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村島帰之の労働運動昔ばなし(第81回)

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「上田達生さん:「凪の座」40周年リサイタル」(今日のブログ「番町出合いの家」http://plala.rakuten,co.jo/40223/)


村島帰之の労働運動昔ばなし(81

『労働研究』(第158号)1961年4月号連載分

第十回 サボタージュの反響
    ――特に河上肇氏の擁護論


(前回のつづき)

              
            三菱と製鋼所の動揺
  

 こうして川崎造船所一萬六千名のサボターユは終わり、次号で記すように、サボの副産物の八時間労働制は日本全国の資本家に大きなショックを与え、また同時に全国の労働者には、新らたな目標を与えることとなった。

 大正八年九月、川崎のサボタージュがすむと直ぐお隣りの三菱造船所および鈴木製鋼所でも動揺が起った。両社では川崎造船所のサボ目のあたり見、またその結果を聞いているだけに狼狽し、これを未然の裡にもみ消すためあらゆる努力をした。

 私が聞いたところでは三菱では工場と工場の間に柵(さく)を結んで、リーダー(その多くは友愛会員だった)の往来を遮断し、また目覚ましい者一六名を馘首した。気の毒だったのは直接これに関与していなかった三菱の友愛会支部幹事長福永宇太郎氏(機械工場の職長)と幹事高橋元次郎(同伍長)で友愛会の幹部というので早いところクビにされてしまった。そこで友愛会が決起しようとしたが、会社の手が先廻りして、あらゆる鎮撫策を講じたので手も足も出なかった。

 神戸製鋼所でも三菱造船所と同様。工場閉鎖一歩前といったような鎮圧策を講じたが三菱のような友愛会幹部のクビきりは行わなかった。却ってその反対に、友愛会の幹部だった同所の沢井重次郎氏らは争議をよく指導できなかった責任を負い、工場をやめてしまった。

 三菱にせよ、製鋼所にせよ、川崎のサボのはじまった頃から、飛び火の来るのを警戒し、水ももらさぬ防備態勢をとっていたため、労働者のつけ入るスキがなかったのである。
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