スポンサーサイト

上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。

村島帰之の労働運動昔ばなし(第6回)

1




村島帰之の労働運動昔ばなし(6)

『労働研究』(第135号)1959年5月号連載開始分


             第一回 友愛会の神戸開拓
          
(前回のつつき)

                 野倉万治氏その他

 大正六年五月六日、神戸聯合会成立記念大講演会が大黒座で開かれ、次で九月九日にも特別講演会を開催、賀川氏が始めて出演した。

 何しろ、神戸は川崎、三菱両造船所、神戸製鋼所の如き大工場を持っていてそこに働く労働者の大部分は熟練工であるため、組合運動の発達も他の都市より早かった。また会員の変動というものも少く、幹部の如きは殆んど動かなかった。現に高山主務時代の幹部はその翌々年のサボタージュや四年後の大正十年の大争議のリーダーと殆んど変りがないのでも知れよう。そしてその組合の幹部が大体造船所の職長(職工仲間では工場長と俗称していた)や伍長、伍長心得といった人達だったため、組合はまじめに発達して行くことが出来た。

 大正七年一月の友愛会の機関誌「労働及産業」に出ている「神戸聯合会消息」を見ると、神戸支部(川崎造船所本工場)では颯波(職長)須々木(伍長)野倉(伍長)の諸君の名が出ている。

 野倉氏はいうまでもなく大正八年の川崎のサボタージュや大正十年の大争議の総指揮者であった野倉万治氏であり、須々木というのは野倉君の女房役――というよりも姑役であった須々木純一氏である。

 これより先き、神戸の主務として、指導に当っていた高山豊三氏は教会の牧師としてアメリカヘ出かけることとなり、在ること九ヵ月で神戸の労働者にサヨナラを告げることとなった。高山氏としでは、別に労働運動に失望した訳ではないが、やはり牧師として身を立てようと考えたのであろう。まだ組合運動の重要性の一般に認識されていない時だったから、これも致し方がない。十一月五日高山君の送別会が開かれてお餞別として金十円が贈られた。

 高山主務を失った神戸は、リーダーがいなくなった。この時みんなの頭に浮んだのは、これまで二、三回、演説会に出てくれた新川の貧民窟の「先生」賀川豊彦氏だった。

    (つづく)


スポンサーサイト

コメントの投稿

非公開コメント

プロフィール

keiyousan

Author:keiyousan
このブログのほかに同時進行のブログもうまれ全体を検索できる「鳥飼慶陽著作ブログ公開リスト」http://d.hatena.ne.jp/keiyousan+toritori/ も作ってみました。ひとり遊びデス。

最新記事
最新コメント
最新トラックバック
月別アーカイブ
カテゴリ
検索フォーム
RSSリンクの表示
リンク
ブロとも申請フォーム

この人とブロともになる

QRコード
QR
上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。