スポンサーサイト

上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。

村島帰之「労働運動昔ばなし」(『労働運動』連載第2回)

1


「長田神社の大きな木々たち」(今日のブログ「番町出合いの家」http://plaza.rakuten.co.jp/4022/)



  村島帰之「労働運動昔ばなし

       『労働研究』(第137号)1959年7月号連載分

       第二回 川崎造船所と松方社長

 第一次大戦の造船ブーム

 大正七年九月、わたしが大阪毎日新聞本社から同神戸支局へ転勤した時は、第一次世界大戦のさい中で、兵庫県では今日でいう造船ブームで有卦に入っていた。

 その頃県下にあった造船工場は十六箇所、職工数は約四万人、その中、約一万一千人の職工を擁する川崎造船所と、約八千三百大の職工を使用する三菱造船所は両横綱で、日に夜をついで造船工事を急いでいた。中でも松方幸次郎氏を社長とする川崎造船所では日米船鉄交換による輸入材料でストックボ―卜の建造中だった。

 九千噸型一隻を竜骨据付後二十四日間で進水させようとして、熟練職工約五百人づつ毎夜交替で夜を徹して工事を急いでいた。船体の鋲を打つけたたましいエヤ・リベットの音に圧倒されながら、大きな竜骨の下を歩いた時の感銘を今も忘れない。

 同じ頃、平塚らいてう氏も造船所を見て廻って「働いている人たちの姿が崇高に見えて感激しました」と昂奮して語っていたことを思い出す。

 しかし、造船業の繁昌は勢い労働の強化となって、職工は残業徹夜を繰返さねばならなかった。「このごろのように忙しくては全くからだが参りはしないかと思います」と異口同音に語っていた。そのかわり給料は半月毎にたんまりとポケットにはいった。たとえ年少の平職工でも日給八十銭は貰っていたから、これに七割の戦時歩増、二時間残業に対する三割の残業歩増、それに二割の竣工歩増を加えると少なくも一日一円七十銭乃至二円――月収入約五、六十円(今日の二万五千円ぐらい)にはなった。

 これが職長伍長の役付ともなると百円――今日の五万円を上廻って、ホワイト・カラーのサラリーマンなどの到底及ぶところではなかった。

 ちょうどその頃、安池川鉄工所をやめて友愛会大阪連合会主務になった西尾末広氏は工場では月収百円を下らなかったのに、組合の有給職員となると、一ぺんに六十円に減収となって随分困ったという話も聞いた。

 当時、大学を出ても百円の俸給をもらうようになるには相当の年期を入れねばならなかったのだから、造船工のふところのあたたかかったことは事実だ。

 職工問題の取材

 わたしは毎日新聞で始めは経済部記者として棉花綿糸紡績を担当していた。が、翌年には地方課に転じ、遊軍となった。遊軍というのは特別の受持ちを持たず、本人の気儘に新分野を開拓して行くもので、わたしは経済記者時代に紡績連合会や紡績会社にも出入して労務管理、特に女工の処遇問題なども記事にしていた経験があるので、地方課の遊軍となってからもその方面の取材をした。

 鐘紡の女工寄宿舎を見に行って、長い廊下の陽の当る側の窓ぎわに鏡をならべて結髪所に充てているのや、帝国製麻で女工が終業後も機械音が耳につき直ぐには眠れないので、神経をしずめるため就寝前五分間静かに針仕事をさせていることなどを記事にしたり、女工の賃銀や女工募集にからむ問題も書いた。

 そうした職工問題――当時はまだ労働問題という言葉は一般には使われなかった――を扱っているうち、鈴木文治を会長とする友愛会という労働組合が阪神地方に手をのばしたことを知り、また堂前孫三郎氏や坂本孝三郎、西尾末広氏等により職工組合期成同志会というのが小規模ではあるが大阪で誕生したことを知ってデカデカと紙上に紹介した。大正五年から六年へかけてのことで、労働組合はまだ一般に知られてはいず、新聞記者でも組合の存在を知る者は殆んどなかった。

 西尾氏と相知ったのもこの頃で、お互に二十五才の同じ年であった。わたしは同志会の顧問格で演説会に出たり機関誌の「工場生活」に「労働問題の大意」という啓蒙的な続き物を書いたりしていた。西尾氏は組合の仲間でも「理くつ屋」で通っていたが、その後同志会にあきたらず友愛会に転じた。その頃いっぱしの友愛会幹部を以て自任していたわたしとの親交が深まって行った。

 西尾氏は友愛会に入ってもすぐ頭角をあらわし、久留弘三氏が神戸へ移った後をうけて大阪連合会主務となった。先輩たちはこれを快しとせず、現に支部長某はわたしに向って「西尾はオイラと同じ職工じゃありませんか」と不平を訴えた。労働組合のリーダーはインテリでなければならないものと、労働組合の有力の連中までが考えていたのである。そういったまだ知識階級尊重時代だったので、わたしのようなものでも組合の演説会などにはしじゅう引っぱり出され、大阪ばかりか神戸や京都へも出かけて行った。

 毎日新聞神戸支局へ

 わたしは労働問題記者として、また労働組合のリーダーとして若い情熱を傾けていた時、神戸支局転任の話が降ってわいた。わたしの上司である岡崎地方課長が神戸支局長に転勤することとなり、わたしを連れて行こうというのだ。

 岡崎課長は前回記した通り、社中でも労働問題に対し最も深い関心をもってわたしの書く労働記事を歓迎してくれたし、わたしが、労働運動に首を突っ込んでいることに対しても、見て見ぬふりをしてくれた。わたしはこの人の下で働くことに生き甲斐を感じ神戸転任を快諾した。

 しかし、本社を去って割の悪い地方支局行を決意した理由はこれだけではなかった。神戸が川崎三菱両造船所を中心とした労働者の街で、労働運動が漸く盛んになろうとしていること、その指導者として友人賀川豊彦氏や久留弘三氏のいることがわたしを神戸へ引きつけたのだ。

 毎日新聞神戸支局は相生橋の崖の下にあった。貧弱な田舎の三等郵便局といったボロ建物で、二階が編集、階下が販売になっていた。脇を通る汽車の吐出す煤姻で室内は物置のようによごれ、汽車の地ひびきで社屋は一日中震動していた。

 支局長岡崎鴻吉氏は早大出身(わたしとは十年の距りがあった)、同クラスには大山郁夫氏や永井柳太郎氏がいた。はじめ、毎日新聞へは永井氏が就職する筈になっていたが、イギリスへ留学することになって急に岡崎氏がこれに代ったということだった。永井氏は一度神戸支局に岡崎氏を訪ねて来られて、わたしも久しぶりに会った。

 わたしは早大在学中、永井先生に社会政策と植民政策を学び、また下谷万年町などの貧民窟や江東方面の社会事業施設の見学につれて行ってもらったりして、後年のわたしを形成するのに大きな影響を与えた恩師だった。

 わたしが労働問題に取っくんでいることを聞いて永井先生は「君の社会政策の答案にジョン・プルートンの言葉を引いて“財産はこれ臓品なり”と書いてあったのをぼくは覚えているよ。しっかりやり給え」といって激励して下さった。

 岡崎氏は気骨のある九州男子だった。氏が神戸支局長に就任した時、まっ先に松方川崎造船所社長からの使者が来て、お祝いの品を置いて行った。岡崎氏は他からの祝品と同様、突返そうとしたが、前任の竹中支局長から神戸で一ばんの実力者として特に紹介を受けていたので、突返すのは非礼と思い、とにかくひらいて見ると元町のある呉服屋のマークの入った反物が出た。支局長は直ぐ人をその店へやって反物の値を聞かせ、それと同じ値段の葉巻煙草を買わせて松方氏へ返礼した。

 労働問題を紙面の特色とする以上は松方氏のような工業大資本家に引け目を感ずるようなことはしたくないと考えてしたことだが、これを受取った松方氏は「何だ、こんなまずい葉巻、吸えるもんか……」といったかそれとも「この新聞屋やりおるわいと思ったか、そこまでは調べなかった。


2


 写真はその折の光景で、馬車の上に立つカンカン帽の黒服が鈴木会長(1)その隣のヘルメットは松岡駒吉大阪連合会主務(2)、その前のカンカン帽は久留弘三氏(3)と筆者(4)。御者台の上のカンカン帽の自服は濱田国太郎海員部長(5)で支局入口のイガ栗頭は岡崎支局長(6)である。なお左方、電柱の下に西尾末広氏(7)のカンカソ帽の横顔も見える。

 尾崎行雄と川崎職工

 岡崎支局長がわたしを本社から引きつれて来たのはもちろん、神戸の土地柄、労働問題で紙面に新風を吹き込もうというのだった。

 それで支局長はいろいろとわたしに注文を出した。一例を挙げると、わたしたちの赴任直後尾崎行雄氏が来神した。月並なスナップ写真では面白くないというので、菜っ葉(青い職工服)を着た一労働者がこの老政治家と握手しているシーンをとろうという注文で、わたしは友愛会の幹部で川崎の伍長だった灘重太郎氏を引フぱり出した。その写真は翌日の毎日新聞の神戸附録のトップに大きくのった。

 話は少し後になるが、友愛会々長鈴木文治氏がアメリカから帰ってすぐその足で来神し、友愛会神戸連合会が特に仕立てた二頭馬車に乗り、楽隊を先頭に三宮駅から市中行進をして、毎日新聞支局に立寄った際、新聞社の名で大きな花輪を送ったりした。労働組合長を歓迎して花輪を贈った新聞社は嘗てなかったし、また今後もおそらくはないだろう。

 また支局長の発意で本紙の社説に対抗し、兵庫県附録の論壇を特設し、労働問題をとりあげ、その特別寄稿家として賀川豊彦氏を依頼した。

 まだ「死線を越えて」も出ない頃で、氏の原稿の市場価値もなかったので一文の原稿料も支払わず、匿名の儘掲載したが、約束の日になると、同氏は木綿の着流しの上に着た羽織をヒモの代りにコヨリで結んで、下駄ばきのまま二階の編集室へあがって来た。そして「松方幸次郎氏は近代型親分である」といったような原稿を書いてくれた。

 わたしたちは「唯一の労働者の味方」といった自負と思いあがりをもって傍若無人に記事を書き、組合運動を煽った。

 そういえばその頃、三菱で友愛会の組合員が馘首されたことがあった。わたしは大いに憤りを発し「模範職工馘首さる」と書いたが翌朝の紙面にはそれが初号の大見出しでのった。本人も「模範職工」の肩書をもらってさぞ苦笑したことだろうが、当の記者もちとほめすぎたかなと苦笑したことを告白する。

 こうして大阪毎日神戸附録は、労働問題に力を注いだので、友愛会に属する組合員はもとより、神戸の労働大衆から非常な好感をもって迎えられた事は事実だった。

 当時、地元の新聞の記者をしていた岸田氏は、その後、当時のことを述懐して「あの頃の大阪毎日新聞は全く労働者の唯一の味方といった感があった」と書いてくれている。

 日本最初の口語体新聞

 それともう一つ、岡崎支局長に関して書いておきたいのは、新聞の文体を思い切って口語体にしたという一事で、それも労働問題に若干の関係があるのだ。

 日本で一番はじめに口語体の新聞を出したのは兵庫県だった――といっても大部分の人は信用しないだろう。しかし、事実はあくまで事実である。

 大正のはじめ頃の新聞はまだ全文が文語体で書かれていた。もちろん今と違って、記事全部には「総ルビ」といって一々ふり仮名がつけられてあったのだから、ルビをたよりに読むことは読めるが、内容はつかみにくい。それで紙面の中でも、小説などは一番早く口語体となったが、一般の記事は依然として「何々にして何々なりき」といった書きっぷりから離れなかった。

 尤も東京の三流の新聞で「袁世凱は死んだ」という見出しをつかって口語体を採用したことがあったが「死んだ」では軽すぎるやはり「死去」がいいという反対論が出て完全実施はできなかった。

 それを思い切って口語体に踏みきったのは毎日新聞の兵庫県附録で、大正七年九月一日のことであった。(毎日新聞の本紙全部が口語体になったのはそれから数年してからである)

 そのいきさつを当の岡崎支局長に回想してもらおう。

 『さて、毎日新聞兵庫県附録に口語体を採用した一件ですが、小生は大阪本社の地方課長で地方版を作っていた時「原稿はすべて文章体に限る、言文一致を用ゆべからず」と通信心得にも書き、地方の特派員や通信員にもそう厳達していました。これは口語体ではどうしても文章が長くなり、紙面に多くの記事を収める事ができないためでした。

 ところが、大兄から「青年労働者は義務教育は受けているが、工場に入っているうちに六カしい漢字を忘れて新聞も十分に読めない者が多く、ことに難しい文章は全く歯が立たない」と聞き、それがピンと来たのです。そして小学卒業後三、四年の少年達の学力を試験したらお話の通りでした。

 それで、これは新聞の文章をやさしくするほかはないと考え、兵庫県附録が支局長の勝手にできるのを幸い、大正七年九月一日の赴任を、一日くりあげ八月三十一日とし、九月一日紙上から全部口語体としたのでした』

 近代的親分松方社長

 大正六、七年から十年にかけて、兵庫県の実業家を代表するピカイチ的な存在は川崎造船所社長松方幸次郎氏であった。

 毎朝、川崎造船所の始業の汽笛のなりひびく頃、二頭馬車――といっても今の自動車のような立派な箱型ではなく、ホロのいった旧式の馬車に、葉巻をくわえながら悠然と乗って、蹄の音も軽く造船所へと急ぐ松方社長のエビスさまのような童顔は川崎関係者だけでなく、神戸市民に親しみ深いものだった。

 その時、菜ツ葉服を着た川崎の職工が汽笛のひびく中を小走りに馳けて行くのを見ると、社長は馬車の上から呼びとめて「遅るツど、ここへ乗りやす」といって馬車にのせてやったりした。(わたしがこの話をプロレタリア作家貴司山治氏にしたら、彼は「社長の馬車」と題して短篇小説にした)

 松方社長は賀川氏のいったように近代的親分といった処があった。最近横浜で神部健之助氏が発見した資料によって、彼が東大子備門在学中、暴行事件を起して退学処分となり、再入学願を提出している事が判ったというから、彼が青年時代から、青白い一般の金持のぼんちとは違っていて、なかなかのサムライであったことが想像される。その時の再入学願書は予備門長杉浦重剛あてで次の如く書かれている。

 「私儀一時ノ不心得ヨリ去ル二十七日ノ暴行二関シ、退学被申付候段、恐縮ノ至リニ奉存候、然而其後謹慎悔悟致シ勉励仕居申シ候間、何卒特別ノ御詮議ヲ以テ再入学御許可被成下度此段奉懇願候 以上
  明治十六年十一月二十日
                 府下芝区三田一丁目二十八番地
                   鹿児島県士族 松方幸次郎(印)
                         (慶応元年十二月生)
 この願いは容れられて、その願書の末尾に
  願之趣特別之詮議ヲ以テ聞届候事
    明治十七年五月二十日
                   東京大学予備門長 杉浦重剛(印)

 と朱筆がある。多分、元勲松方正義公の七光りが利いたのであろう。

 しかし、再入学の許されたのは、願書が出てから半年を経過していた。松方氏はその閉門解除が待ち切れず、三月にはエール大学に学ぶため、すでに渡米していたのだから折角の再入学許可も後の祭りになった。だだっ児らしい松方氏の面目がうかがわれる。

 松方氏は渡米後、エール大学に学び、さらに欧州に移りパリ大学、オックスフォード大学を渡り歩いて帰国後は松方内閣の秘書官となり、明治四十五年には神戸から代議士に当選した。しかし、中途で志を変え、実業界に転身、神戸川崎造船所の社長となった。

 氏は昭和二十五年六月二十四日、八十四才の生涯を閉じるまで実業界で縦横に活躍したが、神戸時代は五十台のあぶらののりきった時期で、彼のサムライぶりと、近代親分ぶりが最も華やかに展開された。

 わたしの独断を許されるなら、大正十年の神戸の大争議が罷業四十五日にわたり、多くの収監者・解雇者ばかりか死傷者さえ出し、川崎・三菱で立っていた神戸全市を震憾させたのは、松方社長が、あいにく外道中で、その留守をあずかる重役がボンクラだったためだといいたい。もし松方社長がいたら、ああした大事に至らぬ前、ボヤのうちに消火していたと思う。しかしだからといって彼が労働運動に理解と同情をもっていたというのではない。ただ、資本家としての彼がその腹の太さにおいて他の群小実業家との間に天地の差があったというのである。

 松方社長の挿話いろいろ

 十年の争議中、ロンドンの松方氏から、留守居重役へ、訓令の電報が入った。電文は「頭脳を冷静に」というのだった。ところがうろたえ者の重役が、「心(ハート)を冷酷(コールド)に」と誤読して、その通り実践したというのだ。もちろんこれは茶目ッ子の新聞記者が流したデマに違いないが、この場合、ヘッドよりも、ハートよりも、腹が必要だったのである。

 松方氏は太ッ腹な男だった。と同時に温情の持主でもあった。

 ある正月の仕事始めの日、松方社長が工場を巡視して、工員たちとおめでとうを言い交していたが、ある機械の前に来かかると、彼は急に不機嫌な顔をして立ち止まった。機械の上に酒徳利がのせられていたからだった。

 随行の労務課長は「一体誰がこんなマネをしたのか」と問いただした。一人の年老いた職工が「わたしです」と答えた。課長は正月とはいえ「工場内で酒を飲むとは何事だ」と強く叱ったが、老職工は「わたしは飲みません」と平気な顔である。課長は社長の前もあるので真っ赤になって「では一体誰に飲ましたんだ」と詰問した。すると老職工は答えた「わしは機械がかわいいのです。それで機械にも正月の祝いをしてやりたいと思って、うちから一合もって来てやったんです」

 その答えは誰よりも松方社長を喜ばせた。そしてあとから「機械への酒肴料」として金一封が社長から老職工へ贈られた。

 或いはこうしたことは「浪花節調」というのだろうが、松方社長はこんなことが好きだったのである。

 大正八年のサボの際、職工側の要求が、上に厚く下に薄いといって、これを修正して要求以上の回答を出したり、要求事項になかった八時間労働制を、たとえ名目だけだったにしろ、全国にさきがけて実施したりして争議団員をびっくりさせたのも、松方氏の親分らしい温情でもあり、また彼の負けじ魂のあらわれでもある。

 松方社長はまた一方、細心な神経の持主でもあった。工場内でのムダをなくするように注意して、工場巡視の際、金具や釘が落ちているとすぐ拾い上げた。

 或る日、こんなことがあった。例のごとく工場を歩いていると一本の大きい釘が落ちていた。そこで「またこんなところに……」といって拾いあげた瞬間、松方社長はあわてて手をふってその釘を投げすてた。いたずら小憎が社長の巡視と知って、その通路にあらかじめ釘を火で焼いて捨てておいたのだ。

 しかし松方社長が本とうに手を焼いたのはこんなことではなく、大正八年夏、傘下一万六千の工員が日本最初のサボタージュをやった時だった。その際彼は「サボとは卑怯な、やるならなぜ男らしくストをやらん」と叱った。薩摩隼人らしい男らしさではあった。

 工員たちは彼の忠告に従って翌々十年にはつい大罷業を敢行した。ロンドンに居た松方は「それでこそ男らしいぞ」とほめたかどうか。

 松方氏に助けられた話

 男らしいといえば、松方氏の豪放な一面を物語る一挿話がある。それはわたしがサボタージュ当時、警察に拘引されるところを、松方社長に助けられたという、わたしにとってはあまり自慢にならないが、しかし松方氏の太ツ腹を物語るにはうってつけの話なので書き添える。

 大正八年のサボ当時の兵庫県警察部長は山岡国利といって薩摩ッぽうだった。彼は薩摩出身の先輩松方氏に忠勤をぬきんずるはこの時とばかり、さっそく松方氏へ電話をした。

 「職工たちのサボでさぞお困りでごわしょう。ついては主謀の労働組合幹部と、それを外部から煽動しちょる新聞記者をひっくくって差し上げますから御心配のないように……」

 山岡部長は松方氏が喜んで「ぜひお頼みします」と答えるに違いないと予想していたが、返事は意外だった。

 「おいどんがとこの職工の事は、おいどんが始末する。かまわじとおくいやい!」

 この松方社長の一声で、二年後のストの場合とは違って一人の犠牲者も出さずに、サボは予期以上の成果を収めて解決した。サボがすんだ後、山岡部長は当時のことを正直にわたしに話してこうつけ加えた。

 「実はネ、君を煽動者としてひっくくる手筈にしていたのだが、松方さんのおかげで君は助けられたんだ。あまり松方さんを悪く書くとバチが当るよ」

スポンサーサイト

コメントの投稿

非公開コメント

プロフィール

keiyousan

Author:keiyousan
このブログのほかに同時進行のブログもうまれ全体を検索できる「鳥飼慶陽著作ブログ公開リスト」http://d.hatena.ne.jp/keiyousan+toritori/ も作ってみました。ひとり遊びデス。

最新記事
最新コメント
最新トラックバック
月別アーカイブ
カテゴリ
検索フォーム
RSSリンクの表示
リンク
ブロとも申請フォーム

この人とブロともになる

QRコード
QR
上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。