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村島帰之「労働運動昔ばなし」(『労働研究』連載:第13回)

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「須磨の海岸<旧和田岬灯台>」(今日のブログ「番町出合いの家」http://plaza.rakuten.co.jp/40223/)




  村島帰之「労働運動昔ばなし

   『労働研究』(第162号)1961年9月号連載分

  第十三回 労働組合のPR活動
       ―播磨造船所と神戸市電の要求一


 播磨造船所の労働事情

 川崎造船所の8時間労働制の波紋は地元の同業三菱造船所を始め鈴木製鋼所その他に連鎖反応を起こさせたばかりでなく、同じ兵庫県でも播州の僻地の相生町にある播磨造船所にまで波及した。播磨造船所は現在は石川島造船所と合併しているが当時は「帝国汽船株式会社播磨造船所」といって、川崎・三菱に次ぐ大造船所で大正8年頃は職工5千6百人を擁していた。その中、2千人までは地元の人たちで、九州・中国からの出稼者は会社の建て付住宅に住んでいた。私はたびたびそこを訪ずれた。那波駅で汽車を降りてから、約1里を人力車にゆられて行ったのだが、田舎道と想像していたのが意外にも街がつづいて、それがみな同じような新建の職工さん向きの小住宅で、この町全体が造船所のテリトリーであることがすぐうなずけた。会社の方針は川崎造船所ほどドライではなく、また三菱造船所ほど温情主義に偏してもいないでその中間にあるような感じをうけた。

 現に、私か車上から見た西脇の小住宅も会社が建てたものだが、職工住宅は4畳半、6畳、3畳の3間のバラックがほとんどで、家賃は3円50銭。当時としては決して安い家賃とはいえない。それで、造船所の北村庶務課長に会ってその事をいうと「その通りです。しかし、家賃を法外に安くして、その代り与えるべき賃金を与えないという温情主義は当社の方針ではございません」という説明でめった。三菱同様、白米の廉売もしていたが、市価55銭程度のものを45銭で取次ぐだけで、むしろ実費販売という方が適当だった。その代り、給与の方は地方の造船所としては「まず上等といえましょう」といって賃金表を見せてくれた。それによると、本給は平均1円40銭、これに歩増がつくので大抵の者は60~70円の収入がある。(当時、大学卒業生の初任給は30円から50円の範囲だったからいい方たった)就業時間は9時間半。これが川崎の8時間労働制実施で右へならえをした。しかし請負制の鋲打工とほかの取付工とでは利害が一致せず8時間制の実施を機会に単価賃金の値上を要求してストに突入した。8年10月のことだった。

 その頃、播磨造船所は12万噸の造船能力を目ざして生産向上を図っていて、出勤者の2割が徹夜、4割が4時間残業をやっているので歩増の収入が多く、徹夜の場合などは20割という特別歩増がついた。それで労働は過重だが実収はよく、名目就業時間の短縮で、給与の割出しが変り、それだけ残業歩増もふえたので、ストは始めたものの強いて会社に楯をつくという気持はなく会社と話しあった結果間もなく要求を撤回した。

 庶務課長 北村徳太郎氏

 私は北村庶務課長のやり方に好感をもった。聞けばこの人はキリスト教信者だという。そういわれて見ると温厚篤実なゼントルマンであった。このクリスチャン課長は間もなく支配人となった。この人こそ、後佐世保の銀行に転じて頭取に進み、代議士に選出され、大蔵大臣にもなった北村徳太郎氏だったのである。

 ついでだから播磨造船のことをもう少し書こう。北村氏の方針なのであろうか、この造船所は当時既に民主的な雰囲気がただよっていた。

 前記の会社住宅にしても3間で3円50銭のバラックのほかに、門構えの堂々とした6間のいわば社員住宅といったような高給住宅もあったが、社員、職工の区別をつけず誰でも好きな方に住まっていいことにしてあった。しかし高給者は別として3等社員ともなると、家賃の安いバラックの方を借りる者が多く、背広と菜っ葉が隣りあって住んで、仲よく暮しているという事だった。

 もう1つおもしろいことがある。播磨造船所は相生港の東岸にあって、職工の中約2、000人は西岸から渡船で通勤していた。夜勤の職工が早朝造船所を出て、渡船で家路さして帰って来ると、船着場には彼らを待ちうけている1隊の女郡であった。客ひきの夜の蝶なら早朝からではおかしいと思ってよく見ると、それは職工たちの妻女である。それにしても此処の職工さんは何と仲のよいことだと感心していると、夜勤から帰った良人と出迎えの妻は1組ずつに分れて、河岸に腰をおろし、妻女は携えて来たフロ敷包をおもむろに開く。とそれは弁当であった。しかも2人分の一一。説明するまでもあるまい。彼らはセセコマしい家に帰って食事をするよりも、空腹の良人に一刻も早く食事をさせたいという思いやりと、景色のいい、空気の澄んだ河ばたで2人打ち揃って朝餐をとろうという女らしい考えから、かくは朝の食卓を此処まで運んで来たというわけであった。私は播磨造船所と聞くと今でもまっ先きにこの事を思い出す。

 神戸市電気局の紳士的争議

 播磨造船所のような造船所ではなかったが、川崎の8時間労働制実施の直後、風変りな賃金値上げの要求をしたところがあった。神戸市電の電気課で、吏員・工手・工夫が詳しい生活調査を添付して、本給7割という大巾の増給要求書を出した。大正8年9月27日の事で、変っているのは、市民に迷惑をかけてはならぬとあって、

 「我等は同盟罷業、怠業その他、公共をみだすが如き行為はなさず」 

 と宣言した点て、今日の交通争議の概念からすると、全く考えられないやり方だった。しかし、実力行使は行わなかったかわり課員の生活費の調査を行い、最近の生活費の昂騰で本給7割の増給は真にやむを得ないという実情を立証する資料を提出したところは、合理的な争議戦術だったといえる。

 嘆願書(甚だ時代的の文章だが、私が書いたのではない)と生活調査表を次に記そう。


                  嘆  願  書

 謹而愁意を披歴して申す。

 現今諸物価の騰貴は停止する処を知らず其狂奔や実に驚異に失す。なかんずく我神戸市に於いては其最たるものにして我等生活上不安の感日々に悠然たり、然も之現社会の状勢にして如何とも成す能はず、為めに一同異口同音に「如何に成り行く哉」のー語に尽き競々として為す処を知らず。当局其意を諒とせられ屡々増給し以て之れを補給せられたり従って聊か愁眉を開くを得―同感謝以て今日に及べり、然るに吾等一同より主任に提出する生活状態調査書の如き実情にては到底生活の安定を期する事能はず、噫我等は公共の福祉の為謹直以て「明日明日」の念慮に慰籍せられつつ庶多の妄情苦慮と戦ひ現今に至るも遺憾なる哉今や茫然瞑目時勢に委すること能はず萬愧の声涙を吞み茲に現臨時加給金を据え置き本給料に7割の増給を嘆願せざるの止む無きに至る。希わくば一同の苦哀を愍察せられ1日も早く之が恩典を賜はらんことを鶴首止まざるものなり、誠意を表し電気課員一同連署以て嘆願す。          
                                     電気課一同


                   生活調査表

             支出
          3年     現在     
家賃       3.30   14.00
米代      18.50   41.00
副食物薪炭   14.00   24.00
家具       1.40    5.00
新聞雑誌       35      70
交際費      1.65    3.00
小遣い      3.00    5.00
電燈水道     1.10    1.30
会費         40      57
雑費       6.00   10.00
被服       7.00   12.00
合計      56.65  116.57

            収入
         3年     現在
俸給      32.00   39.30
手当       -      19.60
雑収入      8.00   12.00
居残      19.00    6.50
合計      59.00   77.40


 すなわち、収入は手当も入れて76円40銭だのに、支出は116円57銭で差引39円17銭の不足ではやりきれぬというので謹んで「愁意を披歴して申す」次第なりというのだ。

 しかし、実力行使の伴わない要求は、なかなかすなおに当局が聞きいれるものではなく、言を左右にしてウンといわない。そこで実行委員は警察署長などを歴訪したりして側面からの助勢を頼んだ結果、市でも7割の値上はムリだとしても、若干の増給を考慮するという事でケリがついた。市電には友愛会の支部はあったが、会員数はあまり多くはなく、支部長は電気局技師工藤寿男という工学士、温厚な工学上で戦闘的な争議行為は避けたのであろう。

 勝ち戦にもふえぬ組合員

 さて、また話を本筋の友愛会神戸連合会に戻そう。大正8年の川崎造船所の怠業事件は野倉萬治、青柿善一郎、柴田富太郎、石橋市作、広田健児氏らの友愛幹部が中心になって決行されたが、しかし友愛会自体が正面きって乗出したというのではなかった。

 現に岸愛会の智識分子のリーグ一賀川、久留氏らは直接これに関与せず、賀川氏の如きは、明らかにサボタージュに対して反対の意見を東京の新聞に書いたほどである。従って怠業事件の要求条項が全部容れらたばかりか、思いもかけなかった「8時間労働制の実施」という大きな副産物をさえ招来したからといって、労働者はこれを労働組合――具体的にいえば友愛会神戸連合会の偉力の賜物とは受取らなかった。ただ漠然と「労働者が勝ったのだ」という意識があっただけであった。

 そういうわけで、怠業事件の勝利ということがあったにも拘らず、友愛会の会勢はさして発展を見たいということはなかった。つまり労働者の組合意識はほとんど高まるということがなかったのである。

 それに、今日のように労働組合が法によって認められ、保護されて、組合費の如きも、会社が組合に代って俸給の中から差引いて、一まとめにして組合に渡してくれるというようなことがなく、組合の幹部が一々会員の手から会費を受けとり、また機関誌が発行されると、組合事務所に行って受けとって来て会員一人一人に手渡すというのだから、その手数は大変なものであった。

 それだから、よほど労働組合運動に対し理解と関心を持つ者でないと、オイソレと組合には加盟しなかった。その上、組合に入会している、ということだけで、上司からはにらまれ、何か紛争が起こると、人形の首でもひっこぬくように簡単にクビになるおそれがあるのだから、いよいよ敬遠されるのはあたりまえであった。そこで友愛会は何をおいてもまず組合を宣伝し、新会員の獲得に努力する必要があった。

 1万人運動と久留弘三

 サボタージュの頃の友愛会神戸連合会の会員は3千人にも足りなかった。今なら1つの工場の労働組合員でもそのくらいはある。そこで、連合会では新会員獲得のため「1万人運動」というのを起こした。組合員を一挙に1万人にふやそうというのである。そこでまずできるだけ各方面で宣伝演説会を開いたり、労働組合早わかりといった風な宣伝ビラをまいた。

 近刊の「兵庫県労働運動史」を見ると、その宣伝文の1節が抄録されている。

 「吾等の運動は正義の上に立脚す、然れども、力なき正義は根のなき花の如し、吾等は団結によりて力を得ざるべからず、これ吾等が「1万人運動」を開始したる所以、憂国の労働者よ、来りて我が団体に投ぜよ」

 硬くるしい文語調は、賀川氏の筆でないのは勿論、久留氏や能文家の青柿善一郎氏の文章でもない。とすると、どうも私の書いたものらしい匂いがする。

 久留弘三氏は私よりも2年下の早稲田大学の卒業生(鈴木茂三郎氏より1級上)だが、早大在学中から学資稼ぎのため友だちと「テンセン・ストアー」(10銭均一の店)を開いていたという商才をも具えた活動家だったので、主務となるとともに会員の拡張には一番意をもちいて、1万人運動などというものを計画したのでめった。

 久留氏は早大在学中から友愛会に出入りしていた。その頃、慶応の学生だった野坂 鉄氏も一緒で、労働問題の研究に余意がなかった。野坂鉄というのは現在の日本共産党の野坂参三氏である。野坂氏は学究肌のおとなしい美青年で、慶応を出ると小泉信三教授の推せんで一時慶応の講師をしながら、やはり友愛会の仕事をつづけていた。友愛会での仕事というのは主として機関誌の編集で、大正7年4月、大阪で開かれた友愛会の6周年大会にも野坂氏は大会の記録係をつとめ、大会の終った夜の公開講演会には演壇下に作られた小テーブルに、野坂氏と私か向いあって仲よく関一博士らの講演要旨を筆記した。

 その年の1月、私は「ドン底生活」という貧民研究の小著を出版したので、野坂氏に送ったところ、彼は刻めいに読んで、誤植を全部ひろい出し、「再版の時に役にたてて下さい」といって送ってよこした。野坂氏はそういう人だった。

 これに反し久留氏は実務家といった努力家で、友愛会の発展のため次から次へといろいろの企画を応てた。1万人運動は大正8年10月に始まったのだから、彼が神戸連合会の専任主務になって2年目で、連合会を強化するためには、どうしても1万の組合員がほしいと実感した結果である。

 久留氏は随分と変ったプランを立てる男で私たちを面喰わせた。彼は1万人運動も、定石通りの演説会やビラだけでは平凡だと思ったのか、「友愛会1万人運動」と大書した番傘を大量にこしらえて、にわか雨の時など、何人かの菜ツ葉服を着た連中が相合傘で市中を歩くようにした。

 私もその1本を買わされたが白浪五人男の綾瀬川堤の勢揃いの場のような、傘をアミダにさして大道を高歩するのはちょっと気がひけて、ついに一度もささずしまいで、社会主義文献数十冊とともに大原社会問題研究所の資料室へ寄附したが、今も残っているかどうか。

 「新神戸」の創刊と賀川論文

 1万人運動などによる量的拡張ももちうん必要たったが、それにも増して必要とされたのは、組合員の質の向上だった。質の向上といっても、各組合員の意識には深い浅いがあるので、劃一的では効果がなかった。東京では友愛会の機関誌として「労働及び産業」と題する啓蒙記事と傘下各連合会、各支部のニュースを主としたものを出す一方、リーダ一格の人々のためや、高級な理論本位の「社会改良」を出した。前の一般雑誌は関東震災の際、南葛労働組合の川合義虎と共に憲兵に刺殺された平沢計七氏(紫魂と号す)が主として編集し、あとの理論雑誌の方は野坂氏が編さんして、理論的指導に当っていた。まだ本当のマルキストにはなっていないで、ロバート・オーエンを始め英国社会運動の人々の伝記などを誌上に紹介していた。そして大正8年7月には神戸から発って英国留学の途に上った。私は久留氏と二人で船へ見送つたが私たちのほかには伯父さんが一人見送ったきりだった。(彼が本式にマルキストとなったのは英国留学以後のことである。)

 久留氏は東京に敗けてはならじと、前記の本部発行の2誌のはかに、神戸連合会のとし別に「新神戸」を大正7年8月号から創刊した。「労働者の手になる最初の労働新聞」と自讃するほどのことはない小雑誌にすぎなかったが、毎号その巻頭を飾った賀川豊彦氏の論文だけはすばらしかった。正直にいって、賀川氏は友愛会の事務所にもあまり顔を出さず、公開演説会に出席して造詣深いところを演説して聴衆を感嘆させるだけだったが、「新神戸」発刊以後は同誌を通じて絶えず労働者に呼びかけたので、「神戸に賀川豊彦あり」という誇りが神戸3千の友愛会員の心に芽生えて行つた。

 「新神戸」は翌8年3月、友愛会関西同盟が結成されるとともに「労働者新聞」と改題され、間もなく、関西同盟会の中心が神戸から大阪に移るとともに「労働者新聞」も西尾末広氏を主務とする大阪連合会の手に渡ったが、「新神戸」以来の賀川氏の巻頭論文は引きつづき新聞を飾った。「新神戸」から「労働者新聞」に移った大正7、8両年にわたり賀川氏が執筆知ら論文は、後年の筆記とは異なり、同氏が貧民窟で精魂を傾けて書いたもので、いずれも短文だが、格調も高く、散文詩のような名文で、読者の心をわき立たせた。それと同時に官憲の心にも触れて治安紊乱の廉でたびたび発禁の厄にあった。しかし、内務省から禁止命令の届く頃には、大部分は会員の手に渡っていて、実害はなかった。ただ、これらの文章をまとめて出版した「労働者崇拝論」は伏字が沢山してあったにもかかわらず、またもや発禁となった。賀川氏は数次の発禁で出版法違反が度重なって、「ぼくはもう前科3犯だよ」などといってよろこんでいた。近く「賀川豊彦全集」25巻がキリスト新聞社から発行されるが、この発禁本「労働者崇拝論」は「新神戸」に掲載された時の原文通りに復元してもらいたいものだと思う。

 賀川氏が「新神戸」に執筆したものはいずれもりっぱな論文で、書きツ放しの雑文などは一篇もなかった。題名を次に摘記する。


無産者階級の出現  大正7年8月号新神戸第1号
暴動の安全弁        9月号
生存権と労働権       11月号
社会改造と労働階級     12月号
労働者崇拝     大正8年1月号
愛本位           2月号

         (新神戸改題労働者新聞)
工場民主          3月号  
工場法改正の必要      4月号
人間平等          5月号
賃銀奴隷の解放       6月号
社会連帯責任        7月号
工場の人間化        9月号
組合主義の確立       10月号
労働者と政治        11月号
人間建築          12月号
                     (以下略)


 労働運動とPRと青服叢書

 機関紙「新神戸」の発行と平行して講習会が友愛会の事務所や組合員の2階なっで随時開会された。久留氏をはじめ私や、私が推薦して大正日日新聞に入れた松任克己氏も時々顔を出した。今日では労働問題の書物もイヤというほど出版され、労働組合の会合もたえず開かれて、労働大衆が労働運動に関する智識を吸収することは容易となったが、40年前は手軽に読める書物も少く、話を聞く機会が少なかったので、友愛会の講習会は組合員に喜ばれた。

 ただ、8時間労働制は実施されナことはいつでも実働時間はそれに2時間ぐらいの残業を加えた10時間以上となっていたので、聴講者の来会するのが遅かっナこ。それでもう誰も来ないのだろうと思って尻をあげようとしているとドヤドヤとやって来て、あわてて座り直すというようなことが少くなかった。だから友愛会の支部の講習会に出ると西宮に住んでいた私などは帰宅は11時をすぎることが多かった(私は尻池支部長だったので、集りも尻池方面が多かったので、往復に多くの時間を要した)

 友愛会の事務所では久留氏が継続して労働運動のイロハを解説したが、これを一冊の書物にまとめ、賀川豊彦監修の社会問題叢書という小型文庫版の第1篇として大正8年5月に東京の警醒礼から出版された。この社会問題叢書の第2篇は「英国社会運動史上の人々」と題する野坂氏の小著で、この頃は野坂氏も賀川氏の仲のいい同志だったのである。また第3篇には前に述べた賀川氏の「労働者崇拝論」が同年11月に出たが、発禁となった。第4篇以下にはフランス、ドイツの労働階級史やC・G・Tの研究などが続刊されたが大学生あたりでないと、ちょっと消化できにくいものばかり。労働組合員には少数の人を除いては程度が高すぎて読む者は少なかった。ただ久留氏の「労働運動」だけがわずかに大衆向きであった。

 そこで、久留氏と私は、もっと平易な啓蒙的なパンフレットを出版して広く労働大衆に読んでもらおうと相談した。賀川氏も賛成して若干の金を寄附してくれたし、久留氏や私もなけなしの財布をはたき、前に書いた友愛婆さんもそのパトロンの質屋の且那にせびって出資してくれたので、資金もでき1冊5銭で売ることとした。そこでまず私がごく初歩のイロハを書くこととなリゾンバルトの書物の中から挿話を借りて来たりして青服叢書第1篇として9年3月に「労働問題とは何ぞや」を出した。わずか26頁の小冊子だったが、初版500部を出し売切れて再版500部を追刷りし合計1、000部が菜ッ葉服のポケットに収まった。このパンフレットははじめ「菜ッ葉服叢書」としようと私がいったが、菜ッ葉はひどすぎるというので「青服叢書」という名称におちついた。第2篇は久留氏が「賃銀奴隷の解放」というのを出したが、賃銀奴隷という文字が当局のお気に召さず、発禁になった。

 これらのパンフレットはもちろん市中の書店で販売するのではなく、組合の幹部が工場へ持って行って、上司の目をぬすんで組合員や、組合に好意を持つ連中に頒布したほか、友愛会神戸連合会の若手のピチピチした連中が「新人労働団」を結成し、労働組合の宣伝を兼ね新開地あたりまで進出して、夜店のバナナ売りハダシの雄弁をふるって道行く人にも売った。この新人団一―和田惣兵衛、貫名作三、玉置清治といった当時の紅顔の美青年も、もう60を過ぎたシナビタ老人になっていることであろう。

 「兵庫県労働運動史」を見ると、この青服叢書は7編まで出たようになっているが、それは予定であって、実際に出たのは上述の2篇の次に私が大正6年の友愛会全国犬会でしゃべった「産業社会の悲劇」を書き直して出したものだけで、あとは資金の回転がうまくいかなかったのと、私か大阪本社に復帰することになったことなどで、やめになったのは遺憾であった。予定されていた私の「国際労働会議の成果」も原稿はでき上っていたが、パンフレットにはならず、労働者新聞に連載された。昔はものを思わざりけり、どころか、みんな随分苦労をした。それを思えば、今は苦労が少ないといえるのではないか。
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