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連載:賀川豊彦の著作ー序文など(第34回)

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「神戸文学館」(今日のブログ「番町出合いの家」http://plaza.rakuten.co.jp/40223/)



   賀川豊彦の著作―序文など

          わが蔵書棚より刊行順に並べる
 
                    第34回


          魂の彫刻―宗教教育の実際

          大正15年10日27日 文化生活研究会 269頁

 先に賀川の大著『愛の科学』を出版した「文化生活研究会」から2冊目の書物となったこの『魂の彫刻―宗教教育の実際』は、本書の「例言」にも記されているように、山路英世・吉本健子両氏の筆記によって完成された作品です。
 まず、その「例言」を挙げておきます。



              例  言

 去年の九月九日、オートバイの顛覆で負傷してから満一年、外傷と、宿痾の眼病に、私は一年間の大部分を病床で暮した。そして私にこの書を病床の中で考へたのであつた。この書は全く私の創作であって、他り書物を參考に用ひなかつた。

 この書を書く様になった最初の動機は、アメリカの書物を読んでからである。私は、コウ教授の『宗教々育の社会学説』と、ハッチンス氏の『社会奉仕の級別組織』等の書物に剌戟せられて、この書物の内容を考へ出したのてあった。

 眼が見えなかった為に、私は山路英世、吉本健子の両君に全部筆記して、貰った。私は二人の援助がなければ、この書が出来なかったことを此処で感謝して置く。

 私が冥想的になればなる程、魂の彫刻に就いて考へることが多くなつた。私は出来るなら此次に自然の聖書について書いて見ようと思つてゐゐ。私はそれに就いて今、冥想を続けてゐる。

 この書に就いて私の足りなく思つてゐことは、理論的方面が多く書けなかったことである。それは別に宗教々育の原理として稿を改めて、書き起したいと思っている。既に口述したものを、親友村島帰之兄が、部分的に纏めてくれたが、なほ不満の点が多いので、今少し冥想を続けて行きたいと思っている。

 私はこの書を読まれる諸兄姉に希望したい。それは人を教える為にこの書を読まないで、私がこの書に書いたメソードは、結局は自分の魂か浄化して行くメソードでもあることを考へて、自分本位で読んで頂きたいことである。

 此の書を書いた後、米国にも遊戯を通じて愛を教えたいと思って居る人があることを知った。それをもう少し深く、研究して、第八章を先に行って訂正しよう。

              *             *

 大正15年10月に箱入りの上製本として刊行されていますが、手元のものは昭和7年10月に「復活版」として出たものです。装丁・本体ともに同じものが「復活」しているようです。それでは今回も、本書の「武庫川のほとりにて」書かれた「序」を取り出して置きます。 ここでもブログ用に改行をしてUPしてみます。



              序

 都會の輝きと、黄金の魅力とが、多くの魂を眩惑する。機械文明に引付けられた若き魂は、それが何を意味してゐるかも深く考へないで、その日その日の労苦に喘いでゐる。

 労働者は忙しく生産に営しみ、その労苦を酒によって忘れんとし、酒で儲けた成金は女狂ひに忙しく、芸者屋と遊廓はそれらの為に繁昌する。

 淫蕩に蝕まれた民衆は、骨まで腐らす毒素に襲はれて、足繁く病院に通ふ。医者と病院はその為に忙しい。人の災厄によって富を積んだ医者は、贅沢品を買ふに忙しく、贅沢品を生産する労働者は、労働の永きに、酒の魔酔力を借る。 

 斯うして、理想なき社会性の循環は、輪の廻るが如く忙しく廻る。そして何等の進歩もなく、向上もない、文明は悲しみの種であり、救はれない因業の輪廻である。

 斯うした文化を凝硯めてゐて、内に目醒めた人間が、黙って居れるだらうか。

 私は、人とその霊魂の運命に就いて深く考へる。

 私は生きたい。そして勝ちたい。

 病気に、無智に、醜悪に、不徳に、不虔に克って行きたい。

 私は充分目醒めたい。私の目醒めることは、人類の目醒めることであり、人類の目醒めることは、宇宙の 目醒めることである。

 宇宙は私に目的を持って居る。宇宙は私の衷に目醒め、私は宇宙の心の一機能として目醒める。

 私の衷に魂を彫刻することは、宇宙に拡がる神殿の奥の院に御開帳の扉を徐々に開いて行くことである。

 『私』を通して神が見えるのだ。『私』は、神に向って開かれる神殿の窓だ。

 魂を彫刻することは、窓を開いて室内に光線を導き入れる様なものだ。

 さうすることによって、電動力よりも不可思議な生命の力を、充分我々が吸収し、そして機械的と見えるこのひからびた分明に、栄光の輝きを見せしめ、それに向かって廷び上る力が輿へられるのだ。

 私は、もう四十歳に近くなった。そして、今如何にかして吾子の胸に、私が胎んだ神の姿を植ゑ付けたいと苦心して居る。

 私は自分の子供に経験したことを、他人にも及しだいと思ってゐる。

 然し結局、自分の子の胸に魂の彫刻することは、自分の魂に、新しく神の姿を彫刻することなのだ。

 魂の彫刻は人の為ではない。凡て自分の為だ。

 彫刻師が、木や石に向って精進する様に、私は生きた霊魂に向って精進する。

 彫刻家が、自分以上のものを木や石の上に、よう彫刻しないと同じ様に、私もまた、自分以上のものを生 きた霊魂の上に彫刻し得ないことを考へて、表現せられた凡ての彫刻が、自画像であることを考える時に、厳粛にならざるを得ない。

 私は自分の手、自分の鑿を凝視めて、ゾッとする。いつまで経てばこの自分の霊魂以上に出られない、哀れな彫刻家が、この領域を脱して、神の彫刻に乗移ることが出来るであらうか?                             
 幸にして私には先達がある。

 彼は御殿の扉を引ちぎって、神の姿を自分の肉体の上に鋳抜いた。

 その鋳抜かれた型は今日人間の中に最も悲惨な死刑囚の型として我々の間に授って居る。

 彼は、死を賭して、その御殿の扉を打破ったのであった。

 彼以後、我々は労せすして、神の光を身に浴びることが出来る様になった。

 恥ずかしい私も、その死刑囚の残してくれた神の鋳型によって、真正の彫刻が何を意味するかを學び得た。

 死を蹂躙することによって、愛が死よりも強いことを我々は學んだ。

 その愛が我々の全生命の上に舞踏する時に、森と、太陽と、小鳥と、稲の穂が、神の天啓として我々に帰って来る。

 自分乍らに棄ててしまった暗い私に、自然と良心が、内と外とから、私に迫って来る。自然は私にとって、花婿の如く、良心は私にとっては花嫁の様なものである。

 神と結婚もせざるに私は、それらを通じて神を胎むことが出来る。

 それは私にとっては喜びである。

 魂の彫刻は神を胎むことである。労せざるに何時しか、私の胎内に、神の子が成長する。それは私にも似、神の顔にも似てゐる。

 我が懐にある子よ、大きくなれ、神は斯うして安々と良き子を与えてくれた。

 彼に對する魂の彫刻は、この子を肥立ちよく育てて行くことにある。

 神の愛にほだされて私は、私が胎んだ神の子を、隨喜の涙に暮れつつ、育てて行かう。

 私にとっては、電燈も、ラヂオも、ガソリンエンヂンも、到底私のこの神の子の肥立ちを見る以上に悦びを輿へてくれない。

 肥立ちよく育ってくれよ、吾が子、私が私の魂の衷に胎んだ神の子よ、我が霊よ!

   一九二六・一〇・一四

                賀 川 豊 彦

                 摂津武庫川のほとりにて
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