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村島帰之の労働運動昔ばなし(第46回)

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「カリン酒」(今日のブログ「番町出合いの家」http://plaza.rakuten.co.jp/40223/)



村島帰之の労働運動昔ばなし(46

『労働研究』(第143号)1960年2月号連載分

            第六回 大正6年の三菱争議
                ―主役を演じた3人の基督者

  
  (前回に続く)
      

                颯波光三と木村錠吉


 さて、三菱の争議のあったその頃、川崎造船所の方はどうだったか。

 友愛会としては、もちろん川崎造船所の方が三菱より遥かに大きな勢力をもっていたが、満を持して動かずというよりは、内部の力を充実することに意を注ぎ、鈴木文治や賀川豊彦を迎えて演説会を催したり、屡々役員会を開いて幹部の結束に努めた。この情勢が大正八年のサボタージュの時までつづいた。

 川崎造船所を中心とする神戸支部のリーダー株は昼間は川崎で働き、夜間は湊川実業補習学校へ通い、工学の基礎を学んでいる青年工員だった。(その中には野倉万治や青柿善一郎らがいた)

 しかし、最高の地位の支部幹事長には、通称「工場長」(コウバチョウ)で呼びならされている職長の同志が推された。大正四、五、六年へかけては、木村錠吉と颯波光三が交替して幹事長となったが、共に「コウバ長」であった。

 木村と颯波とは全く性格を異にしていた。木村は一見するところ、豪放磊落な東洋的豪傑といったところがあり、颯波は温厚で親切なおじさんという風があった。木村はずんぐりと太っていて、友愛会へ来ても葉巻をくわえて悠々と構えていたが、颯波は長身痩躯、鼻下にチャプリン型のヒゲを蓄え、親しみ深い視線でみんなを見廻していた。

 わたしが神戸支局に赴任した時、友愛会の人たぢが家を捜してくれたが、その家は須磨、といっても兵庫に近接した西代というゴミゴミした小市民住宅の建ち並地区で、川崎へ通勤する者が多く、わたしの隣りには伍長の灘重太郎が住み、北へ少し坂を登ると同じ伍長の須々木純一、さらに上へ登ると颯波光三が住まっていた。つまり、月給の多いほど坂を登って見晴しのいいところに住まっていたのだ。(私はさしずめ伍長というところだった)

 颯波は地味な職長らしい人で、木村とは違い地味な性格だったから今此処でその人となりを説明するに足るような挿話もない。ただ彼のどっちかの手の指が、機械のため無残に奪い去られていたぐらいで書くことがない。一方、木村はいろいろと逸話がある。友愛会で会うと、よく自慢話をして聞かせてくれた。

     (つづく)

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