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村島帰之の労働運動昔ばなし(第55回)

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「烏池貯水池」(今日のブログ「番町出合いの家」http://plaza.rakuten.co.jp/40223/ )



村島帰之の労働運動昔ばなし(55

『労働研究』(第153号)1960年11月号連載分

第八回 大正八年という年
    ―弾圧と風刺する演説入りラッパ節―



        ロシア革命の余波


 大正6年11月、ロシア革命が成就し、また国内では翌7年8月、米騒動が日本の各地に連鎖反応を起して続発し、8年には吉野作造博士によるデモクラシー(民主主義とはいわず、民本主義といった)の提唱があって、日本の社会運動はこれを転期として一大進展を見せた。

 特にロシア革命の影響はただに社会主義運動だけにとどまらず、労働運動にも大きな波紋を投げ、マルクスやレーニンの名が親しみをもって労働者の口にのぼるようになった。進歩的な思想をもった組織労働者はこう唄った。

 「アジアにつづく北欧のロシアの民を君見ずや専制の雲切りひらき自由の光仰がんと…」

 そして革命の翌年、ロシアが飢饉に襲われて労働者たちが苦しんでいると聞くと義損金を送ろうということになり、ハガキ倍大ぐらい楕円形の偏平な石膏にマルクスまたはレーニン肖像と「万国の労働者結束せよ」という共産党宣言の有名な末尾の言葉を浮彫りにした壁掛けを作り、1箇50銭で売った。京阪神の組織労働者は喜んでこれを買った。

 こうしてロシアの赤い嵐は大正7年以降日本の社会運動の中に吹込んで来たが、台風がまっ先きに吹き荒れたのは箱根から東で、関西は台風の圏外にあった。(その関西もその後神戸を中心にして台風に巻きこまれた)その証拠には9年に「社会主義同盟」が東京で結成されたが、その際も東京の労働組合の信友会、正進会、交通労働、鉱夫総同盟等と一しょに友愛会の関東同盟もこれに参加し、個人として友愛会の麻生久、赤松克麿氏らが参加したが、関西の友愛会はこれに加わらず、賀川豊彦氏をはじめ関西のリーダーたちも1人としてこれに参加する者がなかった。

 そういうわけで、箱根を境として、東西の労働組合の運動方針には可成りの隔たりがあった。東のリーダーは西の労働組合を指して「彼らには思想がない」と罵り、西のリーダ
-たちは「東の連中は足が地に着いていない」と批判した。西は現実派だったのである。
   
 では、関西の労働運動家たちは一体どんなことを考え、またどういう方向に進もうとしていたのだろうか。 

        (つづく)



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まとめ【村島帰之の労働運動昔】

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