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村島帰之の労働運動昔ばなし(第34回)

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「神戸・賀川記念館界隈」(今日のブログ「番町出合いの家」http://plaza.rakuten.co.jp/40223/)



村島帰之の労働運動昔ばなし(34

『労働研究』(第143号)1960年1月号連載分


             第五回 神戸新川における賀川豊彦

         (前回に続く)
  
                  貧しき人々と共に


 賀川氏がスラムに住み込もうと考え出したのはまだ徳島中学の生徒の頃の事だった。

 庶子に生れ、幼くして実父母を失った氏をわが子のようにいつくしみ、勉学の道をひらいてくれたのはマヤス博士兄弟であるが、徳島中学在学中、その博士邸の書斎である日何気なく読んだ原書の中に、キャノン・バーネットがオックスフォード大学の学生と一しょにロンドンのスラムに居住し、貧しい人々の善き隣人となって働いた記録を発見し、自分も生涯をこの方法で献身しようと考えた。

 そして徳島中学を卒え、マヤス博士の援助で明治学院の高等部に学んだが、寄宿舎にいるあいだに、捨て犬を拾って帰って内しょで押入の中で飼ったり、飢えていた乞食が可哀そうで見るに見かねたといって連れて帰って自分の部屋に泊めて物議をかもしたりした。氏の救済事業はこの時に始まったともいえそうだ。

 そのうち、明治学院の神学部が一部神戸に移されることになって、氏は神戸には貧しい人たちが多いことを理由に神戸の神学校を選ぶことにした。

 この頃、氏は既に肺患にかかっていたが、どうせ死ぬなら、自分の素志通り、スラムの伝道をして死にたいと考え、学業の傍ら、葺合新川に出かけて路傍説教を試みた。

 そうこうしているうち部落の親分新家定吉氏と知りあい、その持家――人殺しがあって、ゆうれいが出るといって借手のなかった長屋へ住みこむこととなった。

 明治四十二年十二月二十四日、神戸神学校の寄宿舎から本や机や蒲団をつんだ荷車を自身でひき、路傍説教で知りあった不良少年を案内に頼んで葺合区北本町六丁目二百二十番地のいわゆる新川の長屋へ移り住んだ。わずか四坪のあばら家で、日家賃は七銭であった。

 それ以来五年間、貧しい人たちと寝起きを共にし、その救済とキリスト伝道に文字通り献身した。

 その後大正三年から二年八ヵ月、アメリカに留学して留守にしたが、大正六年五月帰朝すると再び春子夫人と共に元の新川に戻って来た。

 わたしはその帰朝間もないある日、氏に案内されて、氏の活動の舞台である新川部落を見せてもらったのである。

 賀川氏は黒紋付とは名ばかりの色のあせた羽織の前をコヨリのヒモで結んで、まだ三十才にもならぬ書生ッポ姿、洋行戻りとは誰が想像しよう。



        写真   貧民窟十年記念会―神戸海運クラブで


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        向って右から
        ヒゲの送別会の     遊佐敏彦
        賀川後援者       大村甚三郎
        県嘱託(後の社会課長) 小田直蔵
        賀川氏の師・恩人    マヤス博士
        県保安課長(警視)   土屋正三
        毎 日 記者(筆者)  村島帰之
        スラムのドクター    馬島 僴
                    賀川豊彦
        牧 師         長谷川敞
        賀川後援者(県議)   福井捨一


        (つづく)


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