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村島帰之「労働運動昔ばなし」(『労働研究』連載第6回)

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「寒中散歩<兵庫運河>」(今日のブログ「番町出合いの家」http://plaza.rakuten.co.jp/40223/)




   村島帰之「労働運動昔ばなし

      『労働研究』(第143号)1960年2月号連載分

      第六回 大正6年の三菱争議
       ―主役を演じた3人の基督者

  

  高山豊三と安井喜三

 神戸の労働争議といえば、誰しも直ぐ大正八年のサボと、十年の大ストを連想するが、しかしこれが神戸の争議のはじめではない。

 大正六年の夏に三菱造船所の兵庫工場で争議が起っている。そして当時の唯一の労働組合友愛会は、この三菱争議に兵庫県知事の要請で居中調停に乗出して、ボヤのうちに解決した。このことは世間でもあまり知られずにいるし、記録にも残っていない。

 その頃の友愛会神戸聯合会主務は高山豊三だった。前にも述べたが、この高山は後に京都市長になった高山義三ではない。同じクリスト教信者である上、たった一宇違いなのでいつも間違えられがちだった。

 義三の方はまだその頃は京大を出たてのホヤホヤで、学生時代からやっていた友愛会の京都支部長として、京都市電の争議などにも活躍していた。後に神戸へ来て弁護士を開業して、友愛会神戸連合会のために力を尽したことは後に述べる。

 豊三の方は鈴木文治が友愛会を創立した当初からの協力者で、大正六年二月、神戸連合会主務となり、わずか九ヵ月間の短期間だったがまじめに神戸の友愛会を指導したのである。

 大正六年夏のある日、高山主務のもとへあわただしく駈けこんで来た男があった。熊本弁でその上昂奮してどもりながら早口にしゃべり立てる言葉は、よく聞きとれぬ程だったが、とにかく、三菱造船所に争議が起ろうとしているから、友愛会としても直ぐ応援に出動してくれということだけは判った。

 この男は安井喜三といって熱心な友愛会員、肥後の刀鍛冶の末えいだという話で、いつも肩ひじを怒らせて議論をしたが、幼時、脳をわずらったとかで頭は少し弱い方だっだが、熱情の持主でカトリックの信仰をもっていた。年はわたしよりは少し上で三十才に近かかったように思う。

 大正十年の神戸の大争議にも彼は三菱造船所罷業団の代表者に選ばれ、三菱造船所会長の武田中将と折衝し、デモの陣頭にも立ったが六年の三菱争議では彼は小勢な友愛会兵庫支部をひっさげてその中心人物となっていた。

 十字架を負って陣頭に


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                    安井喜三


 安井はわたしの家へは屡々来て親しくしていたが、彼は争議の指導をした時の感想をわたしにこう語った。

 「私はキリスト信者じゃけん、キリストが十字架上に血を流されたそのお気持をもってストの陣頭に立ったのでごわす。仲間のために血を流すことなんぞ、ちーいともおそるるところではごわせんなんだ」安井のこの気持にうそいつわりはなかったと思う。

 さて、この安井の報告を聞いて、高山主務は直ぐ兵庫支部に走った。兵庫支部はどうした風の吹きまわしか、安井のほか、幹部の中に聖公会やプロテスタント教会の信者がいて高山には特に親しみが深かった。高山が駈けつけた時、一足違いで安井を始め友愛会兵庫支部の幹部は兵庫署に検束されていた。

 三菱ではこれより少し前、長崎の造船所で、当時としては珍らしい大ストライキがあって手を焼いた矢先だったので、兵庫工場の動揺に驚いて、逸早く手を打ったらしく、造船所は既に非常警戒の態勢をとり、高山をよせつけようとはしなかった。

 高山はすぐ大阪へ飛んで行って友愛会大阪連合会主務の松岡駒古と相談した。松岡はいうまでもなく後年の友愛会長――総同盟会長で、終戦後、新憲法下、最初の衆議院議長となった男。北海道の室蘭製鋼所職工をやめて友愛会本部員となり、大阪連合会のできるのと同時に初代主務となって来たばかりだったが、同じ本部員出身であり、また同じキリスト教を信仰する関係もあって、何かというと松岡と高山は話しあっていた。

 清野知事から会見申込

 その頃の友愛会は会長鈴木文治の主張にもとずき、労資協調を主眼としていて、今日のような階級斗争的のものではなく、労働紛争の安全弁たらんとしていたので、高山もこの方針に従い、ストライキは余程切迫した事情の起らない限り起すべきではないと考えていた。

 高山は松岡と話しあって、大阪から夜の九時過ぎに帰宅すると夫人が昂奮した面持でいった。

 「今日は高等刑事が十一回も来ました。そして清野知事があなたに至急面談したいから官舎へ来てほしいといっていられるとの事でした」

 知事からの面会申入れは三菱のことに違いない。そこで「夜分でもかまわなければ参上します」と電話で返事すると、折返し「すぐ面談したい」とのことに、食事もせず、その足で知事官舎へ出かけて行った。

 応接室には知事の吸い残しであろう、葉巻の紫煙か細く立ちのぼっていた。初めて知る葉巻の美薫と、そして夜の官舎の静寂にうっとりしていると、清野知事が私服に寛いでパーラーヘ入って来た。そして打ちとけた態度で三菱問題について話し、高山の意見を聞いた。

 そして、明日、三菱の所長と面談させることを兵庫警察署長を通じて取りはからってくれた。そこで翌日、高山と松岡は三菱造船所へ行き、三木所長と会見、談合した結果、争議はあっさりと解決した。もちろんこれは知事の下工作があったからである。

 大正六年の三菱の争議はわたしの神戸赴任前のことで詳しいことは知らない。前述の記事も戦時中、私か某誌に書いた一文を、その頃いアメリカのサクラメントで牧師をしていた高山が遇然読み、往時を追懐してこまごまと書いてよこしたのに拠ったものである。高山牧師は今どこでどうしているか、わたしは知らない。どこかで本誌を読んで、また昔ばなしを書き送ってくれたらうれしいと思うのだが――。

 それはともかく、六年の三菱争議が安井・高山そして松岡と揃ってキリスト教信者がその衝に当ったことも興味深い。

 松岡駒吉の開拓者としての苦行

 ここで、少しく松岡駒吉について記して置きたい。

 松岡は温泉の里として知られた鳥取県岩井の産、北海道室蘭製鋼所の旋盤工であった。大正二年、三木治郎(後の参議院副議長)が東京池貝鉄工所から室蘭製鋼所へ転じて友愛会の支部を作るや誘われて入会し、その会計を担当した。

 松岡の才能は忽ち顕れて、全国に率先して「労働会館」の設立を見た。今でこそ労働会館は各地に建てられて左程珍しくはないが、四十年前まだ労働運動の頗る幼稚だった頃、早くもここに着眼し、労働組合の乏しい財政の中からこれを創立したところ、只だ者でなかったことが知れよう。

 間もなく松岡は室蘭製鋼所の争議にリーダーとして活動したところから型の如く馘首された。そこで待ってましたと許り、友愛会本部員として抜かれ友愛会の事務を執っているうち、大阪聯合会の結成と共に主務として大阪へ送られて来たのであった。

 筆者はその大阪赴任と共にじっ懇になった。松岡にとって、恐らく関西では筆者が最も古い友人だったであろう。松岡主務の来阪した翌月すなわち大正六年七月に、大阪の友愛会関西支部に争議が起きた。

 大阪府西成郡豊崎町(現在の西淀川区豊崎町)の日本兵器製造会社工場ではロシヤ政府からの注文で、信管の製造をやっていたが、その製作の一段落を告げると共に職工七百余名の一斉解雇を断行し、その際、会社が職工に支払う共済積立金に対する疑義から争議が起ったのだ。

 松岡主務は会社に談判に出かけた。その頃、まだ大阪に幾台とはなかった自動車に乗って――というと豪勢だが、筆者が乗る大阪毎日新聞社の自動車に同果してである。しかし、この争議は結局法律問題だけを後に残してうやむやのうちに終った。罷工に這人ろうにも、一斉解雇の後だから何とも仕方がなかったのである。


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                         松岡駒吉


 主務給だけでは食えぬ

 この争議の結果、関西支部は事実上消滅した。みんな解雇になったからである。もちろん、友愛会は関西支部だけではなかったが、松岡は退勢挽回に大いに努力すると共に、主務の俸給――二年後に西尾末広が主務となった時には六十円だったから、松岡はまだそこまではもらっていなかったに違いない―-を減らした。それでなくても薄給の彼だ。生活は窮乏の極に達し、食事を二度に節約し、その二度の食事も減食したり、香の物ばかりにしたりした。筆者は「それではからだが持たぬから」といって反対したこともあった。

 その結果、松岡はある保険会社の外交員をして収入の道をはかり、友愛会の負担を軽くした。夕方、外交から疲れて戻って来ても一息入れると直ぐ友愛会の事務をとる。支部を訪ねる。演説会に出かける。という八面六臂の活動振りであった。

 その頃誕生した長男洋太は昭和三十年九月、三十代の若さで父に先立って昇天した。その時わたしは大阪時代のことを回想し、悔み状を出した処、折返しこまごまと心境を書きつらねた返事をくれた。その手紙にこんなことが書いてあった。

 「耐えられない試練を、神はわれわれに課し給わないということを私は深く信じていま す。ですから、この度の如き苦しみに会っても、まだまだこれ以上の苦しみもあるのだと 思って耐え通すことができました。人々から理由のない迫害を受け、嘲けられ笑われつつ 十字架につけられたキリストの苦しみは、ナザレの大工イエスを神の子としたのです。こ れから先も主の十字架を仰ぎつつ私はすすみます」

 松岡は多年、労働運動の陣頭に立って来たが、キリスト教信仰を失わなかった。松岡の若い日、信仰に入った動機は甚だ興味深い。彼の衆議院議長時代、品川にあった旧北白川官邸の議長公舎で私に語ったのを筆記し、キリスト教関係の新聞にのせたのがあるので左に抄録してみる。

 突飛な受洗志願

 明治三十七年三月、日露戦争が始まって旅順港閉塞の試みがくりかえされ、軍神広瀬中佐の名が国民の間に宣伝されていた。高等小学校を卒えた十六才の少年の私は、戦争の惨禍や害悪など知ろうはずもなく、兵器を作る職工になろうと考えて郷里を離れて軍都舞鶴に出た。はじめにありついた仕事は海兵団のボーイだったが、私はその仕事を好まなかった。

 折柄、新設の舞鶴海軍工廠で機械工見習を募集しているのを聞いて早速これに応募した。数ヵ月の経験で私は機械工として大成するためには技術ばかりでなく、英語を知っていなければならないことを教えられ「ナショナル・リーダー独案内」を買ってきて独学を始めた。

 ところがある日、街を歩いていると、キリスト教会の門口に「英語教授」という貼札のあるのを見、渡りに船と、そこの英語の生徒となった。工廠は夕五時終業の定めだったが戦争で忙しいので毎日二時間の残業があり、七時でないと自分の身体にならぬので英語のレッスンのある日は昼と夜の二度分の弁当をもって工廠にはいり、夕食をおえてから教会へ行った。

 そんなわけで私はほかの生徒の帰ったあとに行ってほとんど個人教授を受けた。牧師小北寅之助氏が先生だった。しかし規定の時間に遅れてゆく私だったので、牧師は用事で他出せねばならぬ場合が多かった。そんな時には牧師の夫人が代って私の初歩のリーダー(ナショナルの巻であった)を教えてくれた。

 冬の夜など、私が行くと今しも夕飯の後片ずけをしたばかりと覚しい夫人が手を拭き拭き出て来たが、いつもにこやかでいささかも迷惑相な顔を見せなかった。

 私にはなぜ夫妻がこうも親切なのか、一介の見習機械工のために、それも時間はずれのときにたった一人でくる自分を親身になって教えてくれる夫妻の親切が、一体どこからくるのか、私はそれが疑問だった。

 夫妻は私には父母といいたい年輩だったが、私をやさしくいたわってくれる愛情にも私は父母を思い出していた。ある夜、古本屋から夫妻たちが読んでいる聖書を買ってきた。夫妻はそれまで一度もキリスト教の話をしなかったし、私も聞こうとはしなかったので、聖書は私には全くの初対面であった。マタイ伝の冒頭の系図は何のことか皆目判らなかったが、飛び飛びに読んで行くうちに強い教訓を読みとることができた。

 神は愛なり――私はそこまできて小北先生夫妻の親切のいわれを知ることができたように思った。

 山上の垂訓には心を打たれた、私はイエスの弟子になろうと決心した、そしてある夜リーダーを学びおわってから、牧師に私の決心を告げた「私に洗礼を授けて下さい、私は基督の弟子になりたいのです。」

 牧師は私の顔を凝視していたが、ややあって笑いながら問うた。

 「でもあなたはまだ一度も教会の礼拝に出て来ないではありませんか」「礼拝に出ないと洗礼は授けられないという規則ですか」「いや別に規則とてはありませんが」

 「では、ぜひ洗礼を授けて下さい」「そうですか、よろしい。では洗礼を授けましよう。だが少し待って下さい、時がきたら、必ず洗礼を授けますから」

 牧師は私の乱暴な申出を、やさしく受けいれてくれた。私はそれからというものは熱心に教会に通った。日曜日の礼拝は、たとい仕事があっても工廠を休んでまで教会へ出た。

 金曜日の祈り会にも欠かさず出た。そして三十七年の夏から教会え行き出して冬になってはじめて小北牧師から洗礼のゆるしを得た。明治三十七年十一月の第一日曜日のことであった。

 私は基督の弟子となることを許された。十九才であった。

 小北牧師も当時の事をよく覚えていられて「私も永いこと牧師をしているが、教会の礼拝に一度も来ないで、祈り方も知らずに受洗志願を申出た人は松岡君のほかに誰もなかったですよ」と笑われた。

 颯波光三と木村錠吉

 さて、三菱の争議のあったその頃、川崎造船所の方はどうだったか。

 友愛会としては、もちろん川崎造船所の方が三菱より遥かに大きな勢力をもっていたが、満を持して動かずというよりは、内部の力を充実することに意を注ぎ、鈴木文治や賀川豊彦を迎えて演説会を催したり、屡々役員会を開いて幹部の結束に努めた。この情勢が大正八年のサボタージュの時までつづいた。

 川崎造船所を中心とする神戸支部のリーダー株は昼間は川崎で働き、夜間は湊川実業補習学校へ通い、工学の基礎を学んでいる青年工員だった。(その中には野倉万治や青柿善一郎らがいた)

 しかし、最高の地位の支部幹事長には、通称「工場長」(コウバチョウ)で呼びならされている職長の同志が推された。大正四、五、六年へかけては、木村錠吉と颯波光三が交替して幹事長となったが、共に「コウバ長」であった。

 木村と颯波とは全く性格を異にしていた。木村は一見するところ、豪放磊落な東洋的豪傑といったところがあり、颯波は温厚で親切なおじさんという風があった。木村はずんぐりと太っていて、友愛会へ来ても葉巻をくわえて悠々と構えていたが、颯波は長身痩躯、鼻下にチャプリン型のヒゲを蓄え、親しみ深い視線でみんなを見廻していた。

 わたしが神戸支局に赴任した時、友愛会の人たぢが家を捜してくれたが、その家は須磨、といっても兵庫に近接した西代というゴミゴミした小市民住宅の建ち並地区で、川崎へ通勤する者が多く、わたしの隣りには伍長の灘重太郎が住み、北へ少し坂を登ると同じ伍長の須々木純一、さらに上へ登ると颯波光三が住まっていた。つまり、月給の多いほど坂を登って見晴しのいいところに住まっていたのだ。(私はさしずめ伍長というところだった)

 颯波は地味な職長らしい人で、木村とは違い地味な性格だったから今此処でその人となりを説明するに足るような挿話もない。ただ彼のどっちかの手の指が、機械のため無残に奪い去られていたぐらいで書くことがない。一方、木村はいろいろと逸話がある。友愛会で会うと、よく自慢話をして聞かせてくれた。


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  写真 左から松岡 木村 久留 村島 颯波
 

 技師そこのけの造機の虫

 木村は神戸川崎造船所造船部造機工場長、大正六、七年頃の彼は月収約三百円、官吏ならば三級の知事という処、カーキ色の垢付いた工場着を着、頭に古色蒼然たる麦藁帽子を被っている彼が、夕五時工場の笛を聞いて家に戻れば、ソコには長女を頭に五人の子女が父の帰りを待っていた。彼は子らに取巻かれながら打寛いで葉巻煙草を賞味するのが唯一の道楽であった。

 明治二十年、木村は十七歳で横須賀造船所の見習職工となったのが工場生活の振出しで横須賀では日本最終の木造軍艦武蔵および日本最初の鋼鉄軍艦愛宕の建造に従事し、次で各地を渡り歩いて二十八歳の春、初めて職工長となり三池炭坑に入った。今問題となっている三池の万田炭坑の巻きあげ機械やポンプは彼の据付けたものであった。

 日露役当時には佐世保にいて、三笠艦引揚の際には一部の職長として主としてその得意のポンプ方に廻り、引揚成功後は作業振り抜群とあって特に一等賞をもらった。神戸へ来て川崎へ入ったのは明治三十九年。学理の薀奥を極めていたわけではないが、多年の経験と綿密なる研究の結果、種々の機械の発明をした。

 彼は二個の専売特許を持っていた。その一つはスチアリング、テレモーターと言って、船の舵取装置に関する発明、今一つはテレグラフ・テレモーターで従来、船の前進後進を機関部へ通ずるために専ら鉄の棒や鎖を使っていたのを不完全だとして、グリズリンおよび水の混合液体を管に通じ、その化学的作用に作り完全に前部後部の連絡をとることに改めた。グリスリンを使用したのは冷気に会っても冷却しないためである。

 彼はまた圧搾空気鉄槌に一大改良を加えた。造船の鋲付に使用する鉄槌(俗にいう鉄砲)の内部の装置を改め、従来真空作用でやっていたのを固形油を用いてやることとし、四十八時間油をささなくてもよいようにし、槌の長さを改めて従来に比しその修繕回数や機械の燃焼を少くして打つ数を増すことの出来るようにした。大正七年夏川崎が鋲打の驚くべき記録を公表することができたのも、九千五百噸の来福丸の建造日数が世界の記録を破ったのも、間接には彼に侯つ処が多かったわけである。

 彼はまたスチーム・ハンマーのヴァルブその他を根本的に改良して、川崎をしてその石炭の消費量を一日五十斤の節約をさせた。

 なお鍛冶工場では伊木工場長その他の考案によってスタンピング(型)を多く利用するようになった結果、その工費を節約することとなり、二、三年前まで鍛冶工場の仕事が徹夜業を必要としていたのが、それ以来は徹夜をせずとも問に合うようになった。

 彼は技師のように学理は知らないが、その経験から技師でも至難とする仕事を易々と仕上げて技師を驚かすことが屡々であった。嘗で軍艦榛名建造の時、英国から二吋もある鉄を曲げるベンヂング・ローラーを購入したが、余り巨大なので技師達はその組立が出来るかどうかを危んだが、彼は十人の人夫を督してまたたく間にやり上げてしまったこともあった。

 木村の自慢話は若干割引を要したが、聞いていで楽しいものがあった。しかし彼の洋行赤毛布ものがたりはさらにおもしろい。それはいささかY談がかってもいるからである。

 木村が川崎造船所から派遣され、ロンドンに滞在中のはなしだ。ある夜、外人の家庭の音楽会によばれた。本村はもちろん音楽の素養もないので、ただ美しい金髪美人が朱唇をほころばせて歌うのや、白魚のような指がピアノのキーからキーヘ稲妻のように走るのに見恍れていた。ややあって、その家の娘さんから「ミストル・木村、日本の歌を唄ってきかして下さいな是非」とせがまれて、彼は機械のタイヤーが外れた時のようにびっくり仰天した。

 彼は歌らしい歌を一つも知らなかった。彼は今さらのように、都々逸の一つ位は教わっておけばよかったと後悔した。しかしそれはその場の間に合わない。令嬢の要求は性急である。彼は致し方なしにピアノの前に立たされ、そして唄い出した。勿論、外人にはその歌の何たるやがわかるはずはない。歌い終ると、やんやという拍手だ。

 彼は真赤になって椅子にかえり、俯向いたまましばらくは顔もあげえなかった。彼の唄った歌とは「もしもしお竹さん」というわいせつな歌であったからだ。
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