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村島帰之の労働運動昔ばなし(第105回)

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「昨日の写真から」(今日のブログ「番町出合いの家」http://plaza.rakuten.co.jp/40223/)



村島帰之の労働運動昔ばなし(105

『労働研究』(第168号)1962年連載分

     第十四回 日本最初の労働劇団
             
     (前回の続き) 

                沢田正二郎に指導を


 その頃(大正7、8年)の神戸の大劇場といえば聚楽館と中央劇場とだった。聚楽館は神戸の帝劇といわれて、さきほど物故した梅蘭芳(メーランファン)やイタリー大歌劇団も此処で上演した。中国演劇についてはかいもく知らない私は、大阪ホテル宿泊中の梅蘭芳にインタービューを申し入れ、日本の芝居には見られない優美な肩や腰の表情の秘術について質問し、名優を困らせたことを思い出す。

 その折の訪問記は神戸版のトップに堂々とのった。また水谷八重子がまだ十四、五才の少女でメーテルリンクの「青い鳥」のチルチルを演じた時も、岡崎支局長は思いきってその可憐な扮装写真を、紙面の8段をぶちぬいて大きくのせた。こんな調子で岡崎氏は労働問題に理解をもった進歩的記者だったが、同時に茶目気たっぷりでいろいろ思いきった新聞構成をして独りほくそ笑んでいた。私はいつもそのお先き棒をかついだ。

 中央劇場は聚楽館から少し北へ登ったところにあって、大阪歌舞伎や東京の新派(喜多村や若手の花柳など)がかかったが、私は早稲田の学生時代から知っていた沢田正二郎の新国劇とは特に親しく、夜遅くなると楽屋で大部屋の連中と一しょに泊ったり、楽屋風呂にも入った。東愛子という美しい女優と偶然、同じ風呂にはいり、こっちがはにかんでしまい、まともに彼女の顔を見ることもできなかったほどの純情な青年記者だった。

 私は久留氏らをたびたび楽屋へつれて行った。新国劇のファンは独り久留氏だけでなく、友愛会員中にも熱心なファンがいた。沢田はそれを知っていて、「労働問題の芝居やってみたい」といっていた。それで少し後だが、大正10年11月には賀川豊彦氏の「死線を越えて」を上演したりした。

 沢田の女房役に倉橋仙太郎という老け役かいた。この男は後に河内で小作争議に関与したりしたほどの熱血漢で、私が生野鉱山のストに出張して帰って鉱夫の話をしたついでに「入坑の鉱夫ふと秋風にふりかえる」というメイ句を披露すると、すぐそのあとの舞台でこの句を使った。

 彼は沢田の肩をもむアンマ役をやり乍ら「ダンナ私はこの頃俳句にこっております」という。沢田が調子を合わせて「名句ができたかい」というと、倉橋は待ってましたと、今、聞いたばかりの私の俳句を披露した。沢田が「なかなかうまいじゃないか」というと「実は、生野鉱山のストヘ行かれた村島先生にきいたのです」「なあんだ、村島さんの句かい、道理でうまいと思ったよ」と沢田がいった。もちろん、脚本にはない、出まかせのセリフで、私のご馳走にいっだのだが客こそいい迷惑であった。

 話は横にそれたが、久留から労働劇団の計画を聞いた瞬間、私はこれは沢田らの指導をうけるに限ると思って久留にいうと彼は大喜び。そこでさっそく沢田と倉橋にあてて指導の依頼状を書き、久留が持って大阪浪花座開演中の沢田の許へ飛んで行った。沢田は大乗気だったが、ネ申戸出演中とは違い大阪で昼夜二部興行をやっているので、時間的に今は不可能だから、神戸出演の際まで待てないかといった。しかし、労働劇の稽古は既に始まっている。やむを得ないから次のチャンスを待つこととし「沢田正二郎指導」をあきらめた。

     (つづく)


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