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村島帰之の労働運動昔ばなし(第80回)

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村島帰之の労働運動昔ばなし(80

『労働研究』(第158号)1961年4月号連載分

第十回 サボタージュの反響
    ――特に河上肇氏の擁護論


(前回のつづき)

                賀川豊彦氏の反対論


 私の書いたこの記事にもあるように、サボタージュはヤナギ若くはアミダという名称で前々から行われていたにせよ、それはホンの一部でのことで、ストライキやボイコットのように広く行われたものでなかったことはいうまでもない。それが川崎造船所のサボタージュが天下に著聞するようになって、始めて、そうした戦術もあるのかと思うようになり、これを戦術として戦う労働者も出て来た。

 しかし、どっちかというと、怠業を行う労働者自身でさえ、ストに比べるとサボは何となく・うしろらいような気がするらしく、川崎のサボのあった大正八年に全国で五百件以上の争議が行われたに拘らず、サボを行ったのは目星しい処では東京市電ぐらいであった。東京市電がサボを行なったのぱ、ストを断行すれば市民の反感を買う危険の多いところから、市民の反感を少くし、しかも使用者側にはストに劣らぬ圧力を加えることのできるサボを選んだものである。交通労働以下では兵庫県下でも大正十三年になってから四月に日本毛織職工七千人の怠業、同五月神戸ダンロップのゴム職工千二百名の怠業があったくらいでそのほかにはこれというほどのものはなかった。

 また労働組合としても罷業の方はやりいいが、サボはやりにくいらしく、戦後になって官公労が遵法闘争などという名の下にこれを採用し、実力闘争の有力な戦術とするようになるまでは、むしろ目陰の存在であったといえそうである。

 大正八年の川崎造船所のサボタージュにしても、これは労働組合(当時は友愛会が唯一の組合だった)の争議ではなかった。これは二年後の神戸大争議とは異なる点である。もちろんサボの指導者であった野倉栄治氏をはじめ、青柿善一郎氏ら主なる人々は友愛会の幹部であったが、友愛会として正式にこれをバックアップしたわけではなかった。現に神戸の友愛会の幹部賀川豊彦氏や久留弘三氏はサボタージュには全く関与していない。

 賀川氏はサボの起る数ヵ月前の友愛会神戸連合会の機関誌「新神戸」に「暴動の安全弁」と題する一文を載せて「ある種の労働運動関係者はサボタージュと称して暴動は労働運動に必要なりと説く、しかし私等はその教理と実際を笑うものである」として、サボタージュに対しては始めから反対の態度をとっていた。

 しかし賀川氏の反対したのはフランスなどのサンディカリストの行なった破壊的なサボであって、すべてのサボタージュが破壊的、暴動的とはいえない。殊に日本で行われたサボタージュは、前述のように昔からの「ヤナギ」や「アミダ」を組織的に行ったもので、暴動などとは凡そ縁遠いものであった。だから賀川氏も、川崎造船所のサボが始まると、先鉾をゆるめて、「サボは労働者の勤労意慾を低下させ、また生産を麻庫せしめる」といった程度の反対論に変っていた。

 もちろん争議には関与しなかったが、それでも気になるのか、サボの状況を視察するため造船所へやって来て、居合ぜた私からいろいを聞いて安心したような面持ですく帰って行った。賀川氏の小説「死線を越えて」の下巻「壁の声きく時」の中にも川崎のサボが出てくる。それには私の名をもじった「島村信之」という新聞記者が争議戦術としてのサボタージュを組合で講義するところが出で来るが、別段サボを批難するようなところは少しもない。賀川氏は自分としては怠業には賛成し難いが、川崎造船所の諸君の行った程度のサボならとり立てて反対することもないといった心境だったと思う。

  (つづく)

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