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村島帰之の労働運動昔ばなし(第15回)

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「神戸・賀川記念館界隈」(今日のブログ「番町出合いの家」http://plaza.rakuten.or.jp/40223/)




村島帰之の労働運動昔ばなし(15)

『労働研究』(第137号)1959年7月号連載分


              第二回 川崎造船所と松方社長
          
(前回に続く)

                 近代的親分松方社長


 大正六、七年から十年にかけて、兵庫県の実業家を代表するピカイチ的な存在は川崎造船所社長松方幸次郎氏であった。

 毎朝、川崎造船所の始業の汽笛のなりひびく頃、二頭馬車――といっても今の自動車のような立派な箱型ではなく、ホロのいった旧式の馬車に、葉巻をくわえながら悠然と乗って、蹄の音も軽く造船所へと急ぐ松方社長のエビスさまのような童顔は川崎関係者だけでなく、神戸市民に親しみ深いものだった。

 その時、菜ツ葉服を着た川崎の職工が汽笛のひびく中を小走りに馳けて行くのを見ると、社長は馬車の上から呼びとめて「遅るツど、ここへ乗りやす」といって馬車にのせてやったりした。(わたしがこの話をプロレタリア作家貴司山治氏にしたら、彼は「社長の馬車」と題して短篇小説にした)

 松方社長は賀川氏のいったように近代的親分といった処があった。最近横浜で神部健之助氏が発見した資料によって、彼が東大子備門在学中、暴行事件を起して退学処分となり、再入学願を提出している事が判ったというから、彼が青年時代から、青白い一般の金持のぼんちとは違っていて、なかなかのサムライであったことが想像される。その時の再入学願書は予備門長杉浦重剛あてで次の如く書かれている。

 「私儀一時ノ不心得ヨリ去ル二十七日ノ暴行二関シ、退学被申付候段、恐縮ノ至リニ奉存候、然而其後謹慎悔悟致シ勉励仕居申シ候間、何卒特別ノ御詮議ヲ以テ再入学御許可被成下度此段奉懇願候 以上
  明治十六年十一月二十日
                 府下芝区三田一丁目二十八番地
                   鹿児島県士族 松方幸次郎(印)
                         (慶応元年十二月生)

 この願いは容れられて、その願書の末尾に

  願之趣特別之詮議ヲ以テ聞届候事
    明治十七年五月二十日
                   東京大学予備門長 杉浦重剛(印)

 と朱筆がある。多分、元勲松方正義公の七光りが利いたのであろう。

 しかし、再入学の許されたのは、願書が出てから半年を経過していた。松方氏はその閉門解除が待ち切れず、三月にはエール大学に学ぶため、すでに渡米していたのだから折角の再入学許可も後の祭りになった。だだっ児らしい松方氏の面目がうかがわれる。

 松方氏は渡米後、エール大学に学び、さらに欧州に移りパリ大学、オックスフォード大学を渡り歩いて帰国後は松方内閣の秘書官となり、明治四十五年には神戸から代議士に当選した。しかし、中途で志を変え、実業界に転身、神戸川崎造船所の社長となった。

氏は昭和二十五年六月二十四日、八十四才の生涯を閉じるまで実業界で縦横に活躍したが、神戸時代は五十台のあぶらののりきった時期で、彼のサムライぶりと、近代親分ぶりが最も華やかに展開された。

 わたしの独断を許されるなら、大正十年の神戸の大争議が罷業四十五日にわたり、多くの収監者・解雇者ばかりか死傷者さえ出し、川崎・三菱で立っていた神戸全市を震憾させたのは、松方社長が、あいにく外道中で、その留守をあずかる重役がボンクラだったためだといいたい。もし松方社長がいたら、ああした大事に至らぬ前、ボヤのうちに消火していたと思う。しかしだからといって彼が労働運動に理解と同情をもっていたというのではない。ただ、資本家としての彼がその腹の太さにおいて他の群小実業家との間に天地の差があったというのである。

   (つづく)


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