストンで多くのものを学んだのであるが、彼のもっとも大きく学んだものは、労働運動への参与であったと言い得るであろう。彼はアメリカ労働運動に直面して、労働運動に目を開き、真の防貧は何であるかを体得したのである。何よりも労働者の立ち上がることにあると判断した。

 賀川は帰国後、当時鈴木文治の指導で歩み出していた日本労働運動「友愛会」に加わり、たちどころに指導者の一人になる。当然である。彼には労働運動に対して独自の理論をもっていた。彼は労働者の人権と人格を尊重し、それを快復する運動理論を持っていた。単なる実践活動家ではなかったのである。彼は日本の労働運動のオピニオン・リーダーとして、注目を浴びた。彼の理論の根底に、新川における体験が存在していたのである。

 彼の労働運動は農民運動に及び、さらに生活協同運動に展開したことは知られている。
 しかし、彼のすべての活動は、彼にとってはキリスト教宣教の業であった。伝道者として当然の行為であった。彼なりのキリスト教理解が、その全部の行為と働きの背景に存在していたのである。

 このように顧みると、賀川の新川体験は、日本の社会とキリスト教会に極めて大きな意義を待ったことになる。ここに賀川豊彦獣身一〇〇年記念を行なう意味がある。そこで、この活動と理論は日本のキリスト教の教会史の中で、どのように評価されたかが、問題となるし、また問題となった。賀川は単なる実践家ではなかった。彼には理論がある。神学があるし、哲学がある。壮大な理論を展開している。彼の実践的な働きと共に、賀川の神学も研究されたことは当然であった。

 この書物には、今まで著名な研究者によってなされた、いわゆる先行研究が多く収められている。いずれも日本のキリスト教の歴史に残る貴重なものである。

 竹中正夫氏、武田清子氏、熊野義孝氏、工藤英一氏、金井新二氏、河島幸夫氏、鵜沼裕子氏、古屋安雄氏、土肥昭夫氏、小川圭治氏の諸研究である。

 それに幸いなことに、賀川の働きと神学は、先行者の研究に続いて若い研究者によって新しい視点から研究もなされている。これらの研究者の成果も発表することが出来た。

 加山久夫氏、倉橋克人氏、戒能信生氏、栗林輝夫氏、藤野豊氏、野村誠氏の諸研究である。

 恐らく賀川豊彦の研究は、これからも続けられるであろう。豊かな将来を期待したい。
 最後に大本英夫氏と古屋安雄氏の対談を付すことが出来たことは幸いであった。感謝したい。以上の言葉でもって「まえがき」とする。

    二〇一〇年十月                                  
                                 雨宮栄一



                   あとがき


 二〇〇九年十二月は、賀川豊彦が神戸新川に飛び込んでその活動を開始してから丁度一〇〇年目にあたっていた。そのことを想起して賀川豊彦献身一〇〇年記念プロジェクトが構想された際、その当初から本書『日本キリスト教史における賀川豊彦 その思想と実践』の企画があった。それは、賀川を始祖とする数多くの関連事業各団体の賀川評価と比べるとき、キリスト教界における賀川研究ははなはだ不十分だという認識、があったからである。社会事業家としての賀川豊彦、消費組合運動、労働組合運動、農民組合運動、普通選挙獲得運動、さらに戦後の世界連邦推進運動などの広範な分野における賀川の活動について、これまで膨大な量に及ぶ紹介や研究がなされて来た。例えば、これらの関連団体から刊行されている賀川豊彦の伝記の類だけでも三十数種に及ぶのである。あるいは、各研究機関や研修機関から発行されている紀要や研究報告を瞥見すると、賀川に関する言及、賀川とその周辺についての研究は膨大な件数に及ぶ。しかし、その一方でキリスト教界における賀川豊彦の評価はアンビヴァレンツなままである。神格化と言えるような絶賛に近い評価がある一方で、全否定に近い批判的な研究もあり、しかもその両者が全く噛み合わないまま放置されて来だのが、キリスト教界におけるこれまでの賀川評価の実態ではなかっただろうか。このような問題意識をもって、「日本キリスト教史における賀川豊彦」研究プロジェクトが発足することになった。そして賀川豊彦獣身一〇〇年記念事業プロジェクト実行委員会から推薦のあった加山久夫、金子啓一、栗林輝夫、倉橋克人、野村誠、藤野豊の諸氏が招集され、戒能信生かその責任者とされた。また賀川豊彦記念松沢資料館の学芸員杉浦秀典氏が、事務局として全面的にサポートしてくれることとなった。

 二〇〇八年三月一八-一九日、松沢資料館を会場に第一回の研究会が行われた。しかしこの研究会の中心的な役割を担うことが期待されていた金子啓一氏は、参加に意欲を見せながらも、健康上の理由で参加がかなわなかったことはまことに残念であった。集まった研究員たちは、先ず賀川豊彦についてのこれまでの研究状況について話し合った。重要な先行研究の多くが絶版であったり、容易に人手し難いものも少なくなく、賀川をまともに論じることの環境を整えることから始めなければならないというのが共通認識として確認された。そこで代表的な先行研究のリストを作成し、その中から本書第一部に掲載する十点の先行研究の掲載を確定した。しかしここに収録されたもの以外にも、例えば隅谷三喜男の賀川論や雨宮栄一の評伝三部作なども当然挙げなければならない。しかし特に単行本になっており、かつ版が生きているそれらの書物については、分量の関係で収録を断念する他はなかった。しかし、ここに上げられた一〇点の賀川研究だけでも、これまでの賀川研究の大筋を見晴らすことはできるだろう。そして、これらの先行研究の解題の意味合いを込めて、第一部の最後に「先行研究との対話を通して」を倉橋克人氏に書下ろしてもらうこととした。

 研究会で話し合われたもう一つは、賀川を研究する際の方法論、手法についてである。賀川は多様な領域にまたかって活躍した人であった。言わば境界を越えた人物であった。したがってその賀川を研究する方法論は、学際的、あるいは様々な学問的方法論の境界を越えてなされねばならないはずである。にもかかわらず、キリスト教界の賀川研究の方法は、従来の神学的枠組みに規定されて来たと言えるのではないか。つまり賀川を研究する方法論、その手法に欠陥があったのではないかという視点である。そもそもこの国の第二世代のキリスト教会の宣教の担い手として、例えば中田重治、山室軍平、そして賀川豊彦といった人たちが挙げられるだろう。この第一世代のリーダーたちは、第一世代の指導者たちが手をつけられなかった領域に、いずれも果敢に宣教的アプローチを展開して行った。それは、庶民・民衆、そして農民、労働者たちへの宣教という使命であった。あるいはそれらの人々に対する社会事業、社会福祉的な展開でもあった。そして、中田のホーリネス教会も、山室の救世軍も、賀川の社会事業や伝道活動も、大正から昭和の初期にかけて、それぞれ目を見張るような成果を生み出していった。にもかかわらずキリスト教界における中田・山室・賀川たちへの評価は依然として低いままである。中田を、山室を、そして賀川を十分に評価しうる方法論、研究手法が不十分なのではないか。そのような問題意識をもって、各研究員のそれぞれの問題意識からの賀川豊彦研究を新たに書き下ろしてもらうこととした。

 同年九月一一~一二日に二回目の研究会を行い、それぞれの研究発表を行い、相互批判を行った。その成果が、本書第二部に収録された研究員の各論文である。したがって、研究論文の大方は二〇〇九年の春ごろにはほぼ事務局に寄せられていた。それが本書の刊行が遅れに遅れたのは、第三部に収録予定であった大木英夫・古屋安雄両氏の対談を起こしてまとめる作業が大幅に遅延したためである。その責任はひとえに戒能にあり、この場を借りて心からお詫びを申し上げなければならない。

 ある意味で、これが賀川献身一〇〇年プロジェクトが展開された二〇〇九年の段階におけるキリスト教界の賀川研究の水準である。そしてここから、さらに次の時代の賀川研究が自由に飛翔してくれることを心から期待している。

 なお、本書刊行について、賀川豊彦献身一〇〇年記念プロジェクト実行委員会から多額の出版助成を受けたことを、感謝をもって記す。

   二〇一一年二月
                             戒能信生
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