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村島帰之「労働運動昔ばなし(『労働研究』連載:第7回)

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「増田製粉所の入り口」(今日のブログ「番町出合いの家」http://plaza.rakuten.co.jp/40223/)


   村島帰之「労働運動昔ばなし

     『労働研究』(第149号)1960年7月号連載分

     第七回 「死線を越えて」の裏話
        ―賀川豊彦追想録―

  
  神戸の生んだ異彩

 世界の人・賀川豊彦氏は去る4月23日夜、71才をもって天に凱旋した。確かに氏は世界的な存在であった。しかし同時に氏は神戸の人であったことも忘れてはならない。

 賀川氏は神戸市兵庫島上町に生れた神戸ッ子である。幼にして父母に先立たれたため生れ故郷の神戸を去って徳島の義母の許に引きとられた。

 氏は妾腹の子であった。なさぬ仲の義母の下で育った少年時代は決してたのしいものではなかった。中学を卒えると上京して明治学院神学部に入学したが後、神戸神学校が創立されるのと一しょに再び生れ故郷の神戸に帰り、学業の余暇、神戸葺合新川部落で、貧民窟伝道を始めた。

 そして前後9年8ヵ月にわたって貧民窟の中に住みこみ、貧しい人々の霊肉の救いのために献身し、また大正7年頃からは友愛会の労働組合運動に関与したことはあまりにも有名である。

 特に大正10年の神戸大争議では指導者の1人として活躍し、賀川豊彦の名はにわかに天下に知れわたり、海外にも紹介され、またたびたび世界各地から招かれて世界を家とする伝道旅行がなされてその名声は世界的となった。

 米国ではハイスクールの副読本に「カガワ・イン・スラム」の一章が掲載され、またロサンゼルスの郊外には「カガワ・ストリート」という町まであって、先年筆者は賀川氏と一しょにを訪れた。

 「4銭を超えて5銭」

 このように賀川氏が世界的に有名になったのは氏の信仰や学識やそれにもまして、貧しき者、病める者、悩める者に対する献身と全生全霊を投げ出したキリストの実践にあったことはいうまでもないが、広くその在生を知らしめる直接の動機となっだのは氏の処女作、小説「死線を越えて」であったといえよう。

 戦時中の話だが、出征軍人に送る千人針の布片に5銭白銅を結びつけて「死線(4銭)を越えて無事凱旋するように」と縁起をかついだり、またその頃の福引に「死線を越えて」というのを引当てると、「死線(4銭)を越えたのだから5銭です」といって5銭白銅1枚をくれたりした。いかに「死線を越えて」が広く読まれたかはこれでも判るだろう。

 ではなぜ「死線を越えて」はそんなに売れたのか。それは作者の神戸葺合新川部落における祈りと愛の奉仕の驚くべき貧民窟生活がなまなましく描き出されていたからである。

 ゴロツキや売春婦や不良少年や貰い子殺しやアル中毒の人たちと共に住んで、時にはドスで脅迫され、ゲンコでなぐられながら、なお貧しい人たちのための奉仕をやめようとしなかった活きた信仰の実録が、読者の心を動かしたのである。

 そして多くの純真な青年男女が貧民窟に賀川氏を訪ねて、あるいは奉仕を申し出で、あるいは求道者となった。戦後に大臣となった水谷長三郎氏やマスコミの大スター大宅壮一氏などもその一人で、両氏とも神戸の貧民窟の寒々とした説教所で賀川氏からキリストの弟子となる洗礼の式をしてもらった。

 勿論「死線を越えて」が出る前から、賀川氏の名はぼちぼち新聞や雑誌にのっていた。新聞で最も早く賀川氏の真価を知り、紙上で屡々同氏の働きを紹介し、またその寄稿をのせだのは大阪毎日新聞であった。

 雑誌で最も早く賀川氏をとらえたのは「日本評論」であった。しかし、「日本評論」雑誌が小さかったため一部に知られたに止った。賀川氏を最も有名にしたのは、何といっても「改造」である。

 その頃の「改造]の編集長は横関愛造氏だった。そして横関氏と賀川氏の橋渡しをしたのは、かくいう筆者でめった。

 確か大正7年の末頃だったと思う。機関編集長から「神戸に賀川という変った学者がいるそうだが、もし君が知っているのだったら、改造に何か書いてもらってくれ」という手紙が来たので、賀川氏に話したのが、賀川氏と改造とを結ぶそもそもの初めであった。

 間もなく「改造」の社長の山本実彦氏が西下して賀川氏を新川に訪ねた。山本社長は、賀川氏のスラムの事業に深い感銘を覚えだ。そして、話しあっているうち、賀川氏の古い小説を「改造」にのせる相談がまとまった。それが「死線を越えて」で、一部分は「改造」にのったが、中途から「改造」へ掲げるのを中止し単行本にして出版したところ、日本の出版界始って以来の売行きを示し、賀川の名は律々浦々にまで聞えるようになった。

 「死線」を越えての出る前

 私はこの小説が「改造」に載る以前、その原稿を葺合新川の氏の宅で見たことかあった。罫も何もないロール半紙に、天地左右の余白もあけず、ぎっしりと詰めて、毛筆で書いた原稿を示された時、実をいうと、4、5枚読んだだけでウンザリした。

 この部分は、氏が貧民窟に入る遥か前、三河蒲郡の海岸で、呼吸器病の療養をしていた頃書出したもので、氏の文学青年時代の平凡な恋愛小説である。氏はこれを明冶学院の先輩である島崎藤村に閲読を乞うたことがあったが、藤村は丁寧に一覧した後、「これは後になってあなたの大切な記録となるでしょうから、大事にしてしまって置きなさい」と評して返された。藤村のその書信を氏は序文のつもりで、原稿の最初の頁に綴込んでいたが、スラムに入ってから、誰が涕をかんだのか紛失したーと、私に語った。

 小説は、その後、氏の血のにじむやうなスラムにおける体験を附け足すことによって、後世に残る大作品となった。「改造」に「死線を越えて」と題して掲載された最初の部分は前記の時のものそのままであったが、後半は中途から洗練された筆で新しく補足された貴重なスラムのルポルタージュであった。


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 改造社で、「死線を越えて」を単行本として出版する議の起った時、私は前記横関氏から相談を受けた。私は迚ても売れるしろものではないと思ったのでその旨返事をした。横関氏から折返し手紙が来た。それには「君の返事の来るのが遅かったので、山本社長の言う儘、兎に角出版することとした。僕も些か不安だ」と記されてあった。

 「死線を越えて」が本になって世の中に出だ。氏としてはそれ以前に「イエス伝論争史」とか、「貧民心理の研究」とか、その他宗教書や少年向読物などの著書はあったが文学書特に小説としてはこれが最初のものだった。

 その頃、世間の一部では、頭脳の秀れた学者としての氏の価値を認め初めてはいたが、文学方面の作者としての氏を認めるものなどは全くなく、従って書物の売行も香しくはなかったが、出版者は思いきって広告をして見ようということになった。山本社長の賀川心酔がそうさせたのである。

 そこで半頁大の新聞広告を出し1頁大のをさえ出した。半頁1頁の広告は、その当時にあっては珍しく、広告料単価の低廉の売薬以外に、そんな大広告をする向はなかった。1行の広告料は60銭ぐらいであったが、1段140行として半頁-6段の広告料は600円であった。その半頁広告を一新聞に一度だけでなしに、何回も繰返して一流新聞の凡べてに掲載しだのだから、宣伝費は何万円一今日なら何千方円一という巨額に上った。

 こう油をかけられては、つい釣られて読むようになるのは人情で「死線を越えて」は売れて行った。昭和9年10月に初版を出したのがわずか3ヵ月で3万部を売りつくし、10年1月に入って此度は思いきって5万部を増刷した。

 そこえ、降ってわいたごとく神戸の大労働争議が勃発した。「死線を越えて」の初版刊行後8ヵ月目の大正10年6月12日の事である。

 神戸川崎、三菱両造船所2万6千の労働者は大罷業を起した。指揮者は野倉万治氏でこれを助ける参謀がほかならぬ賀川豊彦その人である。そして大示威運動の余威は遂に警官と乱闘を演じ抜剣騒ぎから職工側に死人をさえ出して、賀川氏らは警察に引致され、短時日ではあったが、囹圄の身となった。賀川氏は忽ちにして「新時代の英雄」となった。

 「死線を越えて」の出版者が、これを看過する筈はなかった。神戸に大争議のリーダー賀川の血を以て綴った小説を読まずして、新時代を語る資格はないと許り、連日、デカデカと新聞の半頁を越える大広告の連発である。世間はおツ魂げてしまった。そして「死線を越えて」を読まねば恥のように考えて、人々は争ってこの本を手にした。

 舞台に上った「死線」

 小説の売行の素晴しいのを見て、これを舞台化する者も出て来た。争議の済んだ3ヵ月後の12月に東京では伊井蓉峰、関西では少し遅れて沢田正二郎及び生命座の連中がこれを上演した。

 神戸の中央劇場で沢田が「死線を越えて」を上演した際には、新川の貧民窟のゴロツキ連も、噂を聞いて見に行った。そして自分達らしい人物が舞台に活躍しているのを見て、早速尻をまくって賀川の前に坐り込んだ。

 「先生、あんたはわし等の事を小説に書いて、百両(彼等は百両を最も大きい金額と心得えていたらしい)も儲けたというやないか、割前を出せッ」と脅迫し、はては短刀を閃かして賀川及び夫人を追いまわし、春子夫人は彼等の鉄拳を頭上に受けて負傷するという騒ぎさえあった。

 私は葺合新川のスラムには、氏の案内で度々足を踏入れ、氏が9年8ヵ月の永きに亘って住んだ二畳敷をも知ってはいたが(そして、貧民の特有な心理は、「死線を越えて」以上の氏の名著「貧民心理の研究」に依って教えられてはいたが)小説を通じて、氏の忍従と苦闘との記録を読むことによって、感激は更らに一層切実なるものとなった。私は「死線を越えて」の原稿時代、はじめの部分を数枚だけ読んで「なんだ、つまらない」と投げてしまった自分の不明を恥じた。

 「死線を越えて」が150版を刷った時、氏は時勢の駸運に伴い、或る種の文字を削除したいと思立った。そして、私は氏から頼まれて、全巻を改めて目を通し若干の添削をした。往年、この本は売れまいと予言した私がである。私は朱を入れ乍ら微苦笑を禁じ得なかった。

 「死線を越えて」は誰知らぬ者とてはないほどに普及した。「賀川豊彦」の名も、今は天下に隠れもない普遍的な名となった。そして「死線を越えて」のおかげで、見るもいぶせき葺合新川部落も一躍して、日本の一新名所となった。しかし皮肉なことには、「死線を越えて」で名高くなった新川の密集地帯は、「死線を越えて」によって破壊される運命を辿った。というのは、政府はこの書物に刺戟されて、六大都市の不良住宅の改善を断行することとなり、遂に賀川氏の思い出深い二畳敬を始め新川部落が殆んど痕跡をとどめないばかりに取り払われたからである。

 「死線」執筆の動機     

 こうして一世を風靡した「死線を越えて」を賀川が書いた動機について自ら某誌に書いていたのを転載して見よう。

 「死線を越えて」を書いた動機を話せとのお言葉ですが? 明治40年の5月だったと思います一一私か肺病で明石の病院から三河浦郡の漁師の離れに移った頃、独りぼっちで余り淋しいものですから、私は小説を毎日書綴ったのでした。誰も訪ねてくれる人もなし、知っている人というのは村には誰もないものですから、幻の中で過去の人間を小説として想い浮べてみたのです。

 そうでした、その前の年だったと記憶します。私は小説が書きたかったので、古雑誌の上に小説を書きなぐった事がありました。余り貧乏で原稿用紙が買えなかったものですから、古雑誌の上に書いたのです。

 私が小説を書きたかった理由は、私の小さい胸に過去の悲しい経験が、余りに深刻に響いたことと、私か宗教的になって行くことに依って非常に気持ちが変って来たことを、どうしても小説体に書きたかったからです。

 書上げた小説を、私は島崎藤村先生に一度見て頂いた事がありました。すると先生は丁寧な手紙を添えて、数年間筐底に横たえて自分がよく判るようになってから世間に発表せよといわれたのでした。

 その後肺病はだんだん良くなって、私は貧民窟に入りました。それから13年たちました。13年目に改造社の山本実彦氏が貧民窟の私の事務所にやって来られてその小説を出そうじやないかといわれたので、私は、「死線を越えて」上巻の後3分の1を新しく書き加えたのでした。

 その時、前3分の2の文章が余りにごつごつして居てまずいと思ったのですが、妙なものでして、一つ直そうと思えば、全部直さなければならなくなるし、13年度後の私の筆は、余程昔よりは上手になっているようでしたけれども、何だか血を喀いた頃に書いた物は、私の気持が最も真面目に出ているものですから、私は文章より気持ちを取りたいと思って、文章のまずいことを全く見脱すことにして、厳粛な血を喀いた時の気持ちを全部保有することにしたのでした。

 その為に「死線を越えて」上巻の前半には実にごつごつした所もありますが、加筆を許さない強い調子がのこっていることも、また事実であります。

 モデルの事ですか?それは困りましたね。私の周囲の人に聞いて下さい。私は私の心の生活をあれに書こうとした時にモデルに就いてはいえない多ぐの事情があるのです。

 有島武郎がいっていた様に小説は小説であるけれども、事実以上の真実さがあるものです。私も有島君の流儀で、この辺りは赦して頂きましょう。

 私は、あの小説が必ずしも成功した小説だとは思いません。それが雑誌「改造」に出た時に、余りまずいので自分ながらはらはらしました。ですから本になった時にあんなによく売れたのを、自分乍らも吃驚したのでした。ですけれども今になって考えてみますと、読者は矢張り私か最初考えた通り、まずい文章を見脱してくれて、私か書こうと思った心の歴史一一詰り心持ちの変り方一一一を全体として読んで呉れたのだと思って感謝しているのです。

 最初の原稿料1千円

 「死線を越えて」が出版された当初、賀川氏が受取った稿料は1千円也であった。あれだけの売行を見せた「死線を越えて」の印税としては千円は余りにも少いと思う読者が多いだろう。

 しかし、原稿を受け渡しする時には、著者も出版者も、まさかそれほどの売行を見ようとは考えなかったため、千円でも多過ぎる位に思ったのである。しかし、3万5万と売れて行くのを見て、出版者山本社長は自分独りが儲けては相済まぬといって、(あとを書かせようというコンタンの方が大きかったかもしれない)改めて印税の契約を作り、定価1割の印税を支払うこととした。

 印税となると、本の売れる限り、賀川氏のポケットはわき出る泉のように金がはいった。その尽きざる黄金の泉は、多く貧しき人々をうるほし、各方面の社会運動を助けた。

 「死線を越えて」は上篇だけで350版という驚威的売行を見せ、10年12月には中篇「太陽を射るもの」が刊行された。これは賀川が大正10年7月神戸の争議で橘分監に収監された折、破格の待遇とあって特に支給された蚊帳の中で書始めたもので、たちまち200版を重ねた。「太陽を射るもの」に続いて下篇「壁の聲きく時」が出て200版を重ねた。これは神戸の争議当時のことが記されていて、私も「新聞記者島村帰之」の名で登場している。

 この上中下三篇の小説は合せて500版50万部を売りつくし約15万円(今の貨幣価値に換算すると約5千万円)という少からぬ印税が這入ったが、賀川はそれを私する事なく先ずその中の1万5千円を割いて神戸新川部落救療事業友愛救済所に投じその事業を財団法人組織とする事とした。

 友愛救済所は賀川が貧民窟生活10年の尊い経験から、霊の救いと同時に肉体の救療の必要を痛感し、大正7年以来経営していたもので1ヵ年の救療延人員6~7千人にも及んだが、費用のかさむ一方において寄附金も少く、賀川自身の収入も少なかったため、「死線を越えて」の出る直前一一大正8年の初め頃には薬の代金にすら事をかき、暫くではあったが診療所を休業した事さえあった。この苦い経験から救済所を財団法人組織にしたのであった。

 社会運動のドル箱

 神戸の争議の後始末にも約3万5千円が「死線」の印税から支払われた。120名を越えた収監者の差入れの費用に充てられ、また首魁と看倣された野倉万治氏に対しては、その下獄中、家族の生活費として月々100円づつを贈っていたのを筆者は知っている。

 鉱山労働の運動に対しても、5千円内外の金を注ぎ込んでいたことは、浅原健三氏の書いたものの中に現れている。また大正10年10月、杉山元治郎氏を引張って来て日本農民組合を創立した時にも、その創立に要した費用は全部賀川が印税収入から支弁した。

 杉山氏を始め幹部の俸給の如きも賀川氏が永い間負担していた。その総額は少くとも2万円には上っていよう。

 11年6月に大阪労働学校を筆者や西尾末広氏が中心となって創立した時も賀川氏は5千円という金を惜しげもなぐ投げ出してくれた。この外、消費組合その他の運動のためにも金は消えた。

 こうして小説「死線を越えて」は、かなり久しい間、日本の社会運動の金穴を勤めたもので、賀川の印税収入の減少した後までも、「賀川の処へ行けば金を作ってくれる」と考えて、金策を申込む向が随分多かったものである。

 もし賀川家の家計簿を公開する機会があったとしたら、労働組合や無産党や、時には予想外の方面に、賀川氏のポケットマネーが出ていた事を発見するに違いない。

 筆者の知人に金倉という篤信の婦人があって、その夫君は十五銀行の神戸支店長を勤めていたが、その話に、「死線を越えて」の出た頃、賀川氏の預金は一時に何千円という多額が這入るが、利子のつくほどの日数を預けている事は殆んど稀れで、直ぐゴソッと引出される。問もなく叉大金が預けられるが、それもまたたくうちにすっからかんになって、賀川氏の口座は大金が動くのにも拘らず、それが銀行に止っている期日は極めて僅少であった――という事であった。

 なければないで、またあればあるで、出し渋るのが金てあるが、賀川氏の如く、自ら文字通り1枚の衣を着粗食を食べて、這入っただけの金を惜しげもなく貧しき人々や社会運動に払出した人物は少ない。


(編集室) 因みに、賀川豊彦氏(日本基督教団牧師・神戸市教育委員)については、この労働運動昔ばなしに毎回のように見られたところであるが、惜しくも去る4月23日午後9時13分、東京都世田谷区上北沢3の863の自宅で心筋こうそくのため死去。71才。なお氏は大正5年米国プリンストン大学神学科卒。欧米に講演旅行すること数回、国際的に名を知られ、カナダのパインヒル大学神学博士、米国クユカ大文学博士を受け、1956年度ノーベル賞の候補にあげられた。昭和21年貴族院議員に勅選され、東久兼宮内閣顧問。その後全国農民組合組合長、同志社大学教授、社会党顧問、中央児童福祉審議会委員をへて神戸市教育委員のほか日本生活協同組合連合会長、社会福祉法人イエス団、雲柱社各理事長、世界連邦建設同盟副総裁。 

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