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村島帰之「労働運動昔ばなし」(『労働運動』連載第3回)

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「ぶらり散歩<長田神社>」(今日のブログ「番町出合いの家」http://plaza.rakuten.co.jp/40223/)



  村島帰之「労働運動昔ばなし

       『労働研究』(第138号)1959年8月号連載分

       第三回 清野長太郎知事時代


 第一次大戦の終わる頃

 友愛会が神戸へ進出した頃の労資の代表者の横顔を紹介したついでに、官庁側の代表者にも 触れておきたい。
 官庁側代表者といえば、もちろん、兵庫県知事である。大正十年の神戸大争議の際、軍隊の出動を要請した有吉知事はいろいろの意味で最も有名だが、友愛会の神戸開拓時代は有吉知事よりも一代前の清野長太郎氏が知事で、労働運動に対し、よき理解者であった。

 清野知事は小柄で、色の浅黒い、「官員さん」らしい威厳を示す鼻下のヒゲもない、大黒天のような庶民的な容貌の持主だった。(この点では現阪本知事は歴代知事中、一ばん美男だろう)

 しかし、清野知事はあたたかみがあって、いわゆる官僚風なところの少い知事さんだった。その上、大事なことは、その頃漸く台頭し来つつあった労働問題や社会問題に対し深い関心をもっていたことで、わたしたちのような馳出し記者の意見もよく聞いてくれた。

 清野知事は床次竹二郎系の人といわれ、兵庫県に赴任する前は、福岡県知事をしていて、筑豊炭坑や八幡製鉄所の事もよく知っていたので、兵庫県に来てからも、第一に労働問題に着目した。

 第一次世界大戦が既に峠を越して、やがて終戦と共に必然的に訪ずれるであろう労働不安に備え、為政者として予め対策を立てておく必要があったからである。

 そこで清野知事は兵庫県下の大工場主や労働団体の代表者を招いて双方の意見を聞いたり、また後に記すように、調査要項を示して労資双方の言い分を徴したりした。

 もちろん、今から四十年もの前のことだから、労働者側も今日のような階級闘争といった対立的な意識は持っては居らず、使用者側でも「工場の能率は工場主の温情に正比例する」といった温情主義的な考えの上に安住していたのだから、知事としても、労資の協調によって、労働問題の激化は十分防げると考えていたであろうことは容易に想像できる。

 温情主義一辺倒

 清野知事の諮問に対する資本家側の回答の詳しい内容は判明しないが、わたしが県高等課から聞いて書いた記事によると「工場主は温情をもってすべての労働問題は解決できると考え、従って友愛会のような労働組合は不要、治安警察法の撤廃や八時間労働制は時期尚早」といった回答であったらしい。今から思うとウソのような話だが、本とうの話である。

 またその頃、毎日新聞の「月曜論壇」でわたしが松方幸次郎氏の労働問題観を評した記事の切抜が残っているが、それによると、松方氏は日米船鉄交換会成立の理由を説明して、

 「実は十万の従業員を如何にするかの問題のために奮起したもので、自分たちの利益が少くなるというようなケチな考えからしだのではない」

 と大見栄をきっているのは、近代的親分松方氏らしいが、そのあとで「……わが国の資本家と労働者とは、さして反目することもなく来ているから、今後も資本家が労働者を愛撫してさえやれば、労働組合はなくても十分労働問題の解決はできる。」といっているのに対し、「今日あるを知って進展して行く明日を考えない言だ」として、年若のわたしは論壇でかみついている。

 なおその記事の中で、三菱造船所が日用品を頒ち、演芸会などを開いて、できるだけの温情を示しているにもかかわらず、多くの労働者は三菱を去って、温情的施設の比較的少い、が収入のいい川崎造船所の万へ移動するという事実を挙げている。これは後記の清野知事の依嘱による労働組合の調査報告と符合するところがある。

 知事、組合代表を招く

 これよりさき、大正六年三月、清野知事は兵庫県下の救済事業団体(まだ社会事業とも、社会福祉事業とも呼ばれていなかった)の連絡機関として「兵庫県救済事業協会」なるものを結成し、その世話役として内務省にいた小田直蔵氏を招聘し県嘱託とした。

 その小田氏や県会議員の福井捨一氏(当時の賀川氏の後援者の一人)から、神戸の葺合新川の貧民窟に賀川豊彦という一風変った男が居て、最近アメリカの留学を終えて帰朝し、労働組合―友愛会の指導をしているという話を聞かされた。

 知事は、さっそく両氏を通じ賀川氏に会見を申し入れた。賀川氏は友愛会の会見は、今なら何でもないことだが、労働団体の勢力も微弱で、官庁側から心全く無視されていた時代に、知事の方から丁重に会見を申入れられたというのだから、友愛会の労働者たちは、まるで労働組合が政府から公認されたように解して喜んだのもむりとはいえまい。

 知事と賀川氏らの会見の席上では、いろいろ話もあったが、失業問題がとりあげられた。その頃、失業者のための公営紹介所としては、東京市内に公益職業紹介所(今の職安)が四ヵ所できていただけで、大阪でさえ、八浜徳三郎氏の経営する私設の大阪職業紹介所があるだけだったし、神戸でも無きにひとしかった。

 八浜氏は神戸でキリスト教の牧師をしていた人。明治四十四年十二月二十四日、神戸神学校学生賀川豊彦が学校の寄宿舎から葺合新川の貧民窟に移り住んで、貧しい人々のために奉仕と伝道を始めた際、八浜氏は、

 「賀川君、貧民窟の人たちを救済しようと思うのなら、おとなはみな追ッ払って、こどもだけにしなけりやだめだよ」

 と含蓄のある忠言を与えたという。わたしも大正五年に「ドン底生活」を毎日新聞に連載した時、大阪の今宮の貧民窟近くにいた同氏からいろいろと教えられたものだ。

 県営口入屋の構想

 清野知事は市営や私営ではなく、まだ全国に先例のなかった県営の職業紹介所を設置しようという考えを持っていた。しかしその仕事を担当する人間が見つからぬので当惑しているところだった。

 口人屋上りではもちろんいけないし、融通の利かぬ役人が口入屋のおやじになることは六かしく、第一そんな物好きは兵庫県庁内には見当らなかった。

 清野知事はこの事を話して「適任者は居ないでしょうか」と聞いた。すると、打てば響くように賀川氏は「適任者がありますよ」と答えた。

 賀川氏の話によると、その男は永らく中学校の教師をしていたが、。キリスト教の伝道と貧民救済の召命を感じて教壇を去り、東京日暮里の貧民窟に住んで、賀川氏と同じように、貧しい人たちの友となり、独力でささやかながら隣保事業をやっているというのだ。

 清野知事は賀川氏の弟分のようなその人が果して県営の口入屋のおやじをひきうけてくれるだろうか――と危ぶんだが、賀川氏は「わたしから話せばきっと来てくれると思います」と自信をもって答えた。

 清野知事の腹案の「県営」口入れ屋はその後、多分県会方面からであろう反対があって、兵庫県救済協会経営ということになって、賀川氏の住む葺合新川の貧民窟に近い日暮通りに「生田川口入所」という看板が新らしく掲げられた。そしてその口入所の主任として賀川氏推せんのその人が座った。遊佐敏彦氏である。

 ヒゲの送別会

 此処で一つおもしろい挿話を書き添えておきたい。

 公営口入屋のおやじとなった遊佐氏は東北出身の誠実そのもののようなクリスチャンだったが、彼は清野知事と同じように小柄で色も浅黒い男だった。ただ違うのは知事にはヒゲがなかったのに反し、この口入屋のおやじの鼻の下には美しい?ヒゲがめった。

 知事は遊佐氏のほかの点ではことごとく満足したが、そのヒゲだけは気に入らなかった。自分にヒゲがないので卑下したのだといっては駄じゃれになるが、知事には知事としての言い分があったのだ。知事は 遊佐氏のヒゲをまじまじと眺めながらいった。

 「口入所の主任になって頂くからは、前垂掛けの気持でやってもらわぬと困ります。それですから、求職者に威圧を感じさせるようなヒゲは…」

 遊佐氏は清野知事の言葉の終らぬうちに、

 「同感です。さっそくヒゲはそることにいたします」

 そういうと、清野知事はさも満足そうに大口をあけて笑った。遊佐氏も一しょに笑った。そして県庁を出ると遊佐氏はその足で髪床へ行って、何の未練もなくヒゲをそりおとして、賀川氏のもとへ報告に来た。

 賀川氏は急にヒゲかなくなって人相が変った遊佐氏を見て「どうしたんだ?」と聞いた。そして、いちぶしじゅうを聞くと大いに痛快がって、

 「では今夜は遊佐君のヒゲの送別会をやることにしよう」

 そういって、その夜は有志と一しよに、ささやかな、しかし前古未曽有の「ヒゲの送別会」がたのしく催された。

 遊佐氏はその後、中央にひきぬかれ、中央職業紹介事務局長となり、三井報恩会の社会事業課長ともなったが、神戸でそりおとしたヒゲはついに二度と生やしてはいない。

 ヒゲの話はこれぐらいにして本論に帰り、清野知事と労働問題の関係について話をつづけよう。

 知事から友愛会へ調査依頼

 大正七年五月、清野知事が賀川・久留両友愛会幹部と会見して意見の交換をしたあとで、友愛会を通じ、次の三箇条について調査を依頼して来た。

 一、会社の幸福増進設備に対する実感と希望
 二、紛擾の原因および防止策
 三、会社に対する一般的希望条項

 友愛会ではこれを同会に加盟している川崎・三菱両造船所と神戸製鋼所の職工有志に回付しそれぞれ記入の上回答した。その答申の概要を記すと次の如くであるが、団体交渉の要求が、おぼろげではあるが出ているのは注目に値いしよう。

 第一問 会社の幸福増進設備に対する実感と希望

 会社が職工の利益と信じて苦心経営する幸福増進の設備も、その実行方法と運用がよろしきを得ないため多数職工はこれを喜ぶよりも、むしろ反感を抱いている。

 1 工場医の職工に対する態度の如き、極めて不遜で、社員と職工との待遇に大差がある。このために職工は不快を感じて、私費を出しても町医者にかかるものが少くない。 
 2 三菱造船所の行っている購買組合についても同様のことがいえる。
 3 会社は職工に対しいろいろの扶助規定その他社則を定めているが、職工に公表しないからその内容が不明で、その上、その認定や適用が会社の自由裁量でなされるので職工は常に不安の念を抱いている。

 第二問 紛擾の原因と防止策

 大体において賃銀の低廉と中間者に対する反感、即ち感情問題が争議の主要原因となっている。殊に後者において甚しい。

 1 技師或は役付職工(工場長・伍長・伍長心得)に対して「袖の下」を行う場合、歩増や昇給に際して利益があるのみか、時には職工に対し袖の下の請求をほのめかす向さえあり、これらによる昇給の不公平が鬱積して争議となる。小紛議の十中八九まではこれだといっても過言ではない。

 これが防止案としては
  A、技術の試験を行って昇給を定めること
  B、主任技師以外の役付職工の公平なる投票によりその標準を決定すること

 2 紛議の原因は賃銀が会社の利益に対し、あまりに低いことだ。殊にその昇給率が低いため(神戸製鋼所は大てい二銭である)今日のような物価騰貴の率と均衡が保てない。世人は「労働者は戦乱の影響をうけて莫大な収入を得ている」というが、実際はそうでない。ただ戦争のため仕事が多くなって、定時間のところが残業となり、残業が夜業とな  り、労働の過重により収入が前より殖えたというに過ぎない。

 3 争議の根本は一言にしていえば、平素、職工と会社側(技師・技手の如き中間者をいうのではない)との意思の疎通を欠くことに起因する。故に何らかの機関を設けで両者か月一回ぐらい、会見するようしてほしい。

 第二問 会社に対する希望

 職工が会社に対し持つ希望は限りがないが、その中、実行可能と思われるのは

 1 川崎造船所は臨時職工を多く募集する。これは臨時工は解雇の場合、手当を支給しないですむからであろうが考慮してほしい。
 2 入職の際「試験中」という名義で、賃銀も半給で約一週間使役される。この試験期間を短縮されたい。
 3 会社は業務災厄以外の疾病に対しても工場医が診療するようにしてほしい。
 4 川崎造船所では造機部と造船部とがその規則を異にしているのは好ましくない。
 5 解雇すれば手当が要る。そこで会社は仕事が減った場合も解雇をせず、割増金を減じたり、定時間労働のみにしたりして実収を減らし、結局、自分で他へ転ずるように仕向けるのは残酷にすぎる。
 6 職工が技師その他に対し、少しでも抗弁したりすると、頭から「生意気だ」と称して排斥する風がある。こうした職工を卑しむ風は矯正されたい。

 大体以上の如くで、文章は新聞にのせる関係でやわらかく直しだが内容はそのままである。会社を非難するよりも、職場の工場長(といっても俗称で、正式には職長である)始め役付への不満がそのまま出ているのや、会社の温情施設に対する批判がなされているあたり、やはり四十年前の事だという思いが深い。

 知事の挟別の言葉

 労働者側の意見書は、別に工場主側から徴した意見書と一しょに、清野知事が携えて上京し、中央政府に提出した。これが直接の効果は判らないが、あるいは渋沢栄一氏らの労資協調会の誕生とも何らかの関係があったのかも知れない。

 その頃の友愛会神戸連合会はまだこれという争議もしていなかったためでもあるが、清野知事は極めて友好的で、あとで記すように、友愛会の示威行列が兵庫県庁を訪れるかも知れないとわたしが告げた。ところ

 「それなら、わたしはバルコニーに出て敬意を払うことにしましょう」

 と答えたので、そのまま新聞に書いた。

 その記事を見た一部の県議が、知事は赤だ、怪しからんと抗議をし、知事は大いに困ったということを聞いた。そしてそのすぐあと大正八年四月、清野知事は神奈川県知事に栄転して行った。

 清野氏が三宮駅から乗車して、新任地へ向う日、友愛会の幹部有志は会旗を携えて駅頭に見送った。清野氏はそれほど労働者にとっては「ええ知事サン」だったのである。

 その折、清野氏は見送人の中にまじっていたわたしを見つけて車窓から手招きするので、近ずいて行くと、氏はいった。

 「どうか、労働者諸君がエキセントリックな行き方をしないように、くれぐれもおたのみします」

 もし「過激になるな」といわれたら、まだ二十代だったわたしはきっと反撥を感じたに違いないのだが、「エキセントリックにならぬように」と英語で言われたことが、妙に真実がこもっているように耳にひびいたことを今思い返してもふしぎに思うのである。

 わたしは時々、大正十年の大争議の時まで清野知事が留任していたら――と思うこともあるが、しかし、その時はその時の風が中央から吹いてきて、同じ結果になったようにも思える。

 入会式と左手の握手

 兵庫県を去るに臨んで清野知事が県下の労働組合員にのこした「エキセントリックにならぬように」という忠言は、少くとも、当時の組合員には「心配無用」の言葉であった。

 当時の労働組合――といっても友愛会一つしかなかったが――友愛会の運動方針は穏健そのものであった。何しろ友愛会はその綱領にも、

 一、われらほ互に親睦し一致協力して相愛扶助の目的を貫徹せんことを期す。
 二、われらは公共の理想に従い識見の開発、徳性の涵養、技術の進歩を図らんことを期す。
 三、われらは共同の力により着実なる方法をもってわれらの地位の改善を図らんことを期す。

 と掲げているほどで、今日のような闘争的なところは全くなく、着実穏健な方法で労働者の地位の改善を図ろうとし、その上「相愛扶助」や、「徳性の涵養」を謳ったりしてむしろ、宗教的でさえあったからだ。

 おもしろいことにはその頃、友愛会には入会式というものがあった。入会式はその都度行わず、会長の西下した時など、とりまとめて行うもので、新入会組合員は一人一人進み出て鈴木友愛会の丸々と太った手をしっかりと握り、今後、組合員として努力する(戦うなんていわない)ことを誓ったものだ。事によるとこれは鈴木会長がキリスト教の洗礼式からヒントを得たのではないかと思う。

 ところが、この人会式にしばしば異様なしかも痛ましい光景が見出された。それは、通例右手をさし出して握手する慣わしだのに、もじもじとして左手を出す組合員があったことだ。右手を出すことを知らなかったのではない。実は右手の指の何本かが失われてなかったため気遅れしてつい左の手を出したのである。いうまでもない。工場で作業中、あるいは歯車にはさまれ、あるいいは截断機で大切な指を切られたのである。

 当時の友愛会神戸連合会長颯波(さっぱ)光三氏も右手の人差指が中途から失われていて、左手で握手をした組だった。工場法の実施の前後のこととて、如何に工場の危険防止設備が不十分であったか、そして工場生活というものが、如何に危険多いものであったかが窺われよう。

 その頃、鉄道院の調査では鉄道関係の工場内の一年間の負傷率は千人について千五百五十一人だったから、一人は必ず一年に一度以上のケガをしたことになる。従って神戸の友愛会関係でも業務上死亡する者が少くなく、その葬式には、喪章をつけた友愛会の会旗を先頭に組合員が会葬した。これも組合の仕事の一つだったが、組合に好感を持たぬ人たちは「お葬式組合」といって冷笑した。

 講習会の聴衆は一人半

 しかし、当時の組合の一ばん主な仕事はもちろんお葬式ではなく、啓蒙運動で、機関紙を発行し、また演説会や講演会がたえず開かれた。組合の役員会の如きもまた一種の幹部教育会であった。

 明治二十二年、日本最古の組合といえばいい得る同盟進工組の創立当時、組合員の協議会のあとで一同打ちそろって吉原へ女郎買いに出かけたため、妻女の怒りを買い、その次から協議会の通知が行っても妻女はまた女郎買いに行くものと速断して、その通知をにぎりつぶしてしまったため、折角の同盟進工組がだめになったという伝説がのこっているが、大正期に復活した組合運動――友愛会の運動は、キリスト教信仰の人たちをリーダーとしで誕生し、育成されて来ただけに、そんな不真面目さは全くなく、会合の前後には智識分子といわれたわたしたちをつかまえて、疑問を質したり、議論をふっかけて来たりした。

 前々号の本誌で池田信氏が書かれた「賀川豊彦の労働組合論」にあったように、一時、賀川氏はギルド社会主義を雑誌「解放」「改造」などで提唱したが、その時などは、これに対する疑問が多くの人たちから盛んにもち出された。

 そのためわたしは、わたしが支部長をしていた尻池支部(川崎の兵庫工場や神戸市電湊川発電所の人たちにより大正五年に創立)の人たちの要請で、一組合員の家の二階で講習会を開き、ギルド社会主義の解説を連夜にわたってさせられたことがある。

 しかし、残業につぐ残業で、夜の帰りのおそい人たちは出たくても出られず、ある夜のごとき、出席者は、後に県議会員になったカイゼル髭の行政長蔵君ただ一人。いいや、同君は女児を抱いて出席したから一人半といえるのかも知れない。その夜、父親に抱かれてギルド社会主義の講義を聞いた?赤ちゃんは今は立派な女医さんとなっていると聞いている。

 演説会の最終弁士広沢一衛門氏

 こうして労働組合の会合は講習会はもちろん、一般演説会でも、幹部たちは人よせになみなみならぬ苦心をした。

 古い切抜帳を見ると、わたしが大阪から神戸へ移る直前の大正七年四月二十七日夜、大阪春日出小学校で開かれた友愛会西支部創立一周年祝賀講演会には、有名な岡村司博士を始め賀川氏やわたしが出演したが、これら講師の講演の後、寄席なら「真打」の大家として広沢一衛門氏が登壇している。

 広沢一衛門? 労働運動関係者にはなじみのない名だな、と思われるだろうが、その筈、広沢氏は大家の大家でも浪花節の大家だったのである。こういう「大家」が出ないと、わたしたちのような前垂の講演だけでは人の集りがよくなかったのである。

 その頃、友愛会神戸支部の社会政策講演会でも、筑前琵琶・尺八が社会政策講演のおそえものとして出ているが、あるいは、一部の人たちには講演の方がお添え物だったのかも知れない。

 こうした「余興入り」演説会も組合員の自覚に伴い漸次影を消して、真剣な演説会に移って行った。それと同時に清野知事の心配も漸次現実化して来るわけだが、大正七年頃はまだその過渡期であった。

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