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村島帰之「労働運動昔ばなし(『労働研究』連載第5回)

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「夕焼け」(今日のブログ「番町出合いの家」http://plaza.rakuten.co.jp/40223/)



  村島帰之「労働運動昔ばなし

    『労働研究』(第143号)1960年1月号連載分

    第五回 神戸新川における賀川豊彦

 神戸から出発した世界の人

 カガワ・ストリートという町がロサンゼルス市の郊外にできている。わたしは先年、賀川氏と一しょにそこを訪れた。また米国のハイスクールの副読本に「カガワ・イン・スラム」の一章がのっていた。大学での研究課目にもカガワ研究を選ぶ学生が多くなり、クヌーテンという元日本に来ていた宣教師のごときは「賀川豊彦と近代日本の諸傾向」という論文を書いて南カリフォルニア大学から博士号をもらった。(このクヌーテンの論文はわたしが補筆して日本語に訳して出版した)

 こんなわけでカガワ・トヨヒコの名は、日本よりもむしろ米国をはじめ諸外国で有名である。もっとも、日本でも近ごろ賀川研究を志す人がふえて来て、中でも、同志社大学では最近海外の大学から研究費の補助をうけ、篠田一人教授を主班として賀川研究が進められている。

 これほどまでに賀川氏が日本ばかりか世界的に有名になったのは、氏のすぐれた学識や篤い信仰や精神・社会両面の働きによるのだが、元はといえば、氏が二十才の暮から三十四才の夏、震災救護のため上京するまでの十数年間にわたる神戸の貧民窟、葺合新川部落での働きにその端を発していることは何人も異議のないところであろう。

 そしてこの何人も真似のできない献身的な奉仕と驚くべき働きとが、氏の小説「死線を越えて」に活写され、日本の青年の心をゆすぶり、さらにこれが世界各国に翻訳され、宣伝されてイエス・キリストを現代に受肉し実践する人として、その名は地球上に広く著聞するに至ったのである。

 「死線を越えて」のことは後段に記すこととして、「死線を越えて」が世に出ずる前、まだ無名で貧民窟(言葉としては不適当だ。以下スラムと呼ぶ)のドまん中に住んでいた頃の賀川氏をまず書いて見よう。

 わたしは前に記したように、大正六年七月にはじめて洋行戻りの瀟洒な賀川氏に会い、その後暫らくして、友愛会から演説を頼まれ神戸へ出かけた帰途、新川のスラムに賀川氏を訪れた。

 その時の印象を拙著「ドン底生活」(大正七年一月刊)に書いているので最初にそれを抄録し、併せてぞの後、毎日新聞に連載した「貧民窟十年」の中の挿話を書添えることとする。

 貧しき人々と共に

 賀川氏がスラムに住み込もうと考え出したのはまだ徳島中学の生徒の頃の事だった。

 庶子に生れ、幼くして実父母を失った氏をわが子のようにいつくしみ、勉学の道をひらいてくれたのはマヤス博士兄弟であるが、徳島中学在学中、その博士邸の書斎である日何気なく読んだ原書の中に、キャノン・バーネットがオックスフォード大学の学生と一しょにロンドンのスラムに居住し、貧しい人々の善き隣人となって働いた記録を発見し、自分も生涯をこの方法で献身しようと考えた。

 そして徳島中学を卒え、マヤス博士の援助で明治学院の高等部に学んだが、寄宿舎にいるあいだに、捨て犬を拾って帰って内しょで押入の中で飼ったり、飢えていた乞食が可哀そうで見るに見かねたといって連れて帰って自分の部屋に泊めて物議をかもしたりした。氏の救済事業はこの時に始まったともいえそうだ。

 そのうち、明治学院の神学部が一部神戸に移されることになって、氏は神戸には貧しい人たちが多いことを理由に神戸の神学校を選ぶことにした。

 この頃、氏は既に肺患にかかっていたが、どうせ死ぬなら、自分の素志通り、スラムの伝道をして死にたいと考え、学業の傍ら、葺合新川に出かけて路傍説教を試みた。

 そうこうしているうち部落の親分新家定吉氏と知りあい、その持家――人殺しがあって、ゆうれいが出るといって借手のなかった長屋へ住みこむこととなった。

 明治四十二年十二月二十四日、神戸神学校の寄宿舎から本や机や蒲団をつんだ荷車を自身でひき、路傍説教で知りあった不良少年を案内に頼んで葺合区北本町六丁目二百二十番地のいわゆる新川の長屋へ移り住んだ。わずか四坪のあばら家で、日家賃は七銭であった。

 それ以来五年間、貧しい人たちと寝起きを共にし、その救済とキリスト伝道に文字通り献身した。

 その後大正三年から二年八ヵ月、アメリカに留学して留守にしたが、大正六年五月帰朝すると再び春子夫人と共に元の新川に戻って来た。

 わたしはその帰朝間もないある日、氏に案内されて、氏の活動の舞台である新川部落を見せてもらったのである。

 賀川氏は黒紋付とは名ばかりの色のあせた羽織の前をコヨリのヒモで結んで、まだ三十才にもならぬ書生ッポ姿、洋行戻りとは誰が想像しよう。


        写真   貧民窟十年記念会―神戸海運クラブで


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        向って右から
        ヒゲの送別会の     遊佐敏彦
        賀川後援者       大村甚三郎
        県嘱託(後の社会課長) 小田直蔵
        賀川氏の師・恩人    マヤス博士
        県保安課長(警視)   土屋正三
        毎 日 記者(筆者)  村島帰之
        スラムのドクター    馬島 僴
                    賀川豊彦
        牧 師         長谷川敞
        賀川後援者(県議)   福井捨一


 新川部落の印象

 神戸の都心から新生田川(今は川に蓋をして大道路になっていると思う)のその名からしてさびしい日暮橋を東へ渡ると、そこには前に海をひかえ、背後に再度山を負った「葺合新川」の一劃が展開された。

 見ると、よくもこうまで揃ったものだと思われるほど小さな平家建の長屋が縦横につらねられている。わたしたちは南本町四、五、六丁目、北本町二、四、六丁目、吾妻通五、六丁目と順次に見て行った。

 賀川氏の説明によると、約五町四方のこの界隈だけに、約二千戸の家があり、約八千人がゴチャゴチャと住まっているという。東京や大阪のスラムに比べて人口密度は遥かに高い。

 この密集地帯の住人の職業は沖仲仕・人夫などの日傭取りをはじめ下駄直し・くずひろい、それに乞食は全市の大半がここから出るという。収入はもちろん不定で、雨風の折はノーチャプの日がつづく。

 ノーチャプは説明するまでもなく、無収入のためメシにありつけない日のことである。その代り物資も零細な単位で買うことができた。だしじゃこ、めざしは一銭から売ってくれるし、炭も一山二銭から買えた。(もちろん、くず炭である)

 また家賃も日掛けで、一戸――といっても二畳一間からせいぜい三畳だが――一日大体五銭を管理人が毎日集めてまわる。結局、見栄も外聞もいらないハダカ天国であり、天下泰平のオンボロ入生の縮図で、むしろ一般社会よりは住み心地がよい――と賀川氏はスラム生活を礼讃する。

 近道を知っている賀川氏はここの路地、そこの横丁とずんずんわたしをひっぱって行く。どこへつれて行かれても、氏を見失ったら最後迷い子になるほかはないのだから、家来のようについて行くと、漸次氏の勢力範囲に入ったらしく、物置のような家から蓬髪の女やトラホームらしい目をしたこどもがあいさつをする。

 「お父っつあんの病気はどうや。薬がなくなったらとりにおいで」と氏もじょさいなくそれにこたえる。

 手をのばすと向い同志で握手のできそうな路地をへだてて十五軒ぐらいずつの長屋が規則正しく(この形容詞はここ以外に必要はない)並んでいるが、その道の両側の溝には何十日放ってあるのか知れない不潔物が腐水の中によどんでいる。

 その上、家の密集した「太陽のない街」は常にじめじめとしていて、何のことはない長屋全体が一つのハキダメである。

 住民の服装はボロというに尽きる。ことに夏ともなると、こどもは丸はだか、女は腰巻一つで白昼、表を歩き、男は風呂へ行く時など手拭一本のほかはI糸もまとわずアダムのような姿のハダカ天国だという。

 寝た者夫婦の現実

 長屋の端には便所があったが、その不潔さは鼻と目を覆かせた。賀川氏に聞くと、二十戸に一つぐらいの便所で、少くとも八、九十人の男女がそこで用を足すのだし、肥くみもなかなか来てくれないので、びろうな話だが不浄物は不二山形に堆積しているのが通路から丸見えである。というのは、便所の戸や汲取口の戸はいつかみな燃料になってしまって一つもないからである。

 こうした非衛生と悪臭の中にあけくれ生活している長屋の人たちは、悪臭を悪臭と感ずる感覚を麻庫させている。賀川氏は「あの人たちは、よく屁、屁といって笑いますが、本とうの屁の匂いは多分知っていますまい」といって笑った。

 やがて賀川氏は有名な二畳敷長屋へ案内してくれた。名の如く一戸二畳しかない長屋で、便所も台所もない。路地が台所である。さなきだに狭い路地はそのため一そう狭ばめられて、わたしたちは小さくなってでないと通れない。

 賀川氏の説明ではこの二畳敷に少くも四、五人の家族が住み、中には九人も住んでいるのがあるという。世間の人がドン底の人たちには貞操観念がないというが、ないというよりは、この居住状態ではあり得ようがないのだ。

 現に二畳敷に独りで住っていたある女は、三日目か四回目にはきっと手ごめに会っていたという。彼女は貞操を守ろうにも守るべき道がないのだ。そこで守ることの困難な貞操を守ろうよりは、むしろこれをパンに換えるのが賢明だということにならざるを得ない。賀川氏はその一例としていざり乞食の寡婦お玉の話をしてくれた。

 お玉の亭主の乞食は二週間前に死んだ。それで三十五日の供養をしたいといって、賀川氏の向隣りに住む盲乞食の家の同居者徳に二円五十銭の借金を申入れる。そして供養のすんだ夜、お玉はもう徳のものになっていた。徳は仲間の乞食を招いて祝宴を張ったが、その翌朝新夫婦の姿は長屋から消えてしまっていた。寡婦の貞節は三十五日、それでも先夫の供養をすませているのだから、お玉は貞婦だったと賞讃されたという。

 また中には、亭主が張番をして妻が春をひさぐ者もあり、姦通は悪いとされていても姦夫の方が、妻を盗まれた男よりも強ければ泣寝入りのほかはなかった。

 さらにあさましいのは、妻に死なれた男が娼婦を後妻にもらったが、数年たって息子が成長しその後妻と関係ができてしまった。しかもこの親子の三角関係がせまい長屋の同じ部屋で平和につづけられたという例もあったとか。

 スラムでは「寝た者夫婦」という言葉もあるとかで、性生活のみだれは言語に絶すると賀川氏は慨嘆して話してくれたあと「人間はどこまで堕落して行こうというのでしょう。わたしたちは社会苦と共に人間苦の解決に大きな使命を感じるのです」といった。

 バクチとケンカと殺傷

 わたしたちは無数の路地を歩き廻ったが、至るところで見てはならない場景を見た。それは路地のあいだに天幕というほどではないが覆いをはりめぐらせてバクチを開帳しているのだっだ。

 あっちでも「ヤソの先生か」と警戒する色を見せずに勝負を続けた。賀川氏が説教じみたことをいわず「またバクチかね、しょうがないね」というと「しょうがないなァ」と答える者もあるが、ただエヘヘヘと笑っている者もある。

 ある長屋の一隅では女ばかりで丁半を争っていた。「ここは女ばかりかね」というと「ヘエ、オナゴ島だんね」と洒蛙々々と答える。「しょうがないねえ」といえば「ちょっと無尽をしてもろてまんねが」と平然と答えるのもいた。

 酒と女とそしてバクチ、この三つが彼らの娯楽の全部だが、その中でもトバクは社交性もあり、そのスリルに富むとあって、モウケが多かったからといっては丁半をやり、雨が降ったからといっては花合せをする。

 殊に当時は第一大戦のもたらした景気がこのドン底社会をもうるおして沖仲仕などどなると収入も割合に多く、二、二二日働いては休んで、金のなくなるまでバクチをうち、財布の底が空になるとまた働きに出てバクチの資金を作って来る。それでバクチは例年よりも多く、時には大規模なチーハー賭場も行われるという。「バクチはとても絶滅は期し難いでしょう」と賀川氏もサジをなげていた。

 しかし、このバクチの果てが一家の悲劇を生み、また喧嘩や殺人傷害事件をさえ起すのだから放置するわけにも行かぬので困っているとのことだった。

 喧嘩は毎日のようにあるという。氏から約一ヵ月にわたって近所百軒あまりの家の喧嘩の日記をつけたところ、合計三十三件、つまり毎日一件はとこかの家で喧嘩があった勘定になる。

 喧嘩の仲裁に出るのはなかなか大変で、上方の喧嘩の仲裁には小指を切って渡すという古風な風習さえあったというほどだ。中には母親に亭主をとられるといって、母娘のあさましい喧嘩もあるという。

 ケンカの果ては殺傷事件が起った。賀川氏が新川へ来る前年にはこの界隈だけで十件の殺人事件があったという。現に氏が借りている家も、わずか二十銭の祝儀のことからケンカをして斬られた男が帰って死んだ家である。その他ニワトリの頭一つのことで隣家の男を殺したり、女房とあやしいといってヤキモチから殺すというのもあった。

 また十四才になるこどもが同じ年頃の子を殺したこともあった。妻のケンカを買って出てあいてを殺したのもあった。バクチ場で勝ったからといって帰るのは卑怯だといって殺したのもあった。賭博場へ寺の坊主が案内しなかったといってその坊さんを殺したのもあった。

 こうしたいのち知らずの多くいる中で住む賀川氏の日々は全く薄永を踏む思いがするだろうと聞くと、賀川氏は「こわいと思えばこんなところへは住めませんが、しかし、そんな怖しい人間ばかりがいるわげではなく、一般社会では見られぬような美しい人情があって慰められることも多いのです」と答えた 。

 こうしていろいろの驚くべき場景を見聞して歩いて行くうち、わたしたちはいつか賀川氏がそれまで十年近く住んでいた北本町の長屋に来た。

 オンボロの賀川御殿

 賀川氏が住まっていた長屋を読者はどう想像されるだろうか。間口は一戸当り二間とはない。表は路地に面して古色蒼然たる形ばかりの格子がはまっていて、触れたら手にトゲが立ちそうだ。入口は物置のような半間の板戸があるだけで、はいると半畳ぐらいの土間。そこに立つと、賀川御殿が目の中にはいってしまう。

 賀川家ははじめはただ三畳一間だけだったが、寄食者がふえるに従って隣家を借り足し、壁をぶちぬいて今は三畳づつ三間が一軒になっている。しかし天井は低く垂れさがり、それも隙間だらけ。戸じまりなどの戸はむろんない。昼夜とも破れ障子だけである。

 「ものを盗まれませんか」ときくと、賀川氏は「盗まれますよ、しかしふつうの盗難は衣類や贅沢品ですが、此処にはそのものはないので、台所用品が盗まれます。洗面器など、今朝ぼくが使ったばかしだのに見えないので捜すと、隣家で洗だくに用っているといったあんばいです」と笑う。

 三部屋のうち、奥の一室は氏がはじめて此処に住んだ時の家の、前述のように人殺しが此処で行われ、ゆうれいが出るといって借手がなかった家だが、賀川氏が入ってからは幽霊も敬意を表してあらわれないので説教所に充てられ、壁の黒板には聖書からぬいた聖句が書かれてあった。

 中の部屋には粗末な椅子と机。この机の上で、氏の名著「貧民心理の研究」が書かれたのだった。どの部屋も装飾一つなく、貧民窟のキリスト教伝道所と知らぬ者は、農家のガラ空きの納屋と思うに違いない。

 氏はこの家に自ら住むだけではなく、寄るべなき人々を寄食さぜて来た。乞食・ゴロツキ・半身不随の女・淫売婦・狂人・嬰児――その種類は雑多で、ゴリキーの「夜の宿」の客よりも数段下層の人々ばかりである。

 賀川氏はこの家に住込んだ夜、一番最初に宿を乞うたのは見るからにきたないヒゼン患者だった。さすがの氏もちゅうちょしたがこれも神の試練だと考えて喜んで一しょに寝た。果して翌朝には氏はヒゼンに感染していた。賀川氏の新川での最初の収穫はこのヒゼンだったのである。

 寄食者はヒゼン患者を手初めに入替り立替り来て貧客万来、不良少年や乞食をはじめ、中には梅毒にかかった売春婦もいたし、末期の症状の結核患者もいた。

 ゴロツキともらい子殺し

 しかし氏を一ばん悩ませたのはこれらの寄食者ではなくゴロツキだった。彼らは賀川氏の無抵抗主義を知っていて次から次へとゆすりに来たり乱暴を働いた。

 賀川氏が毎夜路地に立って「善に立ち帰れ」と叫んでいると、その路傍説教の中で淫売を攻撃したのはけしがらんといって火のはいった火鉢を投げつけた男もあったし、また或る博徒はゆすりに応じないといってピストルを乱射し、あまつさえ氏の家の障子や飯びつまで強奪して行った。そのほか、酔うて来ては伝道所のオルガンやガラス障子をこわす者、祈り会の最中に大きな石を投げこんで、いやがらせをする者もあった。

 このように白刃やピストルもなれて見るとそれほどこわくはなかったが、一番氏を悲しませたのは貰い子殺しであった。わずか五円ぐらいの金がほしさに養育料付きの赤ン坊を貰って来てはおかゆばかりたべさせて栄養不良で死なすのである。

 氏はたびたびこの貰い子を救った。氏がスラムにいって間もない頃、一人の老婆が検挙され、そのあとにもう一人の赤ン坊がやがて乾干にされようとしていたことを聞き、警察から貰いうけて養ったことがある。もちろんまだ春子夫人を迎える前で、神学校の試験のさい中だったが、ほとんど眠らずに梅干のようにしなびた上、腸カタルで四十度近くも熟のあるその子のために乳をとき、おむつをかえた。その子はもう泣く気力さえなかったが、賀川氏は悲しさに涙がとめどなく頬を伝うのだった。

 賀川氏は一度スラムに落ちこんだおとなはなかなか容易に浮びあがれないことを知ったが、せめて、まだ穢れを知らぬこどもたらだけは助け出したいにと考えて、暇があると表へ出てこどもたちと遊んだ。

 だから氏の界隈の子は、まだチャン(父)と呼べない幼な児も「チェンチェ」といって氏を呼んだ。氏が便所へ行くと便所の口までついて来て、氏の出るのを待っている子もあった。

 ある年のクリスマスに出口船長の宅によばれて行ったこどもたちの中の一人はおしぎをすることを知らないので、シャッチョコ立ちをしてみせた。

 こうしてかわいがっても、男の子は成長すると周囲に感化されてチンピラの群に入り、女の子はならずもののために淫売に売られるか、さなくば親が女郎に売ってしまった。賀川氏の愛の力をもってしても、この強大な生活環境の圧力にはどうすることもできなかった。

 わたしは賀川氏からそうした話を聞かされて、氏が貪民救助事業だけで満足せず、労働者の自助組織である労働運動に情熱を傾けつつある気持がわかる気がした。

 伝道所の前は私娼群

 わたしはその頃はまだ賀川夫妻の働きの詳細について十分知らなかった。「死線を越えて」もまだ出ていなかっ
たし、もちろんその後の自伝的小説も出ていなかった頃だから、「貧民心理の研究」の中に現われる事例によってわずかにそれを知るのみであった。従ってわたしの新川部落の賀川長屋初訪問記は、ただ表面的なスケッチだけで終ったのもやむを得ない。

 それから暫らくして大正七年九月、わたしは神戸勤務となり、賀川氏とは労働運動の同志として交渉が深まって行き、わたしの新川通いも頻繁となった。それと同時に、毎日新聞紙上に賀川氏の過去、現在の活動が頻々とのり出した。わたしはこの人を高く評価して、たえず紙上に紹介したからである。わたしが賀川氏をあまりに知名人扱いするというので、社内の上役から非難をうけたのもこの頃であった。

 賀川氏の貧民伝道の事は此処では触れないことにするが、始めは「救霊団」の名で開始されだがその後「イエス団」と改められた。わたしが労動運動の用事や新聞の取材のことで、しげしげと氏を訪れるようになったのは「イエス団」になってからで、イエス団の事務所は前記の北本町の長屋の路地を出た表通り、吾妻通五丁目にあった。

 北本町の長屋は専ら寄食者が住まい、吾妻通りの二階家の階下の四坪ほどの土間が説教所になって居り、奥は診療所、隅は狭い食堂。階上の通路に面した側は賀川氏の書斎、事務所、応接間(一時は此処が診療所になって馬島僴氏が診療に当っていたこともあった)、奥の二間は賀川氏夫妻や奉仕青年たち(この人たちの中には、現在協同組合運動の大立て者となっている木立義道氏や牧師深田種嗣氏などもいた)が住まっていたが、氏の書斎の天井近くの棚にズラリと並んいたマルクスの資本論(原書)が印象に残っている。

 わたしたちが訪れて、階下の土間の隅にしつらえられた粗末な梯子段の下から氏の名を呼ぶと「ああ、居ますよ。おあがり下さい」と階上から賀川氏が顔を出した。何のことはない。場末の三等下宿であった。

 この事務所の前の吾妻通りは立淫売(最下級のパンパン)のかせぎ場だった。わたしが夜分、賀川氏を訪問すると、きまったように彼女たちにつかまった。その時「賀川先生のとこへ行くんだよ」というと「ナーンヤ、先生とこのお客さんかいな」といってすぐ解放してくれた。

 わたしは事務所の二階の戸の隙間から彼女たちの営業ぶりを小一時間にわたってあかず観察していて、春子夫人から「村島さんは何て物好きなんでしょう」と笑われたこともあった。

 お客の中には外国の船員もいたが彼女たちにはあまり歓迎されないらしく、売春料を値切る者に対しては「アホ!」といって罵った。女をこう気丈にさせるのは遠巻きに彼女たちのヒモ(その多くは良人?である)が目を光らせていてくれるからである。賀川氏はこれらの私娼たちのためにも何くれとなく世話をやいてやった。

 貧民窟十年記念会

 大正八年夏、賀川氏が葺合新川の伝道を始めてから十年になるというので(住み込んだのは十二月だが、伝道はその前から始めていた)、「賀川豊彦氏貧民窟十年記念会」がわたしたちの発起で神戸山手の海運倶楽部で開かれた。恩師のマヤス博士を始め仲間の牧師・官吏・社会事業家――ヒゲの送別会をした遊佐敏彦氏もいた――など十数名が集まって、氏を慰め励ました。この記念会を機会に、わたしは毎日新聞に「貧民窟十年」と題して新川部落での賀川氏の驚異的な働きを十回ぐらいにわたって連載し、さらにこれか引き伸して当時大阪で発行されていた「慈善新報」に戸のない便所だの、ミカン箱の赤ン坊の葬式だのの写真を入れて続き物としてのせた。これらは多分まとまって賀川氏の人と事業を紹介した最初のものであったろう。

 なおこの記念会の当夜の写真が後に沢田二郎ら新国劇一座が「死線を越えて」上演の際、登場入物の一人ウィリアムス博士――マヤス博士のこと――の顔作りの参考に使われた。わたしはある夜、道頓堀の某座の楽屋に沢田を訪ねて行くと、傍らにいた久松喜世子氏が「あなたのうつっている写真が来ていますのよ」といって示されたのがその記念写真だった。わたしは賀川氏やマヤス博士と並んで元気な顔でうつっていたが今は手元にないのが惜しい。                          

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