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村島帰之「労働運動昔ばなし」(『労働研究』第10回)

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「元日の朝日」(今日のブログ「番町出合いの家」http://plaza.rakuten.co.jp/40223/)




  村島帰之「労働運動昔ばなし

    『労働研究』(第158号)1961年4月号連載分

   第十回 サボタージュの反響
       ―特に河上肇氏の擁護論―
 
 
 サボタージュの誤訳

 ストには慣れている世間も、新奇な労働戦術としてのサボの出現には驚いた。そしてそれぞれの立場からサボを批判した。使用者側の批判は、ストライキと違って、就業しながら意識して生産を阻害するこの戦術を憎んで、ほとんど例外なしにこれを批判した。

 松方氏のいったように、あるいは男らしくないといい、また、生産をマヒせしめる、卑劣な戦術だといった。そして争議をやるのならサッパリとストライキをやるがいい、というのだった。

 この場合、私として申わけなく思うのは、サボタージュを「同盟怠業]と訳し、わざわざ「サボタージュ」と振り仮名までつけて新聞にデカデカと報道し、他の新聞も例外なくこれにならったため、サボタージュという争議戦術は単に仕事をなまけることであるかのような印象を一般に与えてしまったことだ。

 川崎のサボがあって以後、何事によらず、なまけることを「サボる」というようになったが、これはサボ自身にとってもまことに心外であったに違いない。

 前記の如く、サボは単にノロノロとなまけることだけを意味するものではなく、ある場合は、その反対のこともある。鉄道従業員の行うサボのように、就業規則を忠実に遵奉し、停車中の列車の車両を一台一台ていねいに点検して歩いて故障がないかどうかを確かめたりする。これは遵法行為で批難をうける理由はない。しかしこの事によって列車の発車が遅れ、ダイヤが狂い、交通をマヒさせて使用者に対し罷業に劣らぬ打撃を与えるのだから明らかにサボタージュである。

 また川崎でやったように、仕事はしないけれども、ボイラーには平常よりも多くの石炭を焚くというのも少くとも、竃たきの火夫にとっては、なまけるどころか、むしろ骨が折れて忙しいわけで、怠業という言葉はこの場合、当を得ない。             

 もちろん、これは罷業でもない。いうなれば生産麻痺の痺をとって痺業とでもすべきなのだろうが、ヒ業では罷業と混同し易いし、字づらもよくない。やはり、サボタージュが農夫のはく木靴から来たことを考慮に入れて、一応ノ口ノロと仕事をすることをサボと解釈し「同盟罷業」と語呂の合うように「同盟怠業」と訳することが一ばん適切だと私は考えたのだった。

 それにブルタニカを引いてみてもサボタージュはイギリスではCa-Canyといわれるそうで、Ca-Canyの説明としてgo sIow or be carefull not to do much と注釈してある。つまり、英国でも、ゆっくりとやったり、仕事の能率をあげないようにすることがサボの原理だと解しているのだ。そこでゴースローをそのまま怠業としてしまったわけであった。

 しかし、事情はどうあろうと、サボタージュを単に怠けることのように誤解させたことは、これを不用意に「同盟怠業」と訳して新聞に報道し、サボ=なまけることと曲解させた私の罪である。サボの直後、関一博士は「経済論叢」でこの点を衝いて私をやっつけられたが、私としては一言もなかったのである。 

 河上肇博士の所説

 関博士から訳語が不適当だとしてやっつけられた直後、河上肇博士が「同盟怠業の道徳的批判について」と題し、サボに対する世評の誤っていることを指摘してくれられたのには大にわが意を強うした。

 河上博士は力強くこういっている。「労働者同盟怠業と同じ性質のことを、資本家も屡々実行しているのに、資本家に向ってば一向これを批難しないで、独り労働者に向ってのみ特にこれを批難するのは、果して公平といえるだろうか」

 「例えば糸価下落の際、紡績業者がいわゆる操業短縮を行うごとき、人間の生命の発展を故意に抑制する生産制限は、事業界の全般にわたって行われ、これにより資本家は純然たる不労所得を獲得しつつある。このような資本家により行われるところの人為的生産制限に対し、世人は平常全くこれを馬耳東風と見すごしながら、労働者がその唯一の商品たる労働力の販売に関し、同様な人為的の供給制限を行う時、これに対してのみ、なぜ甚しき批難を加えるのか」

 「経済組織の必然性にもとづいて資本家側が罷業または怠業(事業の短縮を指す)を行う時は、やむを得ないこととして見すごしておきながら、同じ経済組織の必然性にもとづいて、労働者が罷業または怠業を行う時は直ちにこれに向って道徳的批難を加えるというのは決して公平な態度ではない。従ってそのいうところの道徳は、明らかに資本家的道徳一―資本家のために都合のよい階級的道徳――だといわざるを得ない」

 こうして博士は労働者の罷業に対しても、また怠業に対しても、道徳的批難を加えることは当を得ていないと、くりかえし説いているのである。

 怠業と道徳性

 博士はさらに怠業そのものの道徳性をとりあげて、「今日の社会組織の下では怠業の完全なる予防法はほとんどない」といい、「怠業は古くから西洋でも日本でも行われているところだが、殆んど批難されずに来た」といって自分のことにふれている。

 「現に私も一教員として、また一官吏として常に何ほどかの怠業を継続しているが、この種の怠業は社会から賞讃はうけないにしても特に道徳的批難を加えられることはない。今日特に道徳的批難を加えられつつあるものは独り同盟怠業に限られる。これはなぜだろうか」

 と反問し、これは結局、個人的な怠業は耳目にも慣れていて別段新らしい事でもないので注意も惹かず世評も寛大だが、同盟怠業となると、西洋でも比較的新らしい現象で殊に日本では最近の現象に属するため、ややもすると公平なる批判を下すことができず、極めて過酷に失し易いものとなるのだと解明している。

 要約すると、博士は同盟怠業に対してのみ過烈な道徳的批難が加えられる理由として次の二つの点を指摘しているのだ。

(1) それが労働者の所為であるゆえで、資本家が採った同じ性質の所為よりも特に過酷にこれを批難する危険のあること。

(2) それが新奇な現象であるために、既に多年見なれている同じ性質の他の現象よりも特に過酸に批難を加える危険のあること。

 博士はこの二つの危険について具体的な例をあげて説明している。

 「例えば牛乳販売業者がその組合の決議にもとづき、従来一合四銭の価格だった牛乳を一合八銭に値上げしたとする。もちろん彼らはその値上について消費者と協議するようなことはない。勝手に値上の決議をして、消費者にはただ一片の通告をするだけである。もし消費者がこれに同意しない場合は、牛乳業者は日々一合づつの牛乳を配達する代りに、五勺づつを配達するにとどめるだろう。今、労働者がこれと同じ行動に出るとするとどうなるか。彼らは同盟して賃金の値上を要求し、その要求の容れられない間は、いわゆる同盟怠業をなすことによって、急にその提供する労働の分量を減少する。これは牛乳業者が牛乳の値上を決議すると同時に、従前と同じ価格を支払う者に対し、従前よりも少量の牛乳を提供するにとどめるのと全く同じである。一方はこれを看過し、独り他方をのみこれを道徳的に批難する理由を私は見出すことぱできないのだ。」

 「男らしくない」の批判

 また松方社長が野倉代表らに放言したように「サボとは卑怯な、やるならなぜ男らしくストをやらぬのだ」ときめつけたと同じ論法で同盟怠業よりも同盟罷業を男らしいとし、労働者が資本家に対抗して戦わねばならぬなら、男らしい同盟罷業をその戦術とすべきだという批難に対して、博士は次の如き反駁をしている。

 「多年学者の主張を無視し、故意に法律と官権とをもって労働組合の発達を妨げて来たわが国では、すべての人の知るように、今日、資金のゆたかな労働組合は一つも存在しない。それだから日本の労働者が同盟罷業をすることは糧食を貯えないで篭城するようなもので、戦わずして勝敗の数は明らかである。いかに同盟罷業の方が男らしくても、彼らは敗けるにきまっている戦術を避け、活路を他に求めることは労働者もまた人である以上、私は致し方なきことであると思う。」

 といって、「やるなら男らしくストをやれ」という批難に応えている。そしてさらに一歩をふみこんで政治家たちの近視眼的態度をきびしく やっつけている。

 「今、その争議に際し、労働者の用うる戦術として、同盟罷業以外の手段を採らざるを得ざる必然の運命の下に、特に日本の労働者を置いたものは果して誰であるか。私は同盟怠業に出でたる日本の労働者を道徳的に批難する前に日本の政治家の近眼を批難せずには居られない。われわれは学問上、常に必然の理法を説きつつある。しかもこれを無視して必然の流れを防遏せんがために無益無謀の堤防を築くならば、われわれは予言する。それは徒らに洪水を氾濫せしめて、ついに百年の悔いをのこすものなることを。」

 河上博士のこの一文は、川崎造船所の怠業職工にとっては正に千釣の重味があった。もちろん博士もこの論文の末に「この一文の趣意は同盟怠業を奨励すべしというのでは決してない」と特に断って居られるが、怠業職工にとっては大いなる知己の言であった。

 夕刊紙上に「怠業の弁」

 サボターシュの反響は識者や学者からの論評があっただけでなく、労働者の中からもあったが、それが意外にもサボヘの批難であった。新聞社へもサボを批難する投書が舞いこんで少からず私を悲しませた。中にはサボのリーダー野倉栄治氏をひやかして「ノクラ栄治」といっているのもあった。野倉氏はそれ以来、自分でも「ノラクラ栄治」と称し、サボタージュののち私が神戸を去って大阪本社に復帰する時、野倉氏らが催してくれた送別会の寄せがきにも、彼は自ら「ノラクラ栄治」と書いている。

 そこで私は野倉氏や青柳氏と相談して、「怠業の弁]を毎日新聞にのせることにした。

 紙面も兵庫県付録では読者の範囲がせまいので、本紙の夕刊二面の寄書欄にのるよう依頼した。岡崎支局長も賛成してくれたのでその通り運んだ。筆者は野倉氏になっていたが、実際執筆したのは青柿氏であった。

 この記事は野倉氏の追悼録にも収録されてあるが、要旨は治安警察法があって事実上、罷業のできないわれわれは、仕事を罷めないで、しかも罷業と同じ効果をあげる争議戦術として怠業を行う以外に道はない、といった風のものであった。短い弁明だったが、この記事を読んで野倉氏らの考え方を了解してくれた人も多かったことと思う。 

 「ヤナギ」「アミダ」 

 サボをサボとして正に堂々と行い、その上、サボという戦術を採用せねばならなかった理由を公然と声明したサボは川崎造船所のサボタージュが最初だが、しかし、単に仕事をノロノロとやって、作業の能率を下げるというやり方は、河上博士も記していられるように、これまでも行われて来た。ただそれをサボタージュというものであることを知らずにやったという点が、川崎の場合とは違うだけだ。

 現に大正八年七月十三日から二日間――つまり、川崎造船所のサボの行われる二ヵ月前に、同じ兵庫県下の東洋マッチでサボは行われたが世間は一向これに関心を示さなかったのである。

 私は当時、新聞でこれがフランスやアメリカで行われているサボタージュというものでることを説明したが、世間は一向反響を示しはしなかった。もちろん、この新聞記事には「サボタージュ」と書いただけで、まだ「同盟怠業」という日本語訳はつけていなかった。

 その当時(大正八年)の争議の趨勢を報道したもので、川崎のサボの行われた頃の兵庫県下の労働運動の情勢を知る便があるので次に抄録する。 


 兵庫県下の労働争議  量的に増加したが質においても組織的

 兵庫県下で大正五年以前は一年間に十件に出ることのなかった罷業が、六年には四十六件と五倍近くにふえ八年に入るとさらに激増して、先月(七月)一ヵ月だけで既に十二件の罷業を見た。つまり、今日の一ヵ月間の罷業件数は数年前の一年分を超えている勘定である。

 これは平和克復後(第一次大戦を指す)仕事が減少し、従来の残業や徹夜が廃減され労働者の収入に大きく響いて来た結果で、しかも一方には物価の暴騰で、白米が米騒動当時の五十銭を遥かに超え六十銭台に近づこうとし、生活がますます不安となって来たためと見るべきであろう。

 その上、近時、組織労働者の自覚がたかまり、神戸の友愛会の如き既に会員三千五百を超えていることも無視できない。今、新聞紙上に報道された七月一日以降八月十日まで四十日間における県下の罷業十一件を見ると(新聞に出なかったものを加えればもっとふえでいることだろう)罷業参加人員の一件平均は百七十四名、従来の百名足らずに比べかなりの増加である。

 中でも多いのは鳴尾のリバー・ブラザーズの五百名、鉄道院鷹取工場の三百五十名、飾磨の塩田労働者の三百名、東洋マッチの二百名である。

 罷業の目的は賃金値上で大体三割増を要求し大部分はなかば以上要求を貫徹している。中には三菱倉庫神戸支店仲仕の二十割賃上げというのもあったがこれは失敗している。罷業日数は平均一日半で、五日以上を超えたのは塩田労働者と日本郵船の給仕の罷業だけだ。

 しかし此処で注目に値するのは、近頃の争議の中にはフランスやアメリカのサンディカリストが行うサボタージュが行われ出していることだ。サボタージュは「のろのろ働く」といった意味のもので、故意に労働を怠り、能率を低下させるもので、さきに行われた東洋マッチの争議に軸列職工が就業はしたが、仕事を遅らせるため、軸列の作業をしなかったのや、鉄道院鷹取工場で監督の巡視の時だけは仕事をしたが、監督がいなくなると一同手をこまねいて仕事をしなかったというのなどは罷業ではなく、サボタージュである。

 しかしこれは別にサンディカリストから教えられたわけではなく、従来から「ヤナギ」(柳に風といった風にノラリクラリとする意味か)または「アミダ」(アミダ仏のように、じっとして動かないという意味か)と称しで日本にも行われて来たものである。

 なお東洋マッチや鷹取工場の争議の際は右のサボタージュのほかピケッチングといって、争議中、他の職工が補充に就業するのを防ぐため見張りを立てることも行われた。県下の争議は量ばかりでなく、質においても著しく変化を見せて来たことを知らねばならない。

             (大正八年八月十四日、毎日新聞兵庫県附録トップ記事)              

 賀川豊彦氏の反対論

 私の書いたこの記事にもあるように、サボタージュはヤナギ若くはアミダという名称で前々から行われていたにせよ、それはホンの一部でのことで、ストライキやボイコットのように広く行われたものでなかったことはいうまでもない。それが川崎造船所のサボタージュが天下に著聞するようになって、始めて、そうした戦術もあるのかと思うようになり、これを戦術として戦う労働者も出て来た。

 しかし、どっちかというと、怠業を行う労働者自身でさえ、ストに比べるとサボは何となく・うしろらいような気がするらしく、川崎のサボのあった大正八年に全国で五百件以上の争議が行われたに拘らず、サボを行ったのは目星しい処では東京市電ぐらいであった。東京市電がサボを行なったのは、ストを断行すれば市民の反感を買う危険の多いところから、市民の反感を少くし、しかも使用者側にはストに劣らぬ圧力を加えることのできるサボを選んだものである。交通労働以下では兵庫県下でも大正十三年になってから四月に日本毛織職工七千人の怠業、同五月神戸ダンロップのゴム職工千二百名の怠業があったくらいでそのほかにはこれというほどのものはなかった。

 また労働組合としても罷業の方はやりいいが、サボはやりにくいらしく、戦後になって官公労が遵法闘争などという名の下にこれを採用し、実力闘争の有力な戦術とするようになるまでは、むしろ目陰の存在であったといえそうである。

 大正八年の川崎造船所のサボタージュにしても、これは労働組合(当時は友愛会が唯一の組合だった)の争議ではなかった。これは二年後の神戸大争議とは異なる点である。もちろんサボの指導者であった野倉栄治氏をはじめ、青柿善一郎氏ら主なる人々は友愛会の幹部であったが、友愛会として正式にこれをバックアップしたわけではなかった。現に神戸の友愛会の幹部賀川豊彦氏や久留弘三氏はサボタージュには全く関与していない。

 賀川氏はサボの起る数ヵ月前の友愛会神戸連合会の機関誌「新神戸」に「暴動の安全弁」と題する一文を載せて「ある種の労働運動関係者はサボタージュと称して暴動は労働運動に必要なりと説く、しかし私等はその教理と実際を笑うものである」として、サボタージュに対しては始めから反対の態度をとっていた。

 しかし賀川氏の反対したのはフランスなどのサンディカリストの行なった破壊的なサボであって、すべてのサボタージュが破壊的、暴動的とはいえない。殊に日本で行われたサボタージュは、前述のように昔からの「ヤナギ」や「アミダ」を組織的に行ったもので、暴動などとは凡そ縁遠いものであった。だから賀川氏も、川崎造船所のサボが始まると、先鉾をゆるめて、「サボは労働者の勤労意慾を低下させ、また生産を麻庫せしめる」といった程度の反対論に変っていた。

 もちろん争議には関与しなかったが、それでも気になるのか、サボの状況を視察するため造船所へやって来て、居合ぜた私からいろいを聞いて安心したような面持ですく帰って行った。賀川氏の小説「死線を越えて」の下巻「壁の声きく時」の中にも川崎のサボが出てくる。それには私の名をもじった「島村信之」という新聞記者が争議戦術としてのサボタージュを組合で講義するところが出で来るが、別段サボを批難するようなところは少しもない。賀川氏は自分としては怠業には賛成し難いが、川崎造船所の諸君の行った程度のサボならとり立てて反対することもないといった心境だったと思う。

 三菱と製鋼所の動揺

 こうして川崎造船所一萬六千名のサボターユは終わり、次号で記すように、サボの副産物の八時間労働制は日本全国の資本家に大きなショックを与え、また同時に全国の労働者には、新らたな目標を与えることとなった。

 大正八年九月、川崎のサボタージュがすむと直ぐお隣りの三菱造船所および鈴木製鋼所でも動揺が起った。両社では川崎造船所のサボ目のあたり見、またその結果を聞いているだけに狼狽し、これを未然の裡にもみ消すためあらゆる努力をした。

 私が聞いたところでは三菱では工場と工場の間に柵(さく)を結んで、リーダー(その多くは友愛会員だった)の往来を遮断し、また目覚ましい者一六名を馘首した。気の毒だったのは直接これに関与していなかった三菱の友愛会支部幹事長福永宇太郎氏(機械工場の職長)と幹事高橋元次郎(同伍長)で友愛会の幹部というので早いところクビにされてしまった。そこで友愛会が決起しようとしたが、会社の手が先廻りして、あらゆる鎮撫策を講じたので手も足も出なかった。

 神戸製鋼所でも三菱造船所と同様。工場閉鎖一歩前といったような鎮圧策を講じたが三菱のような友愛会幹部のクビきりは行わなかった。却ってその反対に、友愛会の幹部だった同所の沢井重次郎氏らは争議をよく指導できなかった責任を負い、工場をやめてしまった。

 三菱にせよ、製鋼所にせよ、川崎のサボのはじまった頃から、飛び火の来るのを警戒し、水ももらさぬ防備態勢をとっていたため、労働者のつけ入るスキがなかったのである。
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