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村島帰之「労働運動昔ばなし」(『労働研究』連載:第8回)

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「寒中散歩<兵庫運河>」(今日のブログ「番町出合いの家」http://plaza.rakuten.co.jp/40223/)



  村島帰之「労働運動昔ばなし

     『労働研究』(第153号)1960年11月号連載分

   第八回 大正八年という年
    ―弾圧と風刺する演説入りラッパ節―


  ロシア革命の余波

 大正6年11月、ロシア革命が成就し、また国内では翌7年8月、米騒動が日本の各地に連鎖反応を起して続発し、8年には吉野作造博士によるデモクラシー(民主主義とはいわず、民本主義といった)の提唱があって、日本の社会運動はこれを転期として一大進展を見せた。

 特にロシア革命の影響はただに社会主義運動だけにとどまらず、労働運動にも大きな波紋を投げ、マルクスやレーニンの名が親しみをもって労働者の口にのぼるようになった。進歩的な思想をもった組織労働者はこう唄った。

 「アジアにつづく北欧のロシアの民を君見ずや専制の雲切りひらき自由の光仰がんと…」

 そして革命の翌年、ロシアが飢饉に襲われて労働者たちが苦しんでいると聞くと義損金を送ろうということになり、ハガキ倍大ぐらい楕円形の偏平な石膏にマルクスまたはレーニン肖像と「万国の労働者結束せよ」という共産党宣言の有名な末尾の言葉を浮彫りにした壁掛けを作り、1箇50銭で売った。京阪神の組織労働者は喜んでこれを買った。

 こうしてロシアの赤い嵐は大正7年以降日本の社会運動の中に吹込んで来たが、台風がまっ先きに吹き荒れたのは箱根から東で、関西は台風の圏外にあった。(その関西もその後神戸を中心にして台風に巻きこまれた)その証拠には9年に「社会主義同盟」が東京で結成されたが、その際も東京の労働組合の信友会、正進会、交通労働、鉱夫総同盟等と一しょに友愛会の関東同盟もこれに参加し、個人として友愛会の麻生久、赤松克麿氏らが参加したが、関西の友愛会はこれに加わらず、賀川豊彦氏をはじめ関西のリーダーたちも1人としてこれに参加する者がなかった。

 そういうわけで、箱根を境として、東西の労働組合の運動方針には可成りの隔たりがあった。東のリーダーは西の労働組合を指して「彼らには思想がない」と罵り、西のリーダ-たちは「東の連中は足が地に着いていない」と批判した。西は現実派だったのである。

 では、関西の労働運動家たちは一体どんなことを考え、またどういう方向に進もうとしていたのだろうか。 

 関西の組合運動の目標 

 今から40年前の関西の労働組合員が、どういうことを目標にして進んでいたかを説明するに好箇の一つのアンケートがある。それは大正7年末に大阪および神戸の友愛会によって調査されたもので「大正8年中に労働組合として達成したいと思うことは何か」というアンケートであった。

 回答数はわずか84であるが、さきに掲げた大正6年の清野知事時代の天下りの調査とは違って、労働組合が自主的に行なったものだけに信憑性がある。回答は労働条件の改善と、労働権の確立とそして友愛会自体の改善の3項にわかれ、その中には今日では既に実施され、憲法で認められているもの、例えば選挙法の改正(普通選挙の実施)とか、団結権の公認とかいったものものも含まれていて、もはや過去のものとなっている事項が多いのだが、今から40年前の関西の労働組合員が抱いていた組合運動の目標がどんなものであったか、を知るには最も適当していると思うので集計の全文を下に掲げることとする。

A 労働条件に関するもの           14
  1. 労働時間の短縮    9
    残業の全廃 2  ▲10時間労働制の実行 2
    ▲時間労働制の実行2 ▲日曜を休みに 1
    ▲単に労働時間の短縮2
  2.労働賃銀の改正             5
    最低賃銀の制定3 ▲残業を廃し日給2円以上 1
    ▲安らかに生活出来るよう 1
B 労働者の権利に関するもの 22
   1 労働組合の公認 14
   2 治安警察法(特に17条)の廃止 5
   3 選挙法の改正 3
C 労働運動に関するもの 26
  1 労働会館の設置 17
  2 労働組合の基本金設定 4
  3 全国労働者全部を労働組合に加盟せしめん 2
  4 友愛会員の増加 3
D 友愛会の改善に関するもの 19
  1 機関新聞の日刊 6
  2 機関新聞 週刊 5
  3 機関新聞 月2回発行 3
  4 入事相談所設置 1
  5 労働倶楽部設置 1
  6 代理部の設置 1
  7 婦入部の設置 1
  8 事務所の独立 1
E そ  の  他 3
  1  職業紹介所設置 1
  2 職工住宅設置 1
  3  官費労働者講習所設置 1
 
    計   84

友愛会の1万人運動

 まず労働条件ではまだ10時間労働制の実施を望んでいる者が多く、8時間制を望む者と同数あることを指摘せねばならない。つまり当時は12時間近くの労働を強制されていて、8時間制はまだ夢だったのである。その意味からいって、大正8年の川崎造船所がサボタージュの後、たとえ名目だけでも8時間労働を獲得したことは意義が深い。

 賃金問題では残業なしで日給2円以上(月に直せば50円程度)といっているのも、今から見るとむしろほほえましいではないか。

 労働組合の公認を求める者の多いのは注目に値いしよう。団結権や争議権もなく労働運動を事実上禁じていた治安警察法第17条の廃止を要求する者と合算すると20名に近い。後に記すように大正8、9、10年に各地で頻発した争議の大部分がこの要求をかかげているのもそのためである。

 労働組合運動自体に関する事項では労働会館を持ちたいという希望が一ばん多いが、これはまだ独立の事務所さえ持たず、大阪連合会は2階に西尾末広氏の親戚の者が住み階下の2間だけの事務所、神戸連合会もお妾横町の2階借というさもしい住いとあってみれば当然の欲求であったといえよう。

 友愛会員の増加を希望するのは恐らく全員の声だったと思われる。大正7年から8年へかけての関西の友愛会の発展の跡を見ると

 大正6年5月  神戸連合会結成(7年1月久留弘三主務就任)      
         大阪連合会結成(7年2月西尾末広主務就任)     
   7年     神戸葺合支部結成(支部長賀川豊彦)       
    8年    神戸尻池支部結成(支部長村島帰之)         
      4月  関西同盟会結成    

 組合員数は大阪、神戸連合会がそれぞれ3、000を越え、京都を加えても8,000には達していなかった。それで久留弘三氏が友愛会関西出張所主任兼神戸連合会主務に就任してまず最初に着手したのは会員の獲得で、会員1万人を目標にしてPRに努力した。久留氏らはこれを「1万人運動」と称し、にわか雨の時に組合員に貸すため番傘を作り、傘一面に「友愛会員1万人運動」と大書した。わたしもその1本をもらったが、ちょっと気がひけてさず勇気がなく、他の労働運動の資料と共に大原社会問題研究所に寄附したが、今はどうなっていることだろう。

 大正8年来る

 「大正8年に労働組合員は何をしたいか」というアンケートさえとられたほど期待されていた大正8年が来た。その年頭の運動はアンケートにも強く要請されていた労働組合公認期成運動であった。即ち1月16日、株屋岩本栄之助氏が100万円の巨費で建てて市へ寄附した大阪中央公会堂で組合公認要求の演説会が京、阪、神の3連合主催の下に開かれ、聴衆2、500、今井、岡村両博士や賀川氏が出演し、当夜の決議文は賀川氏が携えて上京した。つづいて3月1日には友愛会関西出張所が音頭をとって治警17条撤廃請願運動を起し、管下11支部の会員の調印を求め、東京本部のと合せてこれを今井嘉幸代議士に託し衆議院に請願し、次で15日には中央公会堂で講演会を開催、賀川氏及び松村敏夫氏等が出演した。

 上の二つの運動を手始めとして、大正8年一杯は(年末議会シーズンに入って普選運動を開始するまでは)組合公認と治安警察法撤廃の2目的に向っての集中射撃であった。

 大正8年中、各地で催された演説会に於ける主要目標は殆んどこの2問題に限られた感があった。賀川氏らは引張凧の有様で、筆者の如きでさえ、同じ話をするのが気がひけて、いろいろと草案を作り直すのに苦心したほどだ。

 この2大問題が労働者を吸引し、また外では万国会議が進捗して、8時間労働その他の労働原則が討議せられたことが間接に労働階級の刺激となり、組合は次第に膨れて行った。

 こういうように運動が活発に推進され、また神戸、大阪、京都その他の支部が次第に発展して行くにつれ、これら、関西各地の友愛会員の連絡統一を図るため、関西同盟会を組織することとなり4月13日その創立大会を豊崎町の相生楼で開いた。そして会長には神戸川崎造船所の木村錠吉氏、副会長には大阪住吉伸銅所の成瀬善三氏及び京都奥村電機の井上末次郎氏、理事には賀川豊彦氏を始め久留弘三、高山義三、村島帰之のインテリ指導者も選ばれ、理事長には賀川氏が当選した。同創立大会の公開演説会には、鈴木会長のヴェルサイユ万国会議出張中の留守会長北沢新次郎氏(早大教授)および村島帰之が出演した。

 賀川理事長の指導精神

 関西同盟会は木村氏を正大将とし、賀川氏を参謀大将として雄々しく立上ったが、同会はどういう風に針路を定めたか。

 いうまでもなく、同盟のリーダーシップは賀川氏の手中にあった。従って賀川氏の指導精神が即ち関西同盟の方針となるのだった。創立大会についで4月20、中央公会堂で記念大会が催されて、賀川氏起草の宣言が可決された。これこそ、関西労働組合の針路を示すもので、同時に、着実穏健で余りにも宗教的だといわれた賀川氏の指導精神を窺い知るものであった。

 この穏健なる指導精神は、その後、永く関西の労働運動を支配した。そしてともすれば矯激に走ろうとする関東のそれに対し、一つの大きなローカル・カラーともいうべき特色を示した。少し長文だが、関西労働運動の当時の指導精神を知るためにその全文を掲げる。賀川氏の面目を伺うに足ると思った節々を示したつもりである。

     
          主   張                (原文のまま)

 我等は生産者である。創造者である。労作者である。我等は鋳物師である。我等は世界を鋳直すのだ。又我等は鉄槌を持って居る。我等に内住する聖き理想と、正義と、愛と、信仰の祝福に添はざるものがあれば、我等はその地金がさめざる中にそめ槌を打ちおろすのだ。我等は意志と、筋肉と鉄槌と、鞴を持って居る。我等は内住の理想を持って宇宙を 改造することが出来る。

 我等はこの精神を持って如斯宣言す。労力は一個の商品でないと。資本主義文化は賃銀鉄則と、機械の圧迫により、労働者を一個の商品として、社会の最下層に沈倫させてしまった。故に我等は労働組合の自由と、生活権と労働権と、集合契約権と、正義に基く同盟罷業の権利を主張し、治安警察法第17条の撤廃と現行工場法の改正を要求す。

 我等は8時間労働制の採用と、最低賃銀の制定を凡ての労働組織に要求す。即ち工場作業にも、家庭に於ける内職作業に対しても同様に最低賃銀の制定を要求するのである。殊に今日労働者の家庭に行はれつつある内職工業なるものはその悲惨言語に絶ししている。

 我等は速かにその改良を要望す。

 我等は労働者の災害に際する賠償法の制定と、労働者に対する廃疾災害、失業、疾病、養老保険の確定を要求す。

 又工場の民主的組織と、その立憲的経営を当然の要求と信ずるものである。我等はかくして資本主義文化の疾患である恐慌と失業に備へ労働市場の悪風を打破し、労力の掠奪者と、中間商人の横暴を排し、労働者自身が欺かれて、契約労働の苦役につきつつある今日の惨状より自らを救済せんとするのである。                   、’
 更に、我等は日本に於ける工業界の特殊現象として、工場内に於ける女子の勤労の多大なるを思ふ故に、同一労働に従事する男女労働者の同一賃銀を要求し、彼等の苦悩の削減せられんことを祈る。

 我等はまた日本の都市に於ける今日の労働者の住宅は全く人間の住むに適せざることを声明し、その住宅の改良を世界に訴へんとす。

 又我等は労働者自身の向上の為めに補習教育、徒弟教育、また労働者の社会教育を普及せん為めに、政府当局が適置をせられんことを希望し、将来は労働者の子弟と雖も、資本家の子弟の如く経済的東縛なくして、自由に大学に入学し得る設備の与へられんことを要求す。

 斯の如き要求は、生産者がなす可き正当の権であって我等が、一個の人格であり、自主である以上、決して市募に於ける一商品で無いと世界に向って告ぐるに必要なる条件である。

 我等は決して成功を急ぐものでない、我等は凡ての革命と暴動と煽動過激主義思想を否定す。我等はただ自己の生産的能力を理性に信頼して確乎なる建設と創造の道を歩まんとするものである。時代は変るであろう、流行を追ふことの好きな日本人は昨日は帝国主義を送り、今日デモクラシーを迎へ、明日はまた人種的偏見に煩はされて、我等労働者の自覚に一顧だに与へ無いであろう。然し我等は既に一歩を踏み出した。この道は決して変るものでは無い。我等は生産者の外に世界に文明を教へ得るものの無いことを知って居るから消費階級の遊戯的文明と、それによる此度の破産を嗤ひ凡ての迷妄と破壊に反対し戦後に於ける世界の改造と建設はただ我等生産者のみによって為し得べきこととかくして叡智の太陽を仰ぐ日の近きを世界に宣言するものである。

  大正8年4月20日


 「内住する聖き理想」といい、「愛と信仰」といい、さらに「内住の理想を以て宇宙を改造することが出来る」と説くところ、そして、「革命と暴動と煽動過激主義思想を否定」するところ、宗教詩人賀川氏が労働運動に望むところが明瞭に窺われるではないか。       

  この指導精神は、やがて1両年を経て、関東側の指導精神と正面衝突を演ぜしめる結果となったのは当然の事だった。関西の労働運動者はこの賀川氏の説を支持して、現実的行き方を続けた。                 
 賀川氏は押しも押されもせぬ関西労働運動の名実共になる指導者となった。まだ「死線を越えて」の出版以前とて、一般大衆にその名を知られるまでには至らなかったが、苛くも組織を持つ労働者で賀川の名を知らぬ者は少なかった。               

 神戸連合会の機関誌「新神戸」は、関西同盟の結成と共に改題して「労働者新聞」となり、巻頭論文は主として賀川氏が執筆し、屡々発売禁止の厄に逢った。過激思想というのではなく、氏の宗教詩人らしい煽動的な文章が当局の忌避に触れたのである。

 賀川氏はこのため数次にわたって起訴された。その時、弁護士高山義三氏(現京都市長)が専ら弁護に当ったが、賀川氏が「弁護料はいくら払ったらいいか」と聞いたところ、高山氏は「現在及び将来にわたってあなたの著書をもらいたい」と答えた。賀川氏はその頃までにはまだ数冊の著書しか出していないので気安く承諾した。しかしその後賀川氏は数百冊という著書を出したが、高山氏との約束を守って著書を送ったという話は一向聞いでいない。とすると、賀川氏は高山弁護士に対し不渡手形を出したことになる。

 労働運動弾圧の強化

 神戸をはじめ各地の労働運動の発展を見る一方、使用者側や官憲の労働運動に対する弾圧は次第に強化されて来た。この弾圧は大正7年の米騒動直後から始められ、大正8年以降に至っていよいよピッチをあげた。

 米騒動のあった大正7年8月には1ヵ月間だけで全国に102件という争議が起った。日本開びゃく以来のことで使用者側も官憲も大いに驚き、今のうちに組合をヒネリつぶさねば一一と弾圧をかけた。中小工場では組合に入っているというだけでイビリ出し、ビラを貼ったから、高等刑事が来て困るから、というだけで解雇した。

 会社が圧力をかける一方、官憲は官憲で行政執行法及び治安警察法という伝家の宝刀を適用して少しでもクサイ連中は片っぱしから検束したり、検挙したりした。

 行政執行法の第1条には、暴行の惧れある者は検束して24時間以内を限りこれを警察に留置することができると規定され、取締当局にとってはこれほど重宝な法律はなかった。たとえ仏さまのような人でも急にのぼせて乱暴するかも知れないのだから「暴行の惧れあり」として検束することができたのである。

 だから当時は演説会やデモ行進にはいつも検束はつきもので、メーデーの大行進の際など、これと目星をつけた注意人物はたとえ固くスクラムを組んでいてもカーブにさしかかった時に一気に列外ヘスクラムのまま突き出して検束した。これを「ごほう抜き」といっていた。

 また「たらい廻し」といって、24時間で検束時問がきれると、一旦その警察署を釈放し、すぐ次の警察へ新たに検束して何日も留置するという巧妙なやり方をした。戦前の労働運動家で一度も検束された経験のなかったという者はマヤカシ者だったといってよいであろう。

 治安警察法17条

 さらにこれが争議ともなると、こんどは治安警察法がモノをいった。「労務を停廃せしむる目的を以て他人を煽動し誘惑した者」は禁緬2ヵ月以下に処するという争議弾圧法だった。

 大正3年から12年までの10年間に全国で治警法17条により検挙された者は1、026名を数えた。また争議が暴動化した場合はすぐ騒擾罪で罰せられた。大正3年から13年までに2、700人がこれで検挙され、そのリーダーは「首魁」として2年内外の懲役に処せられた。

 大正10年の神戸の大争議では170名からの検挙者を出し、未決監は満員で賀川氏は特に女囚の監房に入れられたが、賀川氏ほか100名は不起訴となり、56名が起訴され、中でもリーダーの野倉万治氏は首魁として2年半の懲役に処せられた。

 先般のあの激しい国会デモでも騒擾罪は適用されなかったのと比べて、当時の弾圧の如何に甚しかったかが判るだろう。

 演説会の取締りも厳重をきわめた。演壇の脇には金ビカの制服を着た警部が「臨監」として出席し、言論が少しでも過激にわたると臨監が認めた際は、はじめは「注意!」と叫ぶ。そこで弁士は論鋒をゆるめるか、話題を変えるかしなければならないのだが、もし「注意」を無視してさらに調子をあげて行くと、臨監はサーべルで床をたたきながら「弁士中止!」と宣告する。そうすれば弁士は演説を中止して降壇せねばならなかった。

 少しあとの事だが、政治研究会神戸支部が結成された時(この時、河上丈太郎氏が支部長となり、はじめて政治運動に足を踏人れた)東京から大山郁夫氏らが来神して神港クラブで演説会を開いた。私は神戸の病院に入院していたが、ひそかに抜け出して行き犬山氏の前座をつとめた。その時、私か登壇して開口一番「ソ連に居る片山潜が‥…」といっただけで忽ち「弁士中止」をくらったことかあった。

 また播州加古川の毛織工の演説会では森戸辰男氏が「芦屋にはラジオのアンテナが林立している」といっただけで中止となった。主催者側は森戸氏にタップリやってもらう考えでいたのに登壇したばかりで中止となって戸惑った。聴衆はその頃続々とつめかけて来ていたのでこれで閉会というわけには行かない。そこでやむなく既に前座をつとめて休息していたわたしにもう一度何か話してほしいと頼まれて登壇したが、こんどは臨監も遠慮してか中止は命じなかった。

 「片山潜」や「芦屋のアンテナ」が治安を斎すわけではなく、警察側は最初からしゃべらせない方針で臨み、いい加減なところで中止を命じたのである。言論の自由もあったものではない。

 革命演説入りラパッ節

 その頃、社会主義運動をやる人たちの間におもしろいラッパ節の替歌がうたわれた。私は中西伊之助氏から教えられ、いろんな会合でこれを隠し芸として披露した。

 文句は冒頭に「食えない、食えないと声張り上げて演壇で何としょ」とラッパ節通りにうたい出し、次いで「青い顔して演壇をたたいて」といって前のテーブルをたたく。それから演説をはじめるのだがもちろん、演説は煽動的なものなら何でもいい、そして演説の途中、弁士から臨監に早変りして、テーブルの脇の方から声高く「弁士注意」と叫ぶ。すると、こんどは再び元の弁士に変って、胸をそらせ臨監の方を脾睨しながら「只今のは注意ですか、中止ですか」と質問する。また臨監に早代りして「注意です」と答える。それで三度弁士に立ち戻って(忙しいことだ)「然らば諭旨を変えましょう」と乙に気取って、こんどは激越な調子で「現代の社会組織はこれを根本より変革せねばなりません!」と腹の底から絶叫する。そこで弁士からまた臨監に返って「弁士中止!」とおっかない顔をして叫ぶ。とこんどはテーブルの前に座をかえ、聴衆になって「警官横暴々々」とゲンコツを突き出し臨監の方に向かってほえるようにいう。それでまた臨監になって「解散を命ず!」と一声高く叫んで、またテーブルヘ帰り、グッと調子を低くして「テナコト、オッシャイマシタカネ」で終りになるのである。

 このラッパ節はもちろん余興用のものであるが、歌の中で激越な演説をするので、大向うがヤンヤの喝采を送ったものである。弾圧の激しかった40年前を偲ぶ一つの挿話ともいえよう。もちろん、このラッパ節を歌っているところを警官に見つけられれば、すぐ検束されるであろうことは明かだ。この歌を知る人ももう少くなったことだろう。              

 話は思わず横にそれたが、当時の弾圧は常識をを越えていた。にもかかわらず労働組合は伸び、争議は頻発し、大正8年は画期的な労働組合進出の年となった。

 この年の内に71の組合が新らしく結成され、罷業件数は500件、参加人員は6万3千という新記録を出した。今から見ると罷業参加人員6万3千はあまりにも少なすぎるようだが、今日のように官公労だの、炭労、日教組などの大組合もなかった当時としては決して少いとはいえないのだった。

 そしてこの500件の罷業の中には有名な東京の15大新聞の印刷工ストがあり、足尾、釜石、日立各鉱山のストがあって、釜石では鉱夫の襲撃に備えて鉄条網に電流を通したといわれ、今日の三池争議に近いものがあり、騒擾罪が適用された。

 西では神戸の川崎造船所における日本最初のサポタージュが世間の耳目を驚かせ、ことにその結果として8時間労働制を獲得したことは日本労働運動史に特筆大書される出来事であった。次号にはそのサボタージュのことを記す順序となった。
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