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村島帰之の労働運動昔ばなし(第1回)

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村島帰之の労働運動昔ばなし(第1回)

兵庫県立労働研究所『労働研究』(第135号)1959年5月号連載開始分


 (賀川豊彦の盟友・村島帰之については折りに触れて言及し、このブログでも村島著『預言詩人・賀川豊彦』の長期連載を終えています。今回から掲載していく村島の「労働運動昔ばなし」は、どうしてもテキスト化して残しておく必要のある貴重なドキュメントで、取り敢えず時間をつくって、少しずつUPを進めて置きます。全体を終えてから一書として整えることにいたします。ー鳥飼)


 村島帰之氏は早大出身、大正中期の関西の友愛会の創業時代に、大阪毎日新聞の労働運動担当記者として、運動の発展してゆく模様を詳しくみただけでなく、自身も友愛会の組織の内部にあって、運動を守り育てた人である。

 西尾末広氏は、その著書『大衆と共に―私の半生の記録―』のなかに、「賀川氏に次いで、大毎記者村島帰之氏が総同盟に尽してくれた功績は極めて大きい。村島氏は神戸支局時代から労働運動に関係していたし、大阪本社勤務になってからも、新聞記者というより同志的関係を持続した。友愛会の会合などではよく司会者をやったが、その場の空気をリードするのに巧みな人であり、一人として敵のない人格者だった。」と書いている。

 もっとも、村島氏が最初に労働運動に関与したのは、西尾氏が書いているのよりはずっと早く、大正五年、大阪に友愛会の関西支部ができたときであり、大正八、九年の神戸支局時代は、“労働運動に関係していた”という程度ではなく、大正八年の川崎造船所のサボタージュの成功などは、村島氏の海外労働運動に関する新しい知識に負うものであり、この争議の実質的な最高指導者は村島氏だったといえるほどである。

 村島氏のこういう立場から考えて、この[労働運動昔ばなし]は、神戸の友愛会についてはもちろんのこと、当時の関西の労働運動にづいて、運動内部の秘められた事情といったものまでをも含めて、多くの新しい事件や事実を明らかにするうえに、大変貴重な資料になると思われる。

 村島氏は、現在、茅ヶ崎市小和田七、一〇五にあって、闘病生活中であるが、編集者の無理なお願いを快く受けて、数回にわたって執筆していただくことになった。厚く感謝するとともに、ご全快の一日も早からんことを祈ってやまない。            〔編集担当者〕



      第一回 友愛会の神戸開拓

               光は神戸の貧民窟より

 極めて大雑把に、大正時代のわが国の無産運動の地方色を概言することが許されるなら、私は斯う言いたい。関東の無産運動はより理想主義的で、関西の無産運動はより現実主義的であった-と。そして、もしも労働運動の正道が抽象的な理論斗争にないとしたら、現実的な経済行動を主として動いていた当時の関西の労働運動を、正統な労働運動といえるのではなかったか、と。

 関東の労働運動者が当時、関西の労働運動を評して「関西には理論がない」といい、関西の労働運動者は関東の運動を評して「彼等の足は地についていない」といっていたのは、その労働運動のローカル・カラーを自ら物語っていたものといえる。

 現実的な傾向を特色とした関酉の労働運動の由来するところはその土地柄によること勿論であるが、只だそれだけだろうか。私はその有力な因子として神戸葺合新川部落に住んでいた「賀川豊彦」の存在を無視できないと思うのだ。

 尤も賀川氏が労働運動を指導したのは、既に四十年に近い過去の昔語りになろうとしているが、その流れは、今も連綿として続いている。わが国の労働運動の最も激動期にある今日、四昔前の事どもを回顧して見るのもあながち徒爾ではなかろうと思う。



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