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村島帰之「労働運動昔ばなし」(『労働研究』連載:第4回)

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「神戸・長田神社前」(今日のブログ「番町出合いの家」http://plaza.rakuten.co.jp/40223/)



 村島帰之「労働運動昔ばなし

      『労働研究』(第141号)1959年11月号連載分

      第四回 友愛会長と友愛婆さん


 大師は弘法、会長は鈴木

 今なら労働運動の英雄として参議院議員にでもなっていたであろうと思われる神戸大争議の指導者野倉万治氏が、騒じょう事件の首魁として二年半の刑期をすませ帰ってきた時、広い神戸で彼を雇入れようという工場主はI人もなく、やむを得ずブラジル移民団に加わって神戸の地を去った。

 そして家族の病気のためサンパウロの移民収容所に滞在中、ある日、参観に出たおえら方の中に、なつかしい巨漢の横顔を見出して思わず「会長!」と呼びかけた。呼ばれた巨漢は野倉氏の方をふり返った。やっぱり、友愛会長鈴木文治氏であった。二人は奇遇を喜 び、泣き、手を握って、暫らく語りあったという。

 会長は浜の真砂ほど多い。しかし野倉氏をはじめ大正初期の友愛会の人々にとって、「会長」は鈴木文治のほかになかった。それは大師といえば弘法大師にきまっているようなものだった。わたしなども直接その傘下の者ではなかったが「鈴木さん」などと呼んだことはなく、いつも「会長!」と呼んでいた。今でも「会長」と聞くと、ふと鈴木氏を思い起すことがある。

 前にも記したように、神戸の熟練工は移動が少く、従って同じ友愛会でも東京などとは違って、幹部の顔触れが十年一日の如しといえるほどの古顔ばかりだった。それだけに鈴木会長とはなじみが深く、氏も神戸へ来ると、東京の本部よりも却ってうちくつろぐことができたようで、汽車中の睡眠不足をとりもどすため、事務所の二階で高いびきで仮睡して、幹部たちが工場の仕事を終えて事務所に集まって来るのを待った。

 鈴木氏のデブデブと肥えたからだと色白の上に赤らみを帯びた坊っちやん顔は、同じニコニコ顔でも使用者側の松方幸次郎氏のサムライ大将といった、人を威在するようなエビス顔とはおおよそ対蹠的で、むしろ、鈴木氏の方が親ゆずりの会社重役で、松方氏がファイトに満ちた労働組合の会長といった印象をうけた。それほど、鈴木氏は温かみのあるアットホームな人で組合員から「会長会長」と親しまれたこともふしぎではなかった。

 労働者への思いやり

 鈴木氏は九郎判官義経を東国へ案内した金売吉次の出生地宮城県金成村の産、七才の春にニコライ派グリーキ・カソリックのハリスト教会で洗礼をうけたという生えぬきのキリスト教信者、もちろん一家をあげての信者だった。

 この点は賀川豊彦氏といささか違っている。賀川氏は扶桑教を信仰する父の庶子として生れ、少年時代にキリスト教に導かれ、家人の目を忍んで教会に通い洗礼をうけた。教派もプロテスタントで、鈴木氏とは新旧の差があった。

 しかし、鈴木氏も賀川氏も地方の旧家に生れて、いわゆる毛並みはよかったし、中途から家運が傾いて、中学以後は苦学した事もふしぎに似ている。

 鈴木氏は旧制の山口高校に入学したが、学資も不足がちで、制服は辛うじて買ったが外套までは手が届かず、寒い日にはふるえていると、先輩の筧正太郎氏が卒業に当って自分のお古を譲ってくれた。靴は鈴木氏の大足のためお古拝領ができず、仕方がないので兵隊の古靴を二十五銭で買った。

 また東大へ進学する時も同様で、制服正帽が買えずにいると、中学時代からの先輩であり、親友だった吉野作造氏が角帽を、また郷党の先輩内ケ崎作三郎氏が制服を、それぞれお古を下げてくれた。

 もちろん、アルバイトは玄関番・家庭教師・筆耕・願訳・日曜学校の留守居・夜学教師等から、雑誌「新人」の編集までいろいろして学資をかせいだ。

 こうした苦学をした鈴木氏だったから、労働者に対して思いやりも深かった。それに幼時からつちかわれたキリスト教の人類愛の精神が加わって、弱い者の昧方になろうという信念ができあがっていた。

 これは、鈴木氏が開拓者として苦闘十年、基盤のできあがった頃、大学を出て労働組合に飛びこんで来た若きリーダーたちの持っていたイデオロギーといったものからは程遠く、もちろん、理念としては底のないものだった。

 大杉栄氏の悪罵

 鈴木氏の創立した友愛会が大正初期のほとんど唯一の労働組合としてその綱領の示す通り「穏健着実」な戦法で労働者の地位の改善を図り着々組合の勢力を拡大して行くのを見て、無政府主義者大杉栄氏は、雑誌「近代思想」?で鈴木氏を酷評していたのをわたしは、ハッキリ覚えている。

 「鈴木君の友愛会の成功は、つまるところ、鈴木君がバカだからである」

 ずいぶんと人を食った大杉氏らしい悪罵であるが、これは鈴木氏にはこれというイデオロギーがないということを皮肉ったのに違いない。

 しかし、友愛会の創立は幸徳秋水らのいわれる大逆事件のすぐあとのことであって見れば、イデオロギーのハッキリした組合運動だったらその成立すらあやしかったであろう。たとえ大杉氏から「バカ」と罵られようと、鈴木氏の友愛会は処女の如きスタートを切ったのでよかったのだと思う。

 大杉氏が鈴木氏を悪罵したのは、もちろん、その無思想性にあったのだろうが、それにも増して大杉氏が、がまんのできなかったのは、鈴木氏が資本家や官憲と摩擦なしに仲よくやって行ったその態度にあったのではないかと思う。

 大正四年にアメリカで日本移氏の排斥問題が起り、これが緩和のためには日本の労働者の代表者が渡米し、米国の労働組合代表と話しあうのが最も良策ということになって、鈴木友愛会長は重責を負うて渡米した。

 その時のスポンサーが実業界の大立物渋沢栄一男で、これを契機に渋沢男との関係ができ、その後も度々渡米した。こうしたことが大杉氏のお気に召さなかったに違いない。

 鈴木氏は大正四年の最初の渡米の時、全米労働者大会に出席して米国労働総同盟(AFL)のゴンパース会長と壇上で握手し協力を誓いあったが、その大会のあとで、ゴンパーズは鈴木氏にこう聞いた。

「君は今までに何度監獄にブチこまれたかね」

 鈴木氏はあのポチャポチャとした顔を赤らめて答えた。

 「いいえ、まだ一度も……」

 この話は全米労働者大会の土産に「ストライキ」の画とI諸にわたしに聞かせてくれた内所話だから間違はない。

 あの頃の各国の労働運動の闘士はその後数年の日本の場合と同様、監獄にぶちこまれるのが日常茶飯事で、むしろ勲章をもらったようなものだったが、鈴木氏は不幸にして(?)その勲章をもらっていなかったのである。いいや、前後二十年にわたる友愛会長としての戦いについぞ勲章は頂かずに終ったのである。

 熱心家揃いの神戸友愛会

 鈴木氏はキリスト教的人道主義の立場をとって暴力を否定し、また「労資の対立は認めるがそうだからといって、資本家を悪魔のようにいう考え方にはわたしは同調しかねる」といっていたほどだから、監獄に縁の遠かったのも当然であろう。いいや、鈴木氏ばかりでなく、初期の友愛会のリーダーはほとんどみなクリスチャンだったから、おのずから友愛会全体が穏健着実な行き方をしたのだともいえよう。

 鈴木会長と最も親しみの深かった神戸の友愛会員が、それだけ多く鈴木氏の感化をうけて、健実な歩みをしたことも当然だった。加うるにさきには山県憲一氏、後には賀川豊彦氏といういづれも鈴木氏と同じキリスト教信者を指導者に得たため大正十年の大争議で検挙者百七十名、内起訴されたもの野倉氏ほか五十六名という大きな犠牲を出すまでは、「勲章」をもらった者は絶無であった。

 しかしこれは神戸の労働者が意気地なしだったということを意味しなかった。ただ、『大地にしっかと足を踏みしめて、仮そめにも軽挙盲動をしなかったからだといいたい。

 神戸の友愛会の幹部は熱心家揃いであった。工場の仕事が忙しく残業続きだったにもかかわらず、機関誌配りや、会費集めや、演脱会のビラ貼りにその余暇のほとんど全部を費やした。

 殊に厄介だったのは会費集めで、今日のように会社が代って月給から差引いた上、一括して組合に交付してくれるというような結構なことはなかったので、なかなか会費の寄りがよくなかった。従って本部の方でも支部からの送金がないため雑誌の印刷代が払えず、出来上っている機関誌も発送不能という事がよくあった。

 そうした時、鈴木会長は一帳羅のフロックコートや時計を七ツ屋へもちこんで、やっと印刷代を払い、急いで雑誌を発送するというようなこともあった。そうしたことを聞くと、熱心家揃いの神戸の幹部は一層一生けん命になって会費集めに努力した。

 鈴木会長は神戸の方を向いて「たよりにしてまっせ」といったか、どうか、そこまでは知らない。

 賀川氏の会費値上げ提案

 その後、友愛会は加速度で伸びて行った。神戸は殊にその伸び方が速く、川崎造船所の本工場を根城として大正四年に誕生した神戸分会は、間もなく神戸・相生両分会にわかれ、大正六年には再び合同して会員千名を越える神戸支部が結成された。

 神戸製鋼所や川崎分工場の葺合支部もこれにつづき、その他三菱造船所を根拠とする兵庫支部、市電湊川発電所を中心とする尻池支部、橋本汽船の刈藻島支部などがクツワを並べて、神戸は友愛会の金城湯池の感があった。

 殊に神戸の友愛会として最も力強さを感じたのは大正六年春、賀川豊彦氏がアメリカから帰朝し、その足でまた元通り葺合新川の貧民屈に住み、同時に、友愛会の運動に力を注ぎ始めたことであった。

 賀川氏がキリスト教伝道と貧困者救済の仕事のほかに労働運動に協力するようになったのは、貧しい人たちを真に救うためには、まず彼らに組織を与えて、自力で立ち上らせるほかはないと観じたためであるが、直接の動機は、アメリカの留学を終え帰朝の途中、オグデン市で船賃稼ぎのため同地の日本入会書記をしている時、モルモン宗の地主に苦しめられていた日本移民に小作人組合を組織させ、その代弁者として、使用人側の白人と折衝し、見事に要求を貫徹したことにある。

 賀川氏はこの体験から、労働団結の必要を痛感して日本へ帰ってきたのである。それで氏は単に友愛会の演説会に出るだけでなく、役員会にも出席して何くれとなく世話を焼いた。

 賀川氏は運動を強化するためにはもっと組合の財政をゆたかにせねばならぬといって、その時まで十銭だった会費を二十銭に値上げすることを神戸支部の役員会で提案した。(その時、賀川氏は同支部評議員だった)

 しかし、この賀川氏の提案には賛否相半ばし、投票の結果十八対十三で可決されたが、それでもなお実施期日について議論が沸騰し、当分保留という者十五名、二カ月後から実施せよという者も十五名で、結局、議長(木村錠吉氏)の発言で三ヵ月後から実施ということに決した。これを見ても会費集めということが如何にめんどうで、値上がどんなに困難であったかが察せられる。

 米騒動と神戸

 そこへ突然、米騒動が富山県滑川の漁村の女房たちによって火蓋を切られ、たちまち全国に拡がった。大正七年八月のことだった。

 神戸は外米輸入元だというので鈴木商店が焼かれ、ついでに近所の神戸新聞社も川崎造船所の御用紙だといってやられ、さらに飛火して因業家主だといって兵神館が焼かれた。

 賀川氏の住む葺合新川部落では八月十二日から廿二日までの十日間に八百十九名の暴行容疑者が引っぱら れ、物上情騒然たるものがあった。

 そこで清野知事が音頭をとって富豪を説き金を出させ、また県から精米所を指定して軍隊警衛の下に玄米を精白し、神戸市内十八ヵ所で廉売させるという緊急処置をとった。

 大阪では、夜は五人以上組んで歩くことが禁止された。わたしは神戸へ赴任する直前だったが、大阪日本橋三丁目で暴民と軍隊とが対峙しているというのでその方に派遣された

 夜に入ると暴民はいつどこで拾って来たのか小石を軍隊の方に向って一斉に投げて来る。軍隊と暴民は幾度か衝突し、片方が引けば片方が押すといった事をいつまでも繰返していたが、しまいには軍隊の方からパンパーンという銃声が起った。さア、軍隊はついに発砲した。

 そう思ってわたしは新聞社に飛んで帰り、大急ぎで書いた記事が翌朝には社会面のトップにデカデカとのった。標題は「軍隊ついに発砲す」だった。

 しかし、あとから聞くと発砲は発砲でも空砲で脅かしのためのものだったと判り、あわて者の臨時事件記者の特ダネもフイになった。

 この米騒動は都市社会事業(公設食堂・公設市場・公益質屋・共同宿泊所等)や方面委員制度の創始となり、公益職業紹介所の施設となり、前回記した清野知事の県営紹介所のプランまで飛び出したが、労働運動方面の影響はこれ以上で各地に争議が続発した。

 しかし、神戸では動かざること林のごとくだった。戦前に比し物価は七割の昂騰だということだが、神戸の熟練工は戦時手当・残業歩増その他により、割合に収入が多かったからである。

 ハッピを着て旗行列に

 こうして社会情勢が大きく動き出した時は、第一次欧洲大戦が終って、神戸市で催された、休戦祝賀会や旗行列には、神戸の友愛会員が揃って参加した。

 茶目ッ気のある久留弘三氏とわたしは、毎日新聞の配達のハッピを着用して出かけた。その時の写真が残っているが、一つはハッピ姿の二人のあいだに賀川氏がエクボの笑顔を見せているもの、他の一つはその頃、賀川氏のもとで診療に従っていた馬島僴氏、賀川氏の一の弟子の武内勝氏、それから若手の友愛会員の和田惣兵衛氏や胸永太助氏も写っている。賀川氏の三十才を筆頭に、他はみな二十台またはそれ以下の若者ばかりだった。


         写真 第一次大戦の休戦祝賀行列の日(大正8年)


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      前列左より 村島 久留 和田 賀川  後列左より 武内 馬島 胸永


 休戦に伴って平和会議がパリのべルサイユ宮殿で開かれ、西園寺公望候と牧野紳顕伯は日本全権として渡仏したが、そのお供の中に、お花さんという女性のいることが新聞紙を賑わした。

 その時、平和会議に併行して開がれる世界労働者大会に日本代表として出席するこ鈴木友愛会長もその一行より少し遅れて渡仏することとなった。

 大正七年もあと二日と迫った日、鈴木会長は横浜を出発したが、その際、わざわざ見送りに出かけた神戸連合会代表が読みあげた決議文は次の如くであった。


                決議

 神戸連合会代議員ハ鈴木会長ガ世界労働者大会二左ノ挨拶ヲセラレンコトヲ要求ス
 我等労働者ハ世昇二於ケル永久平和ヲ要求シ、ソノタメ二万国ノ労働者ガー致協力セン コトヲ希望ス、又皮膚ノ色ニヨリノテ人類ヲ区別セズ、各国民族二均等ノ労働権及ビ移民権ヲ附与シ、今日ノ資本家文化二代リテ労働者ヲ基礎トセル文化ノ一日モ早ク建設セラレンコトヲ要求ス
 大正七年十二月二十六日
                       神戸連合会代議員会


 いうまでもなく、この一文は賀川氏の起草になるもので、永久平和といい、皮膚の色による人種差別の撤廃といい、賀川氏らしい用語である。

 労働問題討論会

 その頃の事だったと思う。神戸の友愛会が主催して、神戸YMCAで労働問題討論会を催したことがあった。その時の討論会のプログラムが残っているが、それを見ると、当時の友愛会の元気な連中の名がズラリと並んでいてなつかしさを禁じ得ない。

 討論会の刷物によると、議長は今井嘉幸博士、副議長は高山義三氏、そして討論者は多分議会を模したのであろう左右両派にわかれて、右派の指導者はわたし、左派の指導者は賀川氏ということになっている。

 討論の議題は八つで、それぞれ弁士が割当てられてあるがなつかしい人の名を拾って見ると、

 一、労働運動は経済運動にとどまるべきや、政治運動にまで干渉すべきや
  (弁士)灘重太郎、沢井重太郎、大阪 早川由之助その他
 二、労働保険は組合組織によるべきか、政府によるべきか
 ’(弁士)越川豊治、出羽栄太郎その他
 三、八時間労働制は可か否か      
  (弁士)木村錠吉、安本仁、和田惣兵衛その他
 四、労働組合法の必要ありや否や
  (弁士)須々木純一、安井喜三、浜名兼三その他
 五、普通選挙は年齢別によるべきや、世帯別によるべきや
  (弁士)青柿善一郎、門田清七、疋田平作その他
 六、住宅問題を組合の問題とすべきや、市の問題となすべきや             
  (弁士)前川萬治郎、川島氏、大阪 西尾末広、同島種吉その他
 七、最低質銀制を採るべきか
  (弁士)野倉萬治、田辺一、福水宇太郎その他
 八、強制仲裁の可否
  (弁士)行政長蔵、胸永大助、栄二郎その他


 パリ戻りの会長を迎えて

 そうこうしているところへ、八年のはじめに鈴木氏は平和会議からさっそうとして帰朝し、まず神戸へやって来た。神戸の友愛会員は、船で神戸へ着いた西園寺全権以上に鈴木会長の帰朝を歓迎することとした。

 これより少し前、久留弘三氏が新妻を迎え、お祝いの返礼をかれて大太鼓を友愛会へ寄附したが、鈴木氏の歓迎にはこれを使うこととしたほか、特に二頭立の馬車を仕立て、三宮駅まで神戸の組合員が大ぜいで出迎えた。

 鈴木会長を乗せた二頭立馬車は、大太鼓を先頭に堂々隊列を組んで労働歌を高唱しながら神戸の目貫き通りを示威行進した。馬車には松岡駒吉氏と久留弘三氏とわたしが同乗し、馭者台には海員部の浜田国太郎氏が乗っていた。馬車につづく行列の中には大阪から馳せ参じた友愛会員もいたが、西尾末広氏もその一人だった。


         写真 鈴木友愛会会長を迎えて(大正8年)

3

      
       写真左より 久留 松任 賀川 鈴木 高山 村島 藤岡


 西尾氏は職工組合同志会から友愛会へ移って間もない頃でこのデモのあった直ぐあと、松岡・久留両氏やわたしの推せんで、多くの先輩をぬいて大阪連合会主務となり、大戦後、続発した大阪の大争議に名指揮者ぶりを示したが主務になった時、先輩たちは不満を鳴らした。

 現にわたしに向って、

 「西尾はオイラと同じ労働者やないですか。それが主務になって………」

 と不平をぶちまけた一支部長もあった。今なら反対に「オイラと違うインテリや、それが主務になったりして」とインテリ主務をこそ排斥したことだろうに――。

 しかし、インテリが重んぜられたのも大正初期だけで、やがて大正も十年を過ぎると、サンジカリズムの嵐が吹き荒れて、知識分子排斥の声が高まり、学識の深い者以外は、有能な労働者出身のリーダーの進出で、自然と消されてしまう結果となった。

 西尾末広氏は自伝「大衆と共に」のなかで、「知識階級は消えて行った」と記しているが、消えて行った理由は本人の自由意志よりも、後から来た者がより強力だったため、おのずと消え去らざるを得なかった向もあったのではないかと思う。鈴木文治氏は最後まで残ったが、労働者出身者よりも、新しく進出した尖鋭なインテリ分子によって押し出された感がある。

 しかし、神戸の友愛会の人々は、一二の例外を除いて鈴木氏を永く支持した。

 おめがけ横丁に間借り

 神戸の友愛会の雰囲気は常に和風堂に満つといったあたたかさがあった。わたしは大正七年から八年へかけて神戸在勤中は、ほとんど毎日のように、夕方、新聞社の仕事が終ると、新開地の盛り場をあてもなく歩きまわることと、新開地の裏側、湊町四丁目の横丁にあった友愛会の事務所へ行ってトグロをまくことを忘れなかった。

 友愛会の事務所といっても独立した家屋ではなく、二階借りの身の上だった。その上、この横町の戸数約十戸の居住者約二十名のうち、男はわずか六名(その中には友愛会の書記亀徳正臣氏も含まれていた)あとの十余名はみな女だった。それも、あだっぽい美人揃い。

 此処までいえばハハーンと合点されたと思うが、この横丁は俗称「おめかけ横丁」ともいわれる第二号住宅地域だったのである。そのおめがけ横丁のまん中に、労働組合の事務所が二階借りしているのだから天下の奇観といわねばなるまい。

 そして毎夜十時頃ともなると、ほかは森閑となるが、この横丁の友愛会の事務所だけは、残業を終え、家で一ぱいやってから出かけて来る組合員たちでまだ談論風発のさい中である。

 おめかけ横丁の治安をみだすものとして抗議が出そうな具合だったが、皮肉なことに、事務所の真向いは、人もあろうに、川崎造船所のカンカン虫(錆落しの少年工)の人入れをするボスの第二号だったので、気がひけるのか、出入りにも友愛会の人々の目をさけるようにしているのが見られた。

 友愛婆さんは女友愛会長

 ところが、事務所の階下にも一人の女性が住まっていて、刑事が「変ったことはありませんか」と聞きに行けば、彼女は二階へ取次ぐまでもなく「何もありません」と屑屋のように追っ払うすべも心得て居り、また始めて訪ねて来た労働者には、幹部になったようなつもりで、労働組合論の一くさりも語りきかせて、会則や入会申込書を持たせて帰す。鈴木会長が事務所に泊る時などは、まるで貴人のもてなしである。

 彼女は幹部のゆかりの人でも何でもない。実は或る質屋さんの第二号なのである。言いかえると、友愛会は、おめかけ横丁の、そのまた妾宅の二階に間借りの身分だったのであるが、階下の女性は、本務を忘れて友愛会のために忠実な玄関番・接待係をつとめてくれた。

 もっともこれがうら若い美人だったら、年少労働組合員の刺戟ともなったろうが、あいにく年は既に四十を越したうばざくらでお世辞にも美人とはいえない。友愛会の人々は彼女の本名の黒瀬俊子を知らないでも「友愛婆さん」で通っていた。

 友愛婆さんは九州は熊本の国憲党員の家に生れた男優りで、友愛会の面々と、労働運動の話もすれば、また家庭の紛議などを持ちこまれると、夫婦げんかの仲裁もした。かと思うと、乱暴者や浪費家は、とっつかまえて諄々と説教することもあった。それで、若い組合員らは「労働紛議なら友愛会へ! 家庭紛議なら友愛婆さんへ!」といって、彼女を「女友愛会長」に擬する茶目さんも居た。

 友愛婆さんはその後、パトロンの質屋のおやじとも別れた、というよりはすてられた。その原因は、彼女がかんじんのおやじヘのサービスを忘れて、友愛会に肩入れしすぎるからというのだった。

 久留氏らは婆さんの組合員を凌ぐPRや巧妙な刑事撃退の手腕を高く評価し、その後は事務所の台所を手伝わせていたが、不幸にして胸を病み、久留氏の世話で高砂の鐘紡病院に入院療養中、元気な婆さんも病気には勝てず、あの世へ旅立ってしまった。大正中期の神戸の労働運動の一挿話ではある。
            
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