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村島帰之「労働運動昔ばなし」(『労働研究』連載第1回)

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「神戸大学グリークラブ定期演奏会」(今日のブログ「番町出合いの家」http://plaza.rakuten.co.jp/40223/)



       村島帰之「労働運動昔ばなし

       『労働研究』連載(第1回)

 賀川豊彦の盟友・村島帰之については折りに触れて言及し、鳥飼のブログ(「賀川豊彦の魅力」http://keiyousan.blog.fc2.com/)でも、すでに村島著『預言詩人・賀川豊彦』の長期連載を終えています。今回の「村島帰之の労働運動昔ばなし」は、どうしてもテキスト化して残しておく必要のある貴重なドキュメントですので、107回にわたって少しずつブログUPしてきました。一応全体を終えましたので、ここでひとまとめにして置きます。2012年12月22日ー鳥飼)


 兵庫県立労働研究所『労働研究』(第135号)1959年5月号より連載が開始されました。


          連載のはじめの編集担当者のことば

 村島帰之氏は早大出身、大正中期の関西の友愛会の創業時代に、大阪毎日新聞の労働運動担当記者として、運動の発展してゆく模様を詳しくみただけでなく、自身も友愛会の組織の内部にあって、運動を守り育てた人である。
 西尾末広氏は、その著書『大衆と共に―私の半生の記録―』のなかに、「賀川氏に次いで、大毎記者村島帰之氏が総同盟に尽してくれた功績は極めて大きい。村島氏は神戸支局時代から労働運動に関係していたし、大阪本社勤務になってからも、新聞記者というより同志的関係を持続した。友愛会の会合などではよく司会者をやったが、その場の空気をリードするのに巧みな人であり、一人として敵のない人格者だった。」と書いている。
 
 もっとも、村島氏が最初に労働運動に関与したのは、西尾氏が書いているのよりはずっと早く、大正五年、大阪に友愛会の関西支部ができたときであり、大正八、九年の神戸支局時代は、“労働運動に関係していた”という程度ではなく、大正八年の川崎造船所のサボタージュの成功などは、村島氏の海外労働運動に関する新しい知識に負うものであり、この争議の実質的な最高指導者は村島氏だったといえるほどである。

 村島氏のこういう立場から考えて、この[労働運動昔ばなし]は、神戸の友愛会についてはもちろんのこと、当時の関西の労働運動にづいて、運動内部の秘められた事情といったものまでをも含めて、多くの新しい事件や事実を明らかにするうえに、大変貴重な資料になると思われる。

 村島氏は、現在、茅ヶ崎市小和田七、一〇五にあって、闘病生活中であるが、編集者の無理なお願いを快く受けて、数回にわたって執筆していただくことになった。厚く感謝するとともに、ご全快の一日も早からんことを祈ってやまない。            



       第一回 友愛会の神戸開拓


 光は神戸の貧民窟より

 極めて大雑把に、大正時代のわが国の無産運動の地方色を概言することが許されるなら、私は斯う言いたい。関東の無産運動はより理想主義的で、関西の無産運動はより現実主義的であった-と。そして、もしも労働運動の正道が抽象的な理論斗争にないとしたら、現実的な経済行動を主として動いていた当時の関西の労働運動を、正統な労働運動といえるのではなかったか、と。

 関東の労働運動者が当時、関西の労働運動を評して「関西には理論がない」といい、関西の労働運動者は関東の運動を評して「彼等の足は地についていない」といっていたのは、その労働運動のローカル・カラーを自ら物語っていたものといえる。

 現実的な傾向を特色とした関酉の労働運動の由来するところはその土地柄によること勿論であるが、只だそれだけだろうか。私はその有力な因子として神戸葺合新川部落に住んでいた「賀川豊彦」の存在を無視できないと思うのだ。

 尤も賀川氏が労働運動を指導したのは、既に四十年に近い過去の昔語りになろうとしているが、その流れは、今も連綿として続いている。わが国の労働運動の最も激動期にある今日、四昔前の事どもを回顧して見るのもあながち徒爾ではなかろうと思う。

 大正三~六年の友愛会   

 大正六年五月、アメリカから帰朝した賀川氏はその足で二年八ヵ月間留守にした神戸の貧民窟葺合新川の二畳敷御殿に復帰し、再びセツラーとしての働きを始めた。「再び」とはいうが、その働き場所なり、その善意は前と変りはないけれども、氏の社会観には非常な相違があった。氏は当面の救護というものが無産階級の解放に些して役立たないこと、真に無産者を救わんとせば、まず彼等に組織を与えなければならぬこと。組織によって、彼等は自らを救うべきであること等々を、米国の民衆運動から教えられて帰って来たからである。

 賀川氏がアメリカに向け出発した大正三年九月には、まだ日本には工場法さえ施行されては居らず、労働組合も、友愛会が弧々の声を挙げて三年しかたっていなかった。ところがわづか二年八ヵ月ではあったが、氏の留守した間に、友愛会は内地のみならず遠く大連にまで伸び、労働者の自覚は大に高まって来ていた。

 友愛会が始めて関西に手を伸ばしたのは、同会が鈴木文治氏により、東京三田の惟一館のミッションの仕事の片手間に、同志十数名を叫合して創立された翌年―大正二年、大阪新川崎町の三菱製煉工場の職工が同会の機関紙「産業及び労働」の配布を受けたのに始まるといわれる。そして翌大正三年二月、東京の江東支部の河野吉太郎氏が来阪し、木津川の秋田製造所職工として就職して以来、三菱製煉及び電気分銅両工場の職工を勧誘し、三十名の会員を得て始めて支部らしいものが出来、翌々五年には会員が一躍四百名に増し、五月には住友伸銅、汽車会社職工を中心に大阪第一支部を結成、十一月、日本兵機の職工によって関西支部が設立された。筆者が労働運動に最初に関与したのは、この関西支部だった。では、神戸ではどうだったか。

 神戸の労働者の増加

 明治二十三年頃は工産物総価額僅か百万円にすぎぬ神戸市であつたが、日清、日露の両役を経過し、さらに欧州戦乱の影響を受けて急激に発展し、川崎、三菱両造船所及び神戸製鋼所等の大工場の続出によって、いよいよ飛躍的進歩をとげた。

 現に欧州戦乱勃発前――大正三、四年頃には職工数七、八千人に過ぎなかった川崎造船所の如き、大正七、八年には一躍倍加して一万六千人の菜ッ葉を着た労働者が工場の門を潜る盛況を見るようになり、三菱造船所も同様で、欧州戦乱勃前までは五千人しかいなかった労働者が、大正八年には一万人を算して、これまた倍額の増加であとの大工場には優秀な労働者が集った。彼等の時代の目覚めもおのづから他の小工場の労働者よりも早かった。神戸の労働組合の運動は大正三年の暮あたりから徐々に進められていた。

 山県憲一神戸支部長

 友愛会創立五周年史(大正六年三月友愛会発行)によると、大正三年、桂謙告氏等によって神戸分会が組織され、これが後に神戸葺合支部となったのだと記されているが、支部の出来だのは、神戸支部の方が早かったのだと記憶する。

 神戸支部は、川崎造船所の本工場の労働者の組織したもので大正四年二月発会式を挙げ、当時神戸高商の教授であった山県憲一氏がその支部長に挙げられた。木村錠吉、颯波先三、須々木純一氏等有力な人々が幹部組合員であった。

 山県憲一氏は基督教信者で、人道主義的な熱情を以て深く労働運動に傾倒し、進んで支部長の椅子に就いた。氏は当時なお学者間にも余り問題にされていなかった「職工問題」 (まだ労働問題とはいわなかった)に興味を持って、後には「職工組合論」という書物をさえ著わしたほどの進歩的学者であった。もし同氏がなお数年健在でいたら、同じ人道主義的立場を採る賀川豊彦氏と手を握って、相共に十字架的精神を以て社会正義のために健闘した事だろうが、惜しいことに、賀川氏の労働運動への進出を見る前に、すなわち賀川氏の外道中に早世してしまった。

 山県氏の死去後、神戸は適当な指導者を持たなかったが、しかし、時勢は駸々として進んで、労働者の団結は、雪の上を転ばす雪達磨のように、次第にその塊りを大きくして行った。川崎造船所本工場を地盤とする神戸支部の外に、川崎三菱両造船所兵庫工場を中心として兵庫支部が生れ、川崎造船所葺合工場及び神戸製鋼所、ダンロップ護謨会社等の労働者によって葺合文部が組織された。そして大正六年二月にはこれ等の三支部によって友愛会神戸聯合会が組織され、その主務として、東京の本部から常務幹事高山豊三氏が派遣されて来た。

  神戸聯合会主務高山豊三氏

 世間には高山豊三氏を、高山義三氏と混同する人が少くない。たった一宇違いだが、全くの別人である。豊三も義三もともに基督教信者であり、同じ友愛会のリーダーであったが、前者は神戸の主務、後者は京都の支部長であった。(義三氏は現在は京都市長であるが、当時はまだ京大の一学生であった。)

 友愛会は前記のように教会の一室から生れたものだけに、その支持者を、また鈴木氏の事務の手伝いをしてくれた者もみな信者だった。最初、暫くの間ではあったが、当時、統一教会の伝道師であった加藤一夫氏が、鈴木氏の手伝いをしてくれた。(加藤氏は人も知るごとく一頃は大杉栄氏等と共に無政府主義陣営にあった思想家だが、終戦の少し前、永眠した。氏の横浜の旧居は本文の筆者が譲り受けた。)

 高山氏はその頃、神学校を出たばかりだったが、加藤氏の紹介で友愛会入りをして、約半歳、鈴木氏を扶け、創業時代の友愛会を守り立てているうち、牧師として静岡県小山町に赴任する事となり、友愛会を去った。氏の赴任した小山には有名な紡績工場があって、早くから友愛会の支部が設立されていた。氏は牧師の仕事の傍ら小山支部の顧問として、その面倒を見た。氏ばかりではない。氏の夫人も、支部に属している女工さん達のよき姉となっていろいろと面倒を見た。

 或る朝、高山夫人が町の風呂へ出かけたところ、徹夜明けの女工が、まるで雪の中から出て来たかのように、真ツ白な綿ぼこりを頭にかぶっているのに胸を打たれ、さらに、流し場で洗っていると、子供づれの女工さん(通勤女工の中には多くの母親がいた。)が、わが子の背中を流しながら、徹夜仕事の疲れからであろう、われ知らず居眠りをし、とんでもないところを洗って子供に泣き出され、ハッと眼をさます有様を見、言い知れぬ感情に襲われ、それ以来、夫君を扶けて、一生懸命に女工さん達の世話をしたという。

 高山豊三氏が神戸に主務となった日から三月だって、賀川氏はアメリカから颯爽として帰朝した。久しく神戸支部長として指導してくれていた山県憲一氏の死去で一沫の寂しさを覚えていた神戸の友愛会は大いに気を強くし、会員もふえて行った。そこで鈴木会長は大正七年一月、大阪、神戸両聯合会の上に関西出張所を開設し、その主任として本部副主事久留弘三氏を任命し、神戸の高山、大阪の松岡駒古両主務と協力して関西全体に亘って拡張運動を推進させる事となった。

 賀川豊彦氏の印象

 今でもハッキリ覚えているのは、久留氏が大阪へ赴任した時、鈴木会長の紹介状を携えて、大阪郊外に住む筆者を訪ねて来た事である。勿論、初対面であった。

 「時に、賀川豊彦さんを御存じでしょうか。鈴木会長から、賀川さんにいろいろ御指導を仰ぐようにと、言いつかって来ているのですが。」

 「ええ、知ってますとも、去年の五月、アメリカから戻って来て、神戸の貧民窟で貧民の世話をして居る人です。」

 筆者が賀川氏を始めて知ったのは大正六年七月十四日の午後の事だ。かくまで正確に言えるのは、私の記憶が確かだからではなく、その日、氏が試みた講演の大要を筆煮が書いて載せた大阪毎日新聞の切抜か残っているからである。場所は大阪堂島田簑橋々畔の大阪府知事官邸、大阪府救済事業研究会の月並例会の席上であった。

 六年七月といえば、賀川氏がアメリカから帰ってまだ二ヵ月経つか経たぬかの時である。その日の筆者の印象は、いかにもアメリカ戻りらしい瀟洒な青年学者で、非常に謙遜な、愛嬌のある、人触りの百パーセントに善い人―-というのだった。確か、白い麻の夏服を着ていたが、その上衣の極めて短いのが大変にその人をスマートに見せた。

 筆者は小河滋次郎博士に紹介されて名刺を出した。すると氏は

 「おお村島さんですか。僕はあなたが毎日新聞に連載された『ドン底生活』を図書館で面白く拝見しましたよ。大変参考になりました」

 あだかも十年の知己のように、堅く筆者の手を握った。今もそうであるように、人をそらさない氏のアットホームなその態度に、筆者はすっかりチャームされた。思えば、これが筆者を氏に結びつけて、労働運動に、労働者教育に、社会事業に、宗教運動に、同志として、協力者として、信者として、読者として四十五年を倶に在らしめたそもそもの始めだった。

 野倉万治氏その他

 大正六年五月六日、神戸聯合会成立記念大講演会が大黒座で開かれ、次で九月九日にも特別講演会を開催、賀川氏が始めて出演した。

 何しろ、神戸は川崎、三菱両造船所、神戸製鋼所の如き大工場を持っていてそこに働く労働者の大部分は熟練工であるため、組合運動の発達も他の都市より早かった。また会員の変動というものも少く、幹部の如きは殆んど動かなかった。現に高山主務時代の幹部はその翌々年のサボタージュや四年後の大正十年の大争議のリーダーと殆んど変りがないのでも知れよう。そしてその組合の幹部が大体造船所の職長(職工仲間では工場長と俗称していた)や伍長、伍長心得といった人達だったため、組合はまじめに発達して行くことが出来た。

 大正七年一月の友愛会の機関誌「労働及産業」に出ている「神戸聯合会消息」を見ると、神戸支部(川崎造船所本工場)では颯波(職長)須々木(伍長)野倉(伍長)の諸君の名が出ている。

 野倉氏はいうまでもなく大正八年の川崎のサボタージュや大正十年の大争議の総指揮者であった野倉万治氏であり、須々木というのは野倉君の女房役――というよりも姑役であった須々木純一氏である。

 これより先き、神戸の主務として、指導に当っていた高山豊三氏は教会の牧師としてアメリカヘ出かけることとなり、在ること九ヵ月で神戸の労働者にサヨナラを告げることとなった。高山氏としでは、別に労働運動に失望した訳ではないが、やはり牧師として身を立てようと考えたのであろう。まだ組合運動の重要性の一般に認識されていない時だったから、これも致し方がない。十一月五日高山君の送別会が開かれてお餞別として金十円が贈られた。

 高山主務を失った神戸は、リーダーがいなくなった。この時みんなの頭に浮んだのは、これまで二、三回、演説会に出てくれた新川の貧民窟の「先生」賀川豊彦氏だった。

 久留弘三氏の登場

 その頃、神戸聯合会傘下には神戸、兵庫支部のほかに葺合、尻池にも支部が出来ていた。葺合支部では、賀川氏の住む新川がその部内にあるだけに、余計に賀川氏に期待するところがあって、大正七年一月十三日新年幹部懇話会にも特に賀川氏の出席を求めた。

 茶話会は湊川実業補習学校で開かれた。湊川及び兵庫の実業補習学校には、川崎造船所から多くの熟練工が夜間就学していて基礎の技術教育を学んでいた。野倉万治氏や青柿善一郎氏など組合幹部でその通学生だった者が少くなかった。学校長の岸田軒造氏や寺崎九一郎氏は、組合運動の同情者で、弁士の少い折には演説会にも出演してくれさえした。

 茶話会で賀川氏は「英国における戦時労働組織について」約一時間に渉る雄弁を奮った。さらに山県憲一氏を喪い、近くは高山主務を失って寂しく思っていた神戸の労働者たちは、賀川氏の出現をどんなに喜んだ事だろう。

 この茶話会が済んで間もなく、詳しくいえば一月二十六日、高山主務の後任として久留弘三氏が来神した。久留氏はさきに記した如く、新設の関西出張所主任に新任されたもので、神戸主務はその兼務であった。

 賀川氏の出現と久留氏の赴任によって、神戸聯合会は俄然元気を盛り返して来た。そして賀川、久留両氏は善き
コンビを作った。(翌八年には筆者が加わって、トリオができた)。

 久留弘三氏は大正五年の早大政治経済科の出身、大阪天王寺中学にいた頃は横綱大錦卯一郎や宇野浩二と同窓だった。岩橋武夫は下級生であったが、勿論、失明前で、その美少年振りに、久留氏等は善く追っかけたものだという。

 久留氏はその早大にある頃から労働運動に興味を持って、友愛会に出入していた。今は共産党の大立物である野坂参三氏も当時は慶応の学生で、久留氏と一緒に友愛会に出入していたもので、卒業と共に、二人はその儘、友愛会に這入った。

 久留氏は高山氏の如き基督教信者ではなかったけれども、後年、友愛会を去って基教界の変り種である斎藤信吉氏と共に、人格主義の上に立った独特の労働者文化運動を始めたぐらいの人。

 山県氏といい、高山氏といい、賀川氏、久留氏といい、神戸の開拓者がみな基督者であったことは奇遇といわねばならない。
 
 友愛会六周年大会

 大正七年四月には友愛会六周年大会が大阪で開かれることとなった。大会経費予算二百円の内、本部が六十円を負担し残り百何十円は関西で負担しようという。神戸・大阪・京都など関西側の実力のほどが窺われる。

 四月三日、友愛会六周年大会は天王寺公園前の公徳社の二階で開かれた。出席代議員七十七名、大阪・神戸のほか東京・名古屋・京都・舞鶴・広島・呉・門司・八幡からも代表者が出席した。 この大会で美しい会章のついた短冊型のバッヂを代議員章として交付したが、恐らくはわが国におけるこの種の大会でバッヂを出した最初であろう。

 また議事の裁決にギャベルを使用したのもこの大会が最初であろう。ギャベルは鈴木会長が前年アメリカの労働組合大会に出席した際、特にもらいうけてきたものである。

 会場には賀川氏や古市春彦氏などの顔も来賓席に見えた。筆者は会員の五分間演説の後を承けて「産業社会の悲劇」について二十分ばかりしゃべった。来賓演説としては筆者だけであった。

 つづいて同夜、天王寺公会堂で聞かれた公開講演会――「友愛会六周年大会記念社会政策講演会」は天王寺公会堂を埋めつくす盛況だった。

 その筈である。講師は高石真五郎・賀川豊彦・今井嘉幸・関一という顔触れだったからである。

 当時、筆者は大阪毎日新聞の内国通信部に属していた。課長は岡崎鴻吉氏(翌年神戸支局長となり、筆者を神戸へ連れて行った)で同氏は早大で大山郁夫氏や永井柳太郎氏と同級だった人。社会主義や労働問題に非常に興味を持っていて、氏が責任も持った本版と称する紙面の全ページ五段を友愛会大会のために割愛し、筆者に独りで五段の記事全部を書くよう命ぜられた。

 講演は議会の記事のそれのように、話を聞きながらずんずん書いて行って、できる尻から自動車で本社へ運んだ。無論、こんな事をしたのは大毎だけで、他紙は十行の記事も書かなかった。

 当夜、私は演壇の下の机で、友愛会本部から西下した野坂参三氏と向いあって筆記をしていたが、大毎の肩の入れ方とそして筆者が即座に記事を仕上げて行くやり方にひどく感心して「素晴しいなあ」を繰返していたことを思いだす。

 恐らくこれほど大新聞が大々的に組合の大会の記事を取扱ったのはこれが最初ではなかったろうか。これは全く岡崎氏の好意の賜物である。そしてその好意は翌年神戸でいよいよ華やかに開花したことは後に記す。

 なお面白いことには、当夜の弁士の中に大毎の幹部である高石真五郎氏も加わっていたが、筆者は自社の人の演説をのせるのはどうかと思って一切省略した。

 ところが、翌日になって社中の問題になった。それは「今井博士や関博士のものをのせるのはいいとして、賀川某の如き無名の男を名士として扱い乍ら、高石氏を略するのはけしからん」というのだ。筆者は腹の中で笑っていた。今に見ろ、お前たちは賀川の名を拝む時が来るから――と。」という称号が麗々しく記されていた。

 それほど、まだ賀川氏の存在は一部識者以外には知られていなかった。いいや労働組合員でも神戸以外の諸君は、当夜の熱弁を聞いて初めて氏の存在を認識した者が大部分だったのである。

 賀川氏葺合支部長に

 大正七年に這入ると、賀川氏は神戸の友愛会のため一段と力を入れ出して、自分のみならず、友人たちをもつれて来て演説会に出た。

 新年初頭の茶話会に次で、二月三日兵庫の実業補習学校で大講演会を催した際には、賀川氏が「相互扶助論」をやった外、恩師マヤス博士をもつれて来て「労働者と人格」という題で一席やって貰っている。

 叉四月十七日の幹部修養会でも賀川氏は鈴木会長らと共に講演をしている。そして五月には氏は推されて葺合支部長となった。当時、同支部加盟の組合員は神戸製鋼所職工その他約二百名であった。賀川氏の友愛会--従って労働運動との正式のつながりはこの時から始まった。

 記録に漏れているので、はっきりした月日は判明しないが、賀川氏が葺合支部長に就任した前後に、葺合小学校で同支部の「講演会」が催され、友愛会本部書記だった野坂参三氏と筆者とが講師として出演した。

 その時、野坂氏は当時、労資の問で頻りに唱道されていた労資協調諭を正面から攻撃して「労資が協調するなどというのは、ライオンとウサギを同じ檻の中に入れて仲よくしろというのと同じ愚論である」と、持前の低い調子ではあるが、しかし当時としては最も過激と思われるような話をやったことを思い出す。後年の野坂氏の萌芽はこの頃既に見えていたのである。
                     
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