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連載:賀川豊彦の著作ー序文など(第52回)

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「高取山ぶらり登山」(今日のブログ「番町出合いの家」http://plaza.rakuten.co.jp/40223/)



    賀川豊彦の著作―序文など

       わが蔵書棚より刊行順に並べる

                第52回
                
      神に就いての瞑想

         昭和5年6月15日 教文館出版部 191頁

 教文館出版部の手がけた本書『神に就いての瞑想』は、続く『キリストに就いての瞑想』『十字架に就いての瞑想』、そして『精霊に就いての瞑想』という四部作として名高い作品で、『賀川豊彦全集』にも収められています。

 本書は、賀川の「序」のあとに記されている「著者より読者へ」によれば、「吉田源治郎氏、黒田四郎氏、吉本健子姉の努力によって出来たもの」であることが記されています。

 彼の「序」の中でもこれは、私にとって大切なものです。早速表紙と共に、それを取り出して置きます。



         序

 瞑想の森に分け入ることを覚えた私は、露のやうな滴りをその森から容れるやうになった。

 真夜中に、白昼に、曙に、黄昏に、私は何処にも瞑想の扉が開かれていることを知った。電車の中、汽車の中、待合室、獄房、路上、到る処で、私は瞑想の休息所を与へられ、そこで泌々と、私の胸に宿り給う大能の神に就て静思することが出来る。

 アッシジのフランシスは白日の太陽を仰いで、瞑想し祈をしたと伝へられ、ソクラテスは弟子達と歩いてゐて、突然数分間路上に佇立して瞑想をしたと、弟子プラトンが伝えている。阿含経をみると、釈迦もまた同じ習慣があったらしい。

 イエスは、四十日四十夜、荒野に退いて瞑想し、ある時はまたガリラヤの山地に徹宵して、祈と瞑想に送られた。

 瞑想の泉を汲むものは、神が我々の棟に密接して住み給ふことを経験する。けたたましく忙しい機械文明の今日に住んでゐて、猶、太古の静寂を発見したいものは、瞑想の領城に辿り着くより仕方がない。

 私は、視力を失って後、この聖域に接することか出来て、新しい泉を発見したやうに喜んでゐる。

 無為のときも、無策の日にち、瞑想は先方から私を訪問してくれて、神殿のとばりを高くあげてくれる。

 私は、芝居の舞台裏に、台風の夜に、忙しい熱閙の巷に、瞑想を通して神を讃美する。神は、私の安息所であり、私の蓄電池であり、瞑想の前に、死も青醒めて消え去り、苦痛も、その威力を麻痺させる。無学な私にも、大能の神は、瞑想の裡に安んじて憩ふべきことを教へて下さる。

 私は、神経衰弱に疲れた現代人が、見る前に、読む前に、歌ふ前に、戦ふ前に、まづ本然の瞑想に帰らんことを要求する。

 胎児は母胎の十ヶ月に、読むことなく、走ることなく、瞑目して安居する。瞑想の工夫は神の懐に倚る胎生である。

 私は静かに神の脈博を瞑想のうちに感じ、神の血に肥らされ、瞑目のうちに、光の世界へ踊り出づる日を待つ。私は呼吸することなくして、生き、動き、且つ在り得る。

 ああ、不可思議な胎生よ、地球は大きな母胎であり、また乳房である。私は人類の凡てが、もう一度この大きな母胎に復帰し、神の血脈に、自分を繋がんことを祈って止まない。

  一九三〇・五・二九   
      
            賀 川 豊 彦

                武蔵野の森の一隅にて

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