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村島帰之の労働運動昔ばなし(第49回)

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「オーロラのような虹」(今日のブログ「番町出合いの家」http://plaza.rakuten.co.jp/40223/)



村島帰之の労働運動昔ばなし(49

『労働研究』(第149号)1960年7月号連載分

   第七回 「死線を越えて」の裏話
        ―賀川豊彦追想録―


  
               「4銭を超えて5銭」


 このように賀川氏が世界的に有名になったのは氏の信仰や学識やそれにもまして、貧しき者、病める者、悩める者に対する献身と全生全霊を投げ出したキリストの実践にあったことはいうまでもないが、広くその在生を知らしめる直接の動機となっだのは氏の処女作、小説「死線を越えて」であったといえよう。

 戦時中の話だが、出征軍人に送る千人針の布片に5銭白銅を結びつけて「死線(4銭)を越えて無事凱旋するように」と縁起をかついだり、またその頃の福引に「死線を越えて」というのを引当てると、「死線(4銭)を越えたのだから5銭です」といって5銭白銅1枚をくれたりした。いかに「死線を越えて」が広く読まれたかはこれでも判るだろう。

 ではなぜ「死線を越えて」はそんなに売れたのか。それは作者の神戸葺合新川部落における祈りと愛の奉仕の驚くべき貧民窟生活がなまなましく描き出されていたからである。

 ゴロツキや売春婦や不良少年や貰い子殺しやアル中毒の人たちと共に住んで、時にはドスで脅迫され、ゲンコでなぐられながら、なお貧しい人たちのための奉仕をやめようとしなかった活きた信仰の実録が、読者の心を動かしたのである。

 そして多くの純真な青年男女が貧民窟に賀川氏を訪ねて、あるいは奉仕を申し出で、あるいは求道者となった。戦後に大臣となった水谷長三郎氏やマスコミの大スター大宅壮一氏などもその一人で、両氏とも神戸の貧民窟の寒々とした説教所で賀川氏からキリストの弟子となる洗礼の式をしてもらった。

 勿論「死線を越えて」が出る前から、賀川氏の名はぼちぼち新聞や雑誌にのっていた。新聞で最も早く賀川氏の真価を知り、紙上で屡々同氏の働きを紹介し、またその寄稿をのせだのは大阪毎日新聞であった。

 雑誌で最も早く賀川氏をとらえたのは「日本評論」であった。しかし、「日本評論」雑誌が小さかったため一部に知られたに止った。賀川氏を最も有名にしたのは、何といっても「改造」である。

 その頃の「改造]の編集長は横関愛造氏だった。そして横関氏と賀川氏の橋渡しをしたのは、かくいう筆者でめった。

 確か大正7年の末頃だったと思う。機関編集長から「神戸に賀川という変った学者がいるそうだが、もし君が知っているのだったら、改造に何か書いてもらってくれ」という手紙が来たので、賀川氏に話したのが、賀川氏と改造とを結ぶそもそもの初めであった。

 間もなく「改造」の社長の山本実彦氏が西下して賀川氏を新川に訪ねた。山本社長は、賀川氏のスラムの事業に深い感銘を覚えだ。そして、話しあっているうち、賀川氏の古い小説を「改造」にのせる相談がまとまった。それが「死線を越えて」で、一部分は「改造」にのったが、中途から「改造」へ掲げるのを中止し単行本にして出版したところ、日本の出版界始って以来の売行きを示し、賀川の名は律々浦々にまで聞えるようになった。

     (つづく)


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