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村島帰之の労働運動の昔ばなし(第3回)

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村島帰之の労働運動昔ばなし(3


『労働研究』(第135号)1959年5月号連載開始分


            第一回 友愛会の神戸開拓
          
(前回のつつき)
            

               神戸の労働者の増加

 明治二十三年頃は工産物総価額僅か百万円にすぎぬ神戸市であつたが、日清、日露の両役を経過し、さらに欧州戦乱の影響を受けて急激に発展し、川崎、三菱両造船所及び神戸製鋼所等の大工場の続出によって、いよいよ飛躍的進歩をとげた。

 現に欧州戦乱勃発前――大正三、四年頃には職工数七、八千人に過ぎなかった川崎造船所の如き、大正七、八年には一躍倍加して一万六千人の菜ッ葉を着た労働者が工場の門を潜る盛況を見るようになり、三菱造船所も同様で、欧州戦乱勃前までは五千人しかいなかった労働者が、大正八年には一万人を算して、これまた倍額の増加であとの大工場には優秀な労働者が集った。彼等の時代の目覚めもおのづから他の小工場の労働者よりも早かった。神戸の労働組合の運動は大正三年の暮あたりから徐々に進められていた。


                山県憲一神戸支部長

 友愛会創立五周年史(大正六年三月友愛会発行)によると、大正三年、桂謙告氏等によって神戸分会が組織され、これが後に神戸葺合支部となったのだと記されているが、支部の出来だのは、神戸支部の方が早かったのだと記憶する。

 神戸支部は、川崎造船所の本工場の労働者の組織したもので大正四年二月発会式を挙げ、当時神戸高商の教授であった山県憲一氏がその支部長に挙げられた。木村錠吉、颯波先三、須々木純一氏等有力な人々が幹部組合員であった。

 山県憲一氏は基督教信者で、人道主義的な熱情を以て深く労働運動に傾倒し、進んで支部長の椅子に就いた。氏は当時なお学者間にも余り問題にされていなかった「職工問題」 (まだ労働問題とはいわなかった)に興味を持って、後には「職工組合論」という書物をさえ著わしたほどの進歩的学者であった。もし同氏がなお数年健在でいたら、同じ人道主義的立場を採る賀川豊彦氏と手を握って、相共に十字架的精神を以て社会正義のために健闘した事だろうが、惜しいことに、賀川氏の労働運動への進出を見る前に、すなわち賀川氏の外道中に早世してしまった。

 山県氏の死去後、神戸は適当な指導者を持たなかったが、しかし、時勢は駸々として進んで、労働者の団結は、雪の上を転ばす雪達磨のように、次第にその塊りを大きくして行った。川崎造船所本工場を地盤とする神戸支部の外に、川崎三菱両造船所兵庫工場を中心として兵庫支部が生れ、川崎造船所葺合工場及び神戸製鋼所、ダンロップ護謨会社等の労働者によって葺合文部が組織された。そして大正六年二月にはこれ等の三支部によって友愛会神戸聯合会が組織され、その主務として、東京の本部から常務幹事高山豊三氏が派遣されて来た。

    (続く)

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