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村島帰之の労働運動昔ばなし(第39回)

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上の記事は今朝(2012年10月10日)の神戸新聞です。昨夜この記事の掲載のことは連絡を受けていましたが、もうずいぶん前に神戸新聞総合出版センターより刊行された著書がいまニュースになっているようです。ここの「賀川豊彦」のところを執筆させてもらい想い出深いものではありますが・・・。あの論文は拙著『賀川豊彦の贈りもの―いんち輝いて』に収めています。




村島帰之の労働運動昔ばなし(39

『労働研究』(第143号)1960年1月号連載分


                第五回 神戸新川における賀川豊彦
      (前回に続く)
      
                    ゴロツキともらい子殺し


 しかし氏を一ばん悩ませたのはこれらの寄食者ではなくゴロツキだった。彼らは賀川氏の無抵抗主義を知っていて次から次へとゆすりに来たり乱暴を働いた。

 賀川氏が毎夜路地に立って「善に立ち帰れ」と叫んでいると、その路傍説教の中で淫売を攻撃したのはけしがらんといって火のはいった火鉢を投げつけた男もあったし、また或る博徒はゆすりに応じないといってピストルを乱射し、あまつさえ氏の家の障子や飯びつまで強奪して行った。そのほか、酔うて来ては伝道所のオルガンやガラス障子をこわす者、祈り会の最中に大きな石を投げこんで、いやがらせをする者もあった。

 このように白刃やピストルもなれて見るとそれほどこわくはなかったが、一番氏を悲しませたのは貰い子殺しであった。わずか五円ぐらいの金がほしさに養育料付きの赤ン坊を貰って来てはおかゆばかりたべさせて栄養不良で死なすのである。

 氏はたびたびこの貰い子を救った。氏がスラムにいって間もない頃、一人の老婆が検挙され、そのあとにもう一人の赤ン坊がやがて乾干にされようとしていたことを聞き、警察から貰いうけて養ったことがある。もちろんまだ春子夫人を迎える前で、神学校の試験のさい中だったが、ほとんど眠らずに梅干のようにしなびた上、腸カタルで四十度近くも熟のあるその子のために乳をとき、おむつをかえた。その子はもう泣く気力さえなかったが、賀川氏は悲しさに涙がとめどなく頬を伝うのだった。

 賀川氏は一度スラムに落ちこんだおとなはなかなか容易に浮びあがれないことを知ったが、せめて、まだ穢れを知らぬこどもたらだけは助け出したいにと考えて、暇があると表へ出てこどもたちと遊んだ。

 だから氏の界隈の子は、まだチャン(父)と呼べない幼な児も「チェンチェ」といって氏を呼んだ。氏が便所へ行くと便所の口までついて来て、氏の出るのを待っている子もあった。

 ある年のクリスマスに出口船長の宅によばれて行ったこどもたちの中の一人はおしぎをすることを知らないので、シャッチョコ立ちをしてみせた。

 こうしてかわいがっても、男の子は成長すると周囲に感化されてチンピラの群に入り、女の子はならずもののために淫売に売られるか、さなくば親が女郎に売ってしまった。賀川氏の愛の力をもってしても、この強大な生活環境の圧力にはどうすることもできなかった。

 わたしは賀川氏からそうした話を聞かされて、氏が貪民救助事業だけで満足せず、労働者の自助組織である労働運動に情熱を傾けつつある気持がわかる気がした。

    (つづく)
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