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村島帰之の労働運動昔ばなし(第2回)

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村島帰之の労働運動昔ばなし(2)

『労働研究』(第135号)1959年5月号連載開始分



          第一回 友愛会の神戸開拓

          
   (前回のつつき)

             大正三~六年の友愛会   

 大正六年五月、アメリカから帰朝した賀川氏はその足で二年八ヵ月間留守にした神戸の貧民窟葺合新川の二畳敷御殿に復帰し、再びセツラーとしての働きを始めた。「再び」とはいうが、その働き場所なり、その善意は前と変りはないけれども、氏の社会観には非常な相違があった。氏は当面の救護というものが無産階級の解放に些して役立たないこと、真に無産者を救わんとせば、まず彼等に組織を与えなければならぬこと。組織によって、彼等は自らを救うべきであること等々を、米国の民衆運動から教えられて帰って来たからである。

 賀川氏がアメリカに向け出発した大正三年九月には、まだ日本には工場法さえ施行されては居らず、労働組合も、友愛会が弧々の声を挙げて三年しかたっていなかった。ところがわづか二年八ヵ月ではあったが、氏の留守した間に、友愛会は内地のみならず遠く大連にまで伸び、労働者の自覚は大に高まって来ていた。

 友愛会が始めて関西に手を伸ばしたのは、同会が鈴木文治氏により、東京三田の惟一館のミッションの仕事の片手間に、同志十数名を叫合して創立された翌年―大正二年、大阪新川崎町の三菱製煉工場の職工が同会の機関紙「産業及び労働」の配布を受けたのに始まるといわれる。そして翌大正三年二月、東京の江東支部の河野吉太郎氏が来阪し、木津川の秋田製造所職工として就職して以来、三菱製煉及び電気分銅両工場の職工を勧誘し、三十名の会員を得て始めて支部らしいものが出来、翌々五年には会員が一躍四百名に増し、五月には住友伸銅、汽車会社職工を中心に大阪第一支部を結成、十一月、日本兵機の職工によって関西支部が設立された。筆者が労働運動に最初に関与したのは、この関西支部だった。では、神戸ではどうだったか。

    (続く)

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