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村島帰之の労働運動昔ばなし(第14回)

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「神戸:賀川記念館界隈」(今日のブログ「番町出合いの家」http://plaza.rakuten.or.jp/40223/ )




村島帰之の労働運動昔ばなし(14)

『労働研究』(第137号)1959年7月号連載分


            第二回 川崎造船所と松方社長
          
(前回に続く)

               日本最初の口語体新聞


 それともう一つ、岡崎支局長に関して書いておきたいのは、新聞の文体を思い切って口語体にしたという一事で、それも労働問題に若干の関係があるのだ。

 日本で一番はじめに口語体の新聞を出したのは兵庫県だった――といっても大部分の人は信用しないだろう。しかし、事実はあくまで事実である。

 大正のはじめ頃の新聞はまだ全文が文語体で書かれていた。もちろん今と違って、記事全部には「総ルビ」といって一々ふり仮名がつけられてあったのだから、ルビをたよりに読むことは読めるが、内容はつかみにくい。それで紙面の中でも、小説などは一番早く口語体となったが、一般の記事は依然として「何々にして何々なりき」といった書きっぷりから離れなかった。

 尤も東京の三流の新聞で「袁世凱は死んだ」という見出しをつかって口語体を採用したことがあったが「死んだ」では軽すぎるやはり「死去」がいいという反対論が出て完全実施はできなかった。

 それを思い切って口語体に踏みきったのは毎日新聞の兵庫県附録で、大正七年九月一日のことであった。(毎日新聞の本紙全部が口語体になったのはそれから数年してからである)

 そのいきさつを当の岡崎支局長に回想してもらおう。

 『さて、毎日新聞兵庫県附録に口語体を採用した一件ですが、小生は大阪本社の地方課長で地方版を作っていた時「原稿はすべて文章体に限る、言文一致を用ゆべからず」と通信心得にも書き、地方の特派員や通信員にもそう厳達していました。これは口語体ではどうしても文章が長くなり、紙面に多くの記事を収める事ができないためでした。

 ところが、大兄から「青年労働者は義務教育は受けているが、工場に入っているうちに六カしい漢字を忘れて新聞も十分に読めない者が多く、ことに難しい文章は全く歯が立たない」と聞き、それがピンと来たのです。そして小学卒業後三、四年の少年達の学力を試験したらお話の通りでした。

 それで、これは新聞の文章をやさしくするほかはないと考え、兵庫県附録が支局長の勝手にできるのを幸い、大正七年九月一日の赴任を、一日くりあげ八月三十一日とし、九月一日紙上から全部口語体としたのでした』


    (つづく)
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