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村島帰之の労働運動昔ばなし(第12回)

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村島帰之の労働運動昔ばなし(12)

『労働研究』(第137号)1959年7月号連載分


              第二回 川崎造船所と松方社長
          
(前回に続く)

                 毎日新聞神戸支局へ


 わたしは労働問題記者として、また労働組合のリーダーとして若い情熱を傾けていた時、神戸支局転任の話が降ってわいた。わたしの上司である岡崎地方課長が神戸支局長に転勤することとなり、わたしを連れて行こうというのだ。

 岡崎課長は前回記した通り、社中でも労働問題に対し最も深い関心をもってわたしの書く労働記事を歓迎してくれたし、わたしが、労働運動に首を突っ込んでいることに対しても、見て見ぬふりをしてくれた。わたしはこの人の下で働くことに生き甲斐を感じ神戸転任を快諾した。

 しかし、本社を去って割の悪い地方支局行を決意した理由はこれだけではなかった。神戸が川崎三菱両造船所を中心とした労働者の街で、労働運動が漸く盛んになろうとしていること、その指導者として友人賀川豊彦氏や久留弘三氏のいることがわたしを神戸へ引きつけたのだ。

 毎日新聞神戸支局は相生橋の崖の下にあった。貧弱な田舎の三等郵便局といったボロ建物で、二階が編集、階下が販売になっていた。脇を通る汽車の吐出す煤姻で室内は物置のようによごれ、汽車の地ひびきで社屋は一日中震動していた。

 支局長岡崎鴻吉氏は早大出身(わたしとは十年の距りがあった)、同クラスには大山郁夫氏や永井柳太郎氏がいた。はじめ、毎日新聞へは永井氏が就職する筈になっていたが、イギリスへ留学することになって急に岡崎氏がこれに代ったということだった。永井氏は一度神戸支局に岡崎氏を訪ねて来られて、わたしも久しぶりに会った。

 わたしは早大在学中、永井先生に社会政策と植民政策を学び、また下谷万年町などの貧民窟や江東方面の社会事業施設の見学につれて行ってもらったりして、後年のわたしを形成するのに大きな影響を与えた恩師だった。

 わたしが労働問題に取っくんでいることを聞いて永井先生は「君の社会政策の答案にジョン・プルートンの言葉を引いて“財産はこれ臓品なり”と書いてあったのをぼくは覚えているよ。しっかりやり給え」といって激励して下さった。

 岡崎氏は気骨のある九州男子だった。氏が神戸支局長に就任した時、まっ先に松方川崎造船所社長からの使者が来て、お祝いの品を置いて行った。岡崎氏は他からの祝品と同様、突返そうとしたが、前任の竹中支局長から神戸で一ばんの実力者として特に紹介を受けていたので、突返すのは非礼と思い、とにかくひらいて見ると元町のある呉服屋のマークの入った反物が出た。支局長は直ぐ人をその店へやって反物の値を聞かせ、それと同じ値段の葉巻煙草を買わせて松方氏へ返礼した。

 労働問題を紙面の特色とする以上は松方氏のような工業大資本家に引け目を感ずるようなことはしたくないと考えてしたことだが、これを受取った松方氏は「何だ、こんなまずい葉巻、吸えるもんか……」といったかそれとも「この新聞屋やりおるわいと思ったか、そこまでは調べなかった。


   (続く)
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