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村島帰之の労働運動昔ばなし(第19回)

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「高松・玉藻公園」(今日のブログ「番町出合いの家」http://plaza.rakuten.or.jp/40223/)



村島帰之の労働運動昔ばなし(19)

『労働研究』(第138号)1959年8月号連載分


               第三回 清野長太郎知事時代

    (前回のつづき)

                 知事、組合代表を招く


 これよりさき、大正六年三月、清野知事は兵庫県下の救済事業団体(まだ社会事業とも、社会福祉事業とも呼ばれていなかった)の連絡機関として「兵庫県救済事業協会」なるものを結成し、その世話役として内務省にいた小田直蔵氏を招聘し県嘱託とした。

 その小田氏や県会議員の福井捨一氏(当時の賀川氏の後援者の一人)から、神戸の葺合新川の貧民窟に賀川豊彦という一風変った男が居て、最近アメリカの留学を終えて帰朝し、労働組合―友愛会の指導をしているという話を聞かされた。

 知事は、さっそく両氏を通じ賀川氏に会見を申し入れた。賀川氏は友愛会の会見は、今なら何でもないことだが、労働団体の勢力も微弱で、官庁側から心全く無視されていた時代に、知事の方から丁重に会見を申入れられたというのだから、友愛会の労働者たちは、まるで労働組合が政府から公認されたように解して喜んだのもむりとはいえまい。

 知事と賀川氏らの会見の席上では、いろいろ話もあったが、失業問題がとりあげられた。その頃、失業者のための公営紹介所としては、東京市内に公益職業紹介所(今の職安)が四ヵ所できていただけで、大阪でさえ、八浜徳三郎氏の経営する私設の大阪職業紹介所があるだけだったし、神戸でも無きにひとしかった。

 八浜氏は神戸でキリスト教の牧師をしていた人。明治四十四年十二月二十四日、神戸神学校学生賀川豊彦が学校の寄宿舎から葺合新川の貧民窟に移り住んで、貧しい人々のために奉仕と伝道を始めた際、八浜氏は、
 「賀川君、貧民窟の人たちを救済しようと思うのなら、おとなはみな追ッ払って、こどもだけにしなけりやだめだよ」
 と含蓄のある忠言を与えたという。わたしも大正五年に「ドン底生活」を毎日新聞に連載した時、大阪の今宮の貧民窟近くにいた同氏からいろいろと教えられたものだ。

    (つづく)


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