スポンサーサイト

上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。

村島帰之「労働運動昔ばなし」(『労働研究』連載:第14回・最終回)

1


「新春初登山<高取山>」(今日のブログ「番町出合いの家」http://plaza.rakuten.co.jp/40223/)




  村島帰之「労働運動昔ばなし

     『労働研究』(第168号)1962年連載分:最終回


   第十四回 日本最初の労働劇団           

  
 レジャーの楽園新開地

 大正8年8月、川崎造船所怠業事件が解決し、いわゆる「8時間労働制」の実施を見るまでは大体10時間の定時労働の上に平均2時間の残業をして、平均11時間59分(大正8年5月現在)という長い実働時間だったので、レジャーをたのしむというようなことはほとんどなかった。それがサボタージュ以後、時間の短縮により、基準の8時間の上に平均2時間の残業をして1日の就業時間は9時間55分(大正9年5月現在)に減じた。そして出勤率もサボ以前の82パーセントから86パーセントに上昇し、賃金も以前は1人当り工賃1円92銭4厘だったのが、就業時間減少にもかかわらず2円62銭8厘と却って70銭増加して職工さんおよびその家族は大喜びだった。

 こういうわけで、職工さんの拘束時聞が減りからだも楽になり、それに心理的な解放感も加わってレジャーを楽しもうという余裕が出て来た。しかし、レジャーとはいっても、今日のように、旅行や登山に出かけるというほどのことはなく、せいぜい新開地の盛り場をぶらついて映画や芝居を見たり、安直な飲食をするというぐらいがせいぜいだった。

 当時、神戸の盛り場といえば「新開地」界隈にきまっていた。南北わずか5丁か6丁のいわばネコのひたいぐらいのせまい地域だが、そこには、あらゆるレジャーをたのしむ大衆向の施設が揃っていた。私は大毎神戸支局を去って大阪本社勤務に転ずる間ぎわに、約1ヵ月にわたって「新開地界隈」と題する続きものを新聞に連載し、この民衆娯楽の楽園の内容と外観を解剖した。(のちに久留弘三らの神戸印刷工組合の自営工場から出版された)それにはこう書いている。

 湊川の水は枯れる時があっても、わが新開地に人通りの絶えることはあるまい。朝まだき頃1万人を超える川崎造船所の職工さんが此処を通過し始めてから、深更、松尾稲荷ヘハダシ詣でをする芸者や仲居がアスファルトの上をカケハダシでゆききする頃まで、人影の此処に絶えることはない。湊川署の巡査が聚楽館前に立って調べた処によると、午後3時から4時までの1時間に新開地を北へ上った者2、250人、南下した者2、125人、計4、375人。さらにこれが夜ともなると人出の数はグンとふえて、午後8時から9時までの1時間の通行者は4、895人で、1分間に82人。時計がコチッと秒を刻む毎に1人半づつが通る勘定であった。

 新開地の東側には小さな飲食店などが約70軒、目白押しに並んで客を呼び、西側には北から数えて中央劇場、聚楽館の二大劇場を始め神戸劇場(手踊り)、千代の座(話専門)、キネマ倶楽部(映画)、錦座(同)、大正座(浪花節)、多聞座(安来節)、松本座(女義太夫)、菊水館(映画)、第一第二朝日館(同)、湊座と13の映画館や芝居小屋がひしめきあっていた。余暇を楽しもうとする川崎の職工とその家族は「どこにしようかいな」と戸惑うばかり。入場料は大衆席の3等なら芝居の中央劇場と聚楽館は別格で大体50銭だが他の映画館などは20銭乃至30銭(キネマ倶楽部と第一朝日館はやや高級で40銭)どこも大衆席は職工さんたちであふれるほどの大入り。

 飲食店も聚楽館の向い角の桂喜や博高館の隣りのヤッコは別として、他は「早幕35銭」「卵入りライスカレ-20銭」と大書した看板を掲げ、牛どん8銭、めし10銭、酒13銭と安直第一の大衆食堂ばかり。その中に1軒洋風2階建の洋食店が目立つが、これはカフェー、ナンヨーといって、友愛会の集会にもたびたび使われた。大正8年7月、野阪参三氏(当時は友愛会編集部員)が英国へ旅立った時も、また9年6月、私か大阪本社へ転勤した時も、友愛会の諸君が此処で送別会を開いてくれた。

 「日本労働劇団」の誕生

 労働者の余暇利用について語ろうとして、新開地で足ふみをしてしまった。

 さて川崎造船所の8時間労働制実施に伴い、友愛会でも新たに生じた余暇を、組合運動の方に向けさせるため未組織の人々に働きかけようと、いろいろと企画を立てた。労働講座の開催は、既に組合に加入している人々の教育に役立つが、まだ入会していない人たちを一足飛びにそこへ引っぱり出すことはむつかしかった。久留弘三は組合員の教育に力を注ぐ一方、未組織の一般労働者に対するPRや文化的な働きをも忘れなかった。何とかいう外国映画が労働者の団結をテーマにしているというので、それを借りて来て各地へ持ち廻ったり、これから述べようとする労働者による労働劇団の結成に力をつくした。

 戦時中、私が早稲田大学の講師をしていた頃、一人の文科の学生が「先生は日本での最初の労働者劇にご関係だったそうですね」とたずねた。

 「日本新劇史にそう出ているのです。神戸の川崎造船所の職工さんたちだけで、労働劇を自演した時、先生はその顧問だったと書いてあるのです」と説明を加わえた。そういわれて私はサボタージュ事件直後のことを思い出した。

 ずっと以前から、自分たちだけで芝居をやって見ようという意見が、友愛会の会合でも出ていたが、サボ事件のあと、就業時間か減り、夕方早く家に帰れるようになったのを機会に、労働劇をやってこましたろやないか、といった声が、川崎造船所の電気工作部の一部から起こった。その中心人物は同工作部の青柿氏の下でサボタージュの時も活躍した丹崎勉氏だった。丹崎氏はこれを久留に話すと、芝居好きで新国劇のファンでもある彼は双手をあげて賛成して、すぐ私へ連絡して来た。私は新聞社で労働問題を担当していたが、そのかたわら、市政と演劇をも片手間に担当していた。市政はともかく演劇記者は全く方面違いのようだが、これには事情があった。

 今は違うだろうが、その頃、地方の演劇記者は劇場のご用記者の感があり、少し大きな芝居のかかる時ぱ興行元が記者を招待してご馳走したり、番組の替り目には新番組に添えで金一封(ハナクソほどだが)を届けて来たりする風習が残っていた。そこで岡崎支局長は着任と共にこの弊風を一掃し、少くも毎日新聞だけは興行元のヒモつきでない、公平な報道と批判をしようというので、学生時代、坪内逍遥先生らの文芸協会や、小山内薫氏、先代市川左団次らの自由劇場などの新劇に夢中だった私を思いきって起用したというわけであった。

 沢田正二郎に指導を

 その頃(大正7、8年)の神戸の大劇場といえば聚楽館と中央劇場とだった。聚楽館は神戸の帝劇といわれて、さきほど物故した梅蘭芳(メーランファン)やイタリー大歌劇団も此処で上演した。中国演劇についてはかいもく知らない私は、大阪ホテル宿泊中の梅蘭芳にインタービューを申し入れ、日本の芝居には見られない優美な肩や腰の表情の秘術について質問し、名優を困らせたことを思い出す。

 その折の訪問記は神戸版のトップに堂々とのった。また水谷八重子がまだ十四、五才の少女でメーテルリンクの「青い鳥」のチルチルを演じた時も、岡崎支局長は思いきってその可憐な扮装写真を、紙面の8段をぶちぬいて大きくのせた。こんな調子で岡崎氏は労働問題に理解をもった進歩的記者だったが、同時に茶目気たっぷりでいろいろ思いきった新聞構成をして独りほくそ笑んでいた。私はいつもそのお先き棒をかついだ。

 中央劇場は聚楽館から少し北へ登ったところにあって、大阪歌舞伎や東京の新派(喜多村や若手の花柳など)がかかったが、私は早稲田の学生時代から知っていた沢田正二郎の新国劇とは特に親しく、夜遅くなると楽屋で大部屋の連中と一しょに泊ったり、楽屋風呂にも入った。東愛子という美しい女優と偶然、同じ風呂にはいり、こっちがはにかんでしまい、まともに彼女の顔を見ることもできなかったほどの純情な青年記者だった。

 私は久留氏らをたびたび楽屋へつれて行った。新国劇のファンは独り久留氏だけでなく、友愛会員中にも熱心なファンがいた。沢田はそれを知っていて、「労働問題の芝居やってみたい」といっていた。それで少し後だが、大正10年11月には賀川豊彦氏の「死線を越えて」を上演したりした。

 沢田の女房役に倉橋仙太郎という老け役かいた。この男は後に河内で小作争議に関与したりしたほどの熱血漢で、私が生野鉱山のストに出張して帰って鉱夫の話をしたついでに「入坑の鉱夫ふと秋風にふりかえる」というメイ句を披露すると、すぐそのあとの舞台でこの句を使った。

 彼は沢田の肩をもむアンマ役をやり乍ら「ダンナ私はこの頃俳句にこっております」という。沢田が調子を合わせて「名句ができたかい」というと、倉橋は待ってましたと、今、聞いたばかりの私の俳句を披露した。沢田が「なかなかうまいじゃないか」というと「実は、生野鉱山のストヘ行かれた村島先生にきいたのです」「なあんだ、村島さんの句かい、道理でうまいと思ったよ」と沢田がいった。もちろん、脚本にはない、出まかせのセリフで、私のご馳走にいっだのだが客こそいい迷惑であった。

 話は横にそれたが、久留から労働劇団の計画を聞いた瞬間、私はこれは沢田らの指導をうけるに限ると思って久留にいうと彼は大喜び。そこでさっそく沢田と倉橋にあてて指導の依頼状を書き、久留が持って大阪浪花座開演中の沢田の許へ飛んで行った。沢田は大乗気だったが、ネ申戸出演中とは違い大阪で昼夜二部興行をやっているので、時間的に今は不可能だから、神戸出演の際まで待てないかといった。しかし、労働劇の稽古は既に始まっている。やむを得ないから次のチャンスを待つこととし「沢田正二郎指導」をあきらめた。

 神戸劇場での初公演

 稽古は造船所の仕事が終ってから神戸の山手のある家で毎夜のように行われた。私は久留と一しょに2、3回その稽古を見に行ったが、男女優とも熱心そのものだった。そして大正9年春、荒田町の小さな小屋で試演をした後、同年5月10日から3日間、新開地の神戸劇場(聚楽館の南向い、小料理屋の横の引っこんだ処にあった)で華々しく開演した。客は階上階下ともギッシリで、大部分が造船所の職工さんだった。出しものは悲劇「文明のたまもの」五場、喜劇「労か資か」二場、喜劇「木綿実行」一幕で、みな労働者の日常茶飯事を扱かったもの。その上、小道具には金旋盤やフライス盤を運んで来て、舞台でそれを運転した。何しろ本モノの職工さんが、本モノの機械を動かすのだから真に迫らなければウソだ。それを見て観客はワーツワーツと大さわぎである。「しっかりやりやー」「削りすぎたらあかんでエ」と大向うからの声援でセリフもよく聞きとれないぐらい。舞台と観客席が一体となって芝居をしているのだった。

 こうして興奮と怒号、叫喚のうちに、芝居の幕はおりた。演技の上手下手は問題でない。みんな満ち足りた思いで劇場外に吐き出されると、新開地の人波の中へ吸い込まれて行った。

 労働者による、労働者のための労働者劇(リッカーツの言葉の受け売りだが)は、こうして大好評の裡に神戸の初演を打ちあげ、それからは加古川、姫路などを持ってまわった。労働劇のドサ廻りが始まったのである。

 しかし、始めは純粋な気持でやり出した労働劇だったが、だんだん時間がたつにつれて、技芸員(役者とはいわなかった)の諸君が色気を出し始めて、いわゆる役者かたぎが露呈して来た。
 これは技芸員だけのせいではなく、周囲の人たちにも責任があった。たとえば、神戸劇場の初公演の時でも、楽屋へ行って見ると、はなやかな楽屋座蒲団が贈られて来ていて、壁面には「何某さんへ、何某より」といった紙片が貼ってあった。これでは場末を興行して廻る三流の芝居と異るところがない。私はもう少し真剣味がほしいと思ったが、いい気持でやっている人たちにケチをつけては相済まぬと思って口をつぐんだ。

 此処で私は労働劇団の設立趣意書を取出してみる。これはリーダーの丹崎氏の筆ではなく、久留氏のような気がする。


              日本労働劇団趣意書

 私どもはこれまで労働運動を宣伝せしむる手段として演説会や示威運動の方法を採って居りましたが、今回さらに「耳よりも目から」「理性よりも感情に」訴えて運動を試みようとの希望から、生活問題や労働問題を取扱った劇を上場しようとして、同志相依って此処に「日本労働劇団」を組織するに至った次第であります。俳優はいずれも毎日ハンマーやヤスリをもって工場に働いている労働者であります。芸は素より未熟でありますが、労働心理を確実に表現する上においては、敢えて玄人にヒケをとらぬ自信だけはあります。何卒大方諸彦の真面目なる御指導と御引立のほどを呉々も御願い申上げます。

 大正九年三月
                 日本労働劇団
                         発起者 丹 崎   勉



           規     約

1.本団は日本労働劇団と称す
1. 本団は演劇の形式に依りて文化運動の促進を期するものとす
1.本団の資金は大方の寄附金及び会員の会費を以てこれに充つ(下略)

           役     員
総監督 久留弘三
願 問 今井嘉幸  賀川豊彦  村島帰之
工場長 久我米松

               技 芸 員
池沢清     間正 太郎   西川桂     川島 拾月
川田薫     河上  実   武田明敏    多賀美良夫
籤下利男    山内染之助   松本豊一    福永 酔月
藤田仙哉    鉄山  昇   浅田誠志    安岡 綾子
小林清子    横井春子    頼安正子    小林伊音子
大林幾子    
丹崎勉(主事)   中井 三郎(舞台監督)
徳田紫成    藤田 紫影(脚色)
スポンサーサイト

コメントの投稿

非公開コメント

プロフィール

keiyousan

Author:keiyousan
このブログのほかに同時進行のブログもうまれ全体を検索できる「鳥飼慶陽著作ブログ公開リスト」http://d.hatena.ne.jp/keiyousan+toritori/ も作ってみました。ひとり遊びデス。

最新記事
最新コメント
最新トラックバック
月別アーカイブ
カテゴリ
検索フォーム
RSSリンクの表示
リンク
ブロとも申請フォーム

この人とブロともになる

QRコード
QR
上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。