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村島帰之の労働運動昔ばなし(第8回)

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村島帰之の労働運動昔ばなし(8)

『労働研究』(第135号)1959年5月号連載開始分


             第一回 友愛会の神戸開拓
          
(前回のつつき)
              
                 友愛会六周年大会


 大正七年四月には友愛会六周年大会が大阪で開かれることとなった。大会経費予算二百円の内、本部が六十円を負担し残り百何十円は関西で負担しようという。神戸・大阪・京都など関西側の実力のほどが窺われる。

 四月三日、友愛会六周年大会は天王寺公園前の公徳社の二階で開かれた。出席代議員七十七名、大阪・神戸のほか東京・名古屋・京都・舞鶴・広島・呉・門司・八幡からも代表者が出席した。

 この大会で美しい会章のついた短冊型のバッヂを代議員章として交付したが、恐らくはわが国におけるこの種の大会でバッヂを出した最初であろう。

 また議事の裁決にギャベルを使用したのもこの大会が最初であろう。ギャベルは鈴木会長が前年アメリカの労働組合大会に出席した際、特にもらいうけてきたものである。

 会場には賀川氏や古市春彦氏などの顔も来賓席に見えた。筆者は会員の五分間演説の後を承けて「産業社会の悲劇」について二十分ばかりしゃべった。来賓演説としては筆者だけであった。

 つづいて同夜、天王寺公会堂で聞かれた公開講演会――「友愛会六周年大会記念社会政策講演会」は天王寺公会堂を埋めつくす盛況だった。

 その筈である。講師は高石真五郎・賀川豊彦・今井嘉幸・関一という顔触れだったからである。

 当時、筆者は大阪毎日新聞の内国通信部に属していた。課長は岡崎鴻吉氏(翌年神戸支局長となり、筆者を神戸へ連れて行った)で同氏は早大で大山郁夫氏や永井柳太郎氏と同級だった人。社会主義や労働問題に非常に興味を持っていて、氏が責任も持った本版と称する紙面の全ページ五段を友愛会大会のために割愛し、筆者に独りで五段の記事全部を書くよう命ぜられた。

 講演は議会の記事のそれのように、話を聞きながらずんずん書いて行って、できる尻から自動車で本社へ運んだ。無論、こんな事をしたのは大毎だけで、他紙は十行の記事も書かなかった。

 当夜、私は演壇の下の机で、友愛会本部から西下した野坂参三氏と向いあって筆記をしていたが、大毎の肩の入れ方とそして筆者が即座に記事を仕上げて行くやり方にひどく感心して「素晴しいなあ」を繰返していたことを思いだす。

 恐らくこれほど大新聞が大々的に組合の大会の記事を取扱ったのはこれが最初ではなかったろうか。これは全く岡崎氏の好意の賜物である。そしてその好意は翌年神戸でいよいよ華やかに開花したことは後に記す。

 なお面白いことには、当夜の弁士の中に大毎の幹部である高石真五郎氏も加わっていたが、筆者は自社の人の演説をのせるのはどうかと思って一切省略した。

 ところが、翌日になって社中の問題になった。それは「今井博士や関博士のものをのせるのはいいとして、賀川某の如き無名の男を名士として扱い乍ら、高石氏を略するのはけしからん」というのだ。筆者は腹の中で笑っていた。今に見ろ、お前たちは賀川の名を拝む時が来るから――と。

 賀川氏の講演は「労働者は何故貧民になるか」というのだった。そして氏の名の上には「バチエラー・オブ・デビニテー」という称号が麗々しく記されていた。

 それほど、まだ賀川氏の存在は一部識者以外には知られていなかった。いいや労働組合員でも神戸以外の諸君は、当夜の熱弁を聞いて初めて氏の存在を認識した者が大部分だったのである。

    (つづく)


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