スポンサーサイト

上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。

連載:賀川豊彦の著作ー序文など(第20回)

1

「今朝の雪景色」(今日のブログ「番町出合いの家」http://plaza.rakuten.co.jp/40223/)




   賀川豊彦の著作ー序文など

      わが蔵書棚より刊行順に並べる

                第20回
  

      イエスの日常生活

          大正12年6月4 警醒社書店 206頁

 前著『イエスと人類愛の内容』を警醒社書店より出版して一月も経たない間に、本書『イエスの日常生活』は、同書店より同様の布表紙の美装箱入りのつくりで、表紙も背表紙も扉のタイトルも、賀川の自筆で仕上げられています。

 序文のあとにある「例言」によれば「この書は神戸イエス団に於ける聖書講演を、村島帰之氏が筆記して下さったもの」のようです。

 大切な作品ですが、本書は『賀川豊彦全集』のなかには入りませんでした。

 賀川の「序文」の中でも、この作品は大変興味深いものです。是非御一読ねがいます。




          序

 曙近く、鶏が鳴く、アウロラが東天を走る。野は新緑を以つて飾られる。風は梢を動かし、人は小道に歌ふ。藁小屋の所々には臼を踏みならす者がある。おかみさんが洗濯する為めに堀側に急ぐ。雀も、鳥も今日の糧の為めに急がしい。蟻も、木蜂も踊つている。祝福せられた太陽が空に昇ると、また場面は一変する。天地の色彩が一度に変る。凡てが黄なく見える。然し太陽は長き手を延ばして凡てを天上に引き上げる。麦も延び上れば、畝の間の『忘れな草』までが恥ぢらつた小さい顔を天空に向ける。

 あ百姓様は、逞しい筋肉を嗚らせて鍬を振る。喉が渇けば、透明の水がある。それはアダムの酒であり、天来の甘露である。犬も猫も、鼬(いたち)も、畑鼠もみな日向に踊る。蜘蛛までが、軒の巣の上で狂舞する。

 日が西に廻ると共に、錫かな疲労が凡ての生物の上に感ぜられる。それが甘い睡を誘ふ。黄昏が森の梢の先につく時に、親しみのある燈火が田圃を越えてあちら、こちらに見える。沈む夕日に、みめぐみを讃えて静かな一日が行く。ほの暗い田舎の燈火に、人の顔だけが、ぼんやり見えてその他は凡てぼかされてある。

 一日の労働に凡てが感謝として受取られ、夕餐も、會話も、そして最後に来る睡までがただ感謝である。

 日はかくして来たり日はかくして行く。それは平凡な芸術の中に育まれた生活である。神の大自然の中には、凡てが芸術として据えられる。生活それ自身が大きな芸術である。生命は勿論のこと労働も、行動も、休息も、安臥もそして、會話までが神の美しき芸術としで考へられる。

 そう考へることによつて、「自分」を通して神の芸術が遂行せられるのである。つまり神の表現は「私」の日常生活によって綾どられて行くのである。私は「私」の味を持つ。醜い自分が、創造者を出発点として考へ直すときに、自己が果して完成したる創作であるか否かを考へる。

 私は「私」の創作者であり得る。そう考へることによりて、神が私を創作して下さった理由がよく俯に落ちる。そうして私は「私」をその平凡な日常生活の中に偉大さを発見し、日常生活を神化することにより自らが、神の反射鏡であることを発見する、光が私に集められ、私はその神の光を集めたものを更に前方に投げつける。散乱した光は暗いが、集められたる光は幾百倍の力を以て輝く。之を神の栄と云ふのだ。私は神の栄である。かう考へることは、自らを神の反射鏡に自らを据えると云ふことである。

 平凡な生活に、神が乗り移る。平凡で、機械的に見える飲食の席上にも、神の生活が味はれる。曙に、白日に、黄昏に感謝と讃美の歌が胸底から湧く。

 膿み腐つた貧民窟の路次――そこには殺人と狂暴と、姦淫と、怒号と、痛罵の聲の外無いところにも、静かに、平凡な瓦屋根を冥想し、土を讃美し、格子戸の幾何學線に感謝の念慮を私に與えて下さつた神は、絶えざる恐怖と窮乏と疾患に私は猶も奮激の泉を汲むことを知って居る。

 或時は私も絶望の淵に座る。然しまたばゐ起きて私の道に突進する。日常の生活に戦争の無いことは無い。それは絶えざる魂の戦争である。それは刻々の勝利を予期せられて居る。

 別に不思議な真似もせず、山奥にも這入らず江上にも浮ばす仙人にもならず、髪も剃ら無いが、胸中梢を渡る風を聞き、五体は雲の上を飛ば無いが、胸底深く密雲の動くを知る。仙人の仙人はまだ仙人では無い。市井深く隠れて凡々たる茶番事に萬雷の轟きを聞き、風雲の巷き起る秘術を知らねばならね。

 日常生活それ自身が奇蹟であらねばならね。否、神眼に移れば、日常事凡てこれ奇蹟である。神は二羽一銭にて買らるる雀をも御許無くしては落つることを許し給は無いのである。一粒の麦一滴の泉水もみな、神の現れである。苔むす井戸側に出て、泉水を汲みあげ、それを糠のついた米の這入りた桶の中に注ぐと、糠が浮く。日が上から照る。冥想の闇に住んで居たものにはその井戸側が幻の如くに、神の実現として照り輝かされる。縁先の七輪に「焚きつけ」を盛って、それにマツチを擦つて火をつけると、火が燃え上る。火―、火―.私は火の不可思議に眼を見張る拝火教徒が、火を拝んだことを思び出す。火こそ不思議なものだ。我等があまり慣れ過ぎているためにに、それに對する奇蹟を思は無いが、それこそ奇蹟の奇蹟なのだ。昔はそれを拝んだ程のものだ。米が炊けてくると、水蒸気が立ち上って蓋が持ち上る。その水蒸気が不思議である。それは雲の一種類なのだ。人がそれを雲と思は無から不思議が無いのだ。飯が炊けた。人間がそれを食ふ。それがまた奇蹟だ。「飯と」「私」とが同一体になる。

 私が咀嚼する。そして、白い米から赤い血が産れる。私が泣き、私が笑ふ。凡てが奇蹟だ。たヾ人間の受感性が鈍れてゐるだけだ。

 凡てが奇蹟では無いか、おお人間よ、エリアが天火を叫び下すだけが奇蹟では無いのだ、お台所の隅みつこで私が火を征服してゐることが奇蹟なのだ。日常生活は奇蹟の連続だ。超自然の自然化だ。私は空中の一角に立つ。それに何の不思議があらう。然しそれを創作者の眼から見れば奇蹟の奇蹟では無いか―。

 私は奇蹟に生かされてゐる。凡てが神の生活である。内の生活も、魂の生活も、食ふこと飲むこと、着ること、歌ふこと、凡てが神の芸術である。かく考へることによりて、私はイエスが神よりの受肉者であることがよく理解せられた。そして、私が日常事に超自然を発見することを教えてくれたのも、実は十字架の上で死んだナザレのイエスによったものである。イエスは飲んで食って死んだ。たとひイエスが十字架の上で死なないにしても、私はイエスを信ずる。私に取っては十字架だけがイエスの宗教の全部では無い。ただカルバリの丘だけがイエスの十字架の全部では無いのだ。イエスの十字架とは、超自然の生活を捨てて平凡な自然生活に化身し、受肉し、自己を殺したと云ふことが真の具の十字架なのだ。

 つまり、イヱスには、生きて居る時から十字架があったのだ。否、死んで了へば十字架を負ふことは軽いものだ。死人に十字架をくりつけること位のことは誰でもする。生きで居る人間が十字架を負ふところに苦痛があるのだ。イエスの十字架を「死の福音」の如くに説く人がある。それは死人の囈語だ。イエスの十字架は活人の活宗教の道である。それは魂を肉体に縛りつけ、超自然を自然に還元せよと云ふ福音であるのだ。つまり神を人間の相場に換算し、引き落すと云ふことなのだ。神が人間になると云ふことは、つまり食ふこと、睡ること、労働することに、神が參加すると云ふことである。つまり神も奇蹟ばかりをその職務としないで、日常の事務取扱を開始すると云うことである。

 十字架はそこにあるのだ―。

 思った儘をなさんとするにあらず、み心の儘になさせ給へと云ふことが真の十字架の道だ。つまり凡ての台所と事務室と機械場と田圃に十字架があるのだ。

 生れで、死んで行く、そこに少しも奇蹟が起らぬ。そこに十字架があるのだ。

 イエスが死ぬ時に天軍がイエスを十字架上から奪ひ去つたら、十字架は十字架で無くなるのだ。つまり神の子イエスの死に奇蹟が起ら無いで、死ぬ可きものとして死なねばならなかつたところに、十字架があるのだ。超自然に見捨てられて、自然の生活に甘じ、その自然を通じて超自然に勝利を得しむると云ふととろに、十字架があるのだ。

 それを敗北の歴史と云ふのだ。つまり人間が神に敗けることなのだ。人間が神に敗けた時に、神はまた人間を思った通りに改造してくれるのだ。それを神の勝利と云ふのだ。神の勝利は結局は超自然が自然に勝つと云ふことだ。自然が超自然化せられ、日常生活が、神の生活になると云ふことだ。神に敗けたイエスが『我世に勝てり』と叫び得たのはそれなのだ。

 神に委せ切つた自分には、一切が神より出ることを信ずる。

 そこが一切は神から出るのだ。自分も神から出るのだ。自分が自分を形造って居ると云ふことが既に間違いなのだ。私は神の芸術品なのだ。自分は自分の衷に「私」を創作する時から、それは神のお手傅いをしてゐるにしか過ぎないのだ。私は神のモザイックである。神の栄のモザイックの何處にか這入る可きものなのだ。

 神は今日常生活の書を書いてゐるのだ。私はその中のモルに据えられてゐるのだ。私はヂッとおとなしくして居らなければならぬ。

 神が私を見詰めていらっしやるのだ。あれ神が私を見詰めで居らしやる。私は此處でおとなしくしで居らなければならね。

   一九二三、五、一四、眼の病める日

                 賀 川 豊 彦

                    神戸貧民窟にて
スポンサーサイト

コメントの投稿

非公開コメント

プロフィール

keiyousan

Author:keiyousan
このブログのほかに同時進行のブログもうまれ全体を検索できる「鳥飼慶陽著作ブログ公開リスト」http://d.hatena.ne.jp/keiyousan+toritori/ も作ってみました。ひとり遊びデス。

最新記事
最新コメント
最新トラックバック
月別アーカイブ
カテゴリ
検索フォーム
RSSリンクの表示
リンク
ブロとも申請フォーム

この人とブロともになる

QRコード
QR
上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。