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村島帰之の労働運動昔ばなし(第65回)

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「10月17日の夕陽」(今日のブログ「番町出合いの家」http://plaza.rakuten.co.jp/40223/)



村島帰之の労働運動昔ばなし(65

『労働研究』(第153号)1960年11月号連載分

  第九回 日本最初のサボタージュ
      ―タナボタの8時間労働制―
 
 
       (前回の続き)

                 歎願書の提出

 
 ある夜、友愛会に行くと、青柿善一郎氏が居て「ちょっと相談したいことがある」という。2階の隅に行って青柿氏の話を聞くと、川崎造船所の造船、造機、製缶、電気の各工作部では現行日給7割の歩増の本給繰入れと5割歩増、6ヵ月以上勤続者に対する年2回の賞与支給、それに特別賞与、分配期日の明示、食堂洗面場その他衛生設備の完備の4項目にわたる嘆願書一一まだ要求書という言葉は一般に使用されてはいなっかた一一を松方社長に提出するというのだ。

 戦時歩増の本給繰入や歩増の増加や年2回の賞与支給は前記の「大正8年中に何をしたいか」というアンケートにも出ているほどで、要求としては一般的常識であるが、特別賞与は川崎造船所だけの問題であった。特別賞与というのは松方社長がイギリスから帰朝した時、造船所で多年功労あった者に特別賞与3、750、000円を支.給すると発表したのに、その後、一向支給される気色さえ見えないのに業を煮やしたものであった。また衛生設備の不備はいやしくも大川崎の設備としては受取れぬほどのもので、食堂らしい食堂はなく、雨天の日などは工場の軒下に立って雨を避けながら食べるので雨のしづくが弁当に入る。手洗設備もなく、器械をふいた古布で手をふくがその布たるや油じみているのは当然としても時には血でよごれたものさえある、という話であった。

 これらの要求を盛った嘆願書の起草を青柿氏は一任されたのだが、どんな風に書いたらいいか迷っているので私に手伝ってほしい、というのだった。私と青柿氏はひたいを寄せて、松方社長向きの恐惶謹言といった調子の草案を作製した。サボの直後、私の編纂した小著「サボタージュ」にはその嘆願書全文がのっているが、その末尾には、
「博愛仁慈の社長閣下にして幸いに我等の窮状を御憫察の上、何分の恩命に接するを得ば我等1万5千の職工及び家族の幸福これに過ぐるものは無之侯」
と書いている。今の労働運動家が見たら「何という封建的な」と憤慨するだろうが、40年前はこんな美辞麗句が儀礼的に使われたもので、もちろん本心からではない。

 なお嘆願書の草案を書き終ったあとで、要求が拒絶された場合は懸案の「サボタージュ」を決行する予定だということを青柿氏はそっと耳打ちしてくれた。勿論、これは決行の時まで絶対秘密である。

 右の嘆願書は8月15.6両日にわたって提出され、川崎造船所全職工16、000名の意志がハッキリと打ち出された。しかし18日の労資会見で松方社長は特別賞与は10月31日までに支給する。年末賞与は6ヵ月間10日以内の欠勤者には支給する。衛生設備も漸次完備する、と要求を認めたが、第1項の増給案は「当社には近く8時間労働制実施の計画中だから」といってこれを拒否した。各部職工代表は「それでは要求拒絶ですな」と一言を残し肩を怒らせて退場した。

 この会見に立会っていた各新聞記者は「決裂だ!」といって、これを記事にするため急いでそれぞれの新聞社や支局へ帰って行った。しかし、私だけは支局へ帰るべき足を反対に職工代表と一しょに工場の方へ運んで行った。

 いよいよ日本最初のサボタージュが始まる。そのサボがどういう風にして実行されるか、それを見て記事とせねばならぬと心を躍らせながら一一。

     (つづく)



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