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村島帰之の労働運動昔ばなし(第23回)

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「高松城跡・玉藻公園」(本日のブログ「番町出合いの家」http://plaza.rakuten.or.jp/40223/)



村島帰之の労働運動昔ばなし(23)

『労働研究』(第138号)1959年8月号連載分


              第三回 清野長太郎知事時代

    (前回のつづき)
              
                講習会の聴衆は一人半


 しかし、当時の組合の一ばん主な仕事はもちろんお葬式ではなく、啓蒙運動で、機関紙を発行し、また演説会や講演会がたえず開かれた。組合の役員会の如きもまた一種の幹部教育会であった。

 明治二十二年、日本最古の組合といえばいい得る同盟進工組の創立当時、組合員の協議会のあとで一同打ちそろって吉原へ女郎買いに出かけたため、妻女の怒りを買い、その次から協議会の通知が行っても妻女はまた女郎買いに行くものと速断して、その通知をにぎりつぶしてしまったため、折角の同盟進工組がだめになったという伝説がのこっているが、大正期に復活した組合運動――友愛会の運動は、キリスト教信仰の人たちをリーダーとしで誕生し、育成されて来ただけに、そんな不真面目さは全くなく、会合の前後には智識分子といわれたわたしたちをつかまえて、疑問を質したり、議論をふっかけて来たりした。

 前々号の本誌で池田信氏が書かれた「賀川豊彦の労働組合論」にあったように、一時、賀川氏はギルド社会主義を雑誌「解放」「改造」などで提唱したが、その時などは、これに対する疑問が多くの人たちから盛んにもち出された。

 そのためわたしは、わたしが支部長をしていた尻池支部(川崎の兵庫工場や神戸市電湊川発電所の人たちにより大正五年に創立)の人たちの要請で、一組合員の家の二階で講習会を開き、ギルド社会主義の解説を連夜にわたってさせられたことがある。

 しかし、残業につぐ残業で、夜の帰りのおそい人たちは出たくても出られず、ある夜のごとき、出席者は、後に県議会員になったカイゼル髭の行政長蔵君ただ一人。いいや、同君は女児を抱いて出席したから一人半といえるのかも知れない。その夜、父親に抱かれてギルド社会主義の講義を聞いた?赤ちゃんは今は立派な女医さんとなっていると聞いている。

              演説会の最終弁士広沢一衛門氏

 こうして労働組合の会合は講習会はもちろん、一般演説会でも、幹部たちは人よせになみなみならぬ苦心をした。

 古い切抜帳を見ると、わたしが大阪から神戸へ移る直前の大正七年四月二十七日夜、大阪春日出小学校で開かれた友愛会西支部創立一周年祝賀講演会には、有名な岡村司博士を始め賀川氏やわたしが出演したが、これら講師の講演の後、寄席なら「真打」の大家として広沢一衛門氏が登壇している。

 広沢一衛門? 労働運動関係者にはなじみのない名だな、と思われるだろうが、その筈、広沢氏は大家の大家でも浪花節の大家だったのである。こういう「大家」が出ないと、わたしたちのような前垂の講演だけでは人の集りがよくなかったのである。
 
 その頃、友愛会神戸支部の社会政策講演会でも、筑前琵琶・尺八が社会政策講演のおそえものとして出ているが、あるいは、一部の人たちには講演の方がお添え物だったのかも知れない。

 こうした「余興入り」演説会も組合員の自覚に伴い漸次影を消して、真剣な演説会に移って行った。それと同時に清野知事の心配も漸次現実化して来るわけだが、大正七年頃はまだその過渡期であった。



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