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連載:賀川豊彦の著作ー序文など(第119回)

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「住宅花壇のジャスミン」(今日のブログ「番町出合いの家」http://plaza.rakuten.co.jp/40223/)



   賀川豊彦の著作―序文など

      わが蔵書棚より刊行順に並べる
         
              第119回


     『東洋思想の再吟味』


      昭和24年2月15日 一灯書房 234頁


 本書『東洋思想の再吟味』は、その多くが戦前に執筆されたものですが、標題のもとに「宗教的道徳心理よりの精神分析」という副題が付けられています。

 1947年11月22日付けの「序」がありますので、此処では賀川の「序」と武藤富男氏の『賀川豊彦全集ダイジェスト』の「解説」の一部も取り出して置きます。



        東洋思想の再吟味

           序


 狼が犬となり、虎が描と化し、毛虫が蝶々になれるならば、戦争の好きな二足動物も天の使になれない事もあるまい。ましてや、はじめから神の胤をもつてゐたとするなら、その遺伝と成長は各種の屈曲をもつてゐるにしても、決して無視は出来ない。印度、支那、日本に数千年間生え茂った思想の森の中には、絶対至愛の接木するにふさわしい良樹もある。環境と時相の紛乱に災されて、少からず昏迷を続けてゐた霊の世界にも、深く味つて見ると、宇宙連帯責任の意識にまで伸び上がりたいと悶えてゐた美しい努力の跡もあつた。熱帯の印度に、熱帯の支那と日本に、戦争は幾千年か続き、霊魂の砂漠は自由を待つ事久しかった。東洋の聖典を読むと、人間文化が必ずしも自己の贖罪を完成しないといふ事をを強く教えられる。毛虫はひとりでに蝶々になったのではない。天の力がさうさせたのである。天を見失った日、尚天が人間の心に覗き込んでくれて、天の方に引上げんとする神聖の秘儀を示してくれる。それは決して人間の力ではない。それは勿論人間を無視するものではないが、人間を内側から高めてくれる超越的根本実在である。その至高者が宇宙全体に対する責任意識をもってくれる為に、我々の霊魂を内側から温め、我々、有限者に対して過去の悪を贖罪愛を以て修繕し、復活の希望に満してくれる歴史的表現をとる尊い意志の持主である事も信じ得る。東洋思想を通観するに、支那は天から出発したが、その天が贖罪愛をもってくれるものとしては体験されなかった。又印度に於いては、人間に内在ずる霊性を発見したリグウェダより出発したが、解脱の道を探し廻って、救ひの幻影を幽かに見ただけで、贖罪愛の生命に辿りつく事が出来なかった。敗戦の日本は新生の道を辿らねばならない。それは人よりの至高の愛に槌る他はないが、愛に溺れる事は出来ない。天上の愛に接がれんとするならば、古株の腐つた部分は捨てなければならない。そして天上の樹液が朽ちつつある古株に廻る為に適しいだけの粘液がゐる。この粘液は生命の原理そのものでなければならない。十字架の愛はこの生命の原理であり、日本贖罪の原理であるとも考えられる。キリストの意識した宇宙意識は贖罪愛の連帯意識を日本にまで拡張してくれる。

 神が日本にまで拡張してくれる贖罪愛の連帯意識は、その意識内容として新しく抱擁すべき、東洋精神によって培われ日本の精神的遺産が如阿なる遺伝囚子を持つてゐるかを、見極めておく必要がある。神によって浄められる為には悪質遺伝を去り、世界に残しておいてもよい日本の素質だけは更に伸ばして行かねばならない。東洋思想の再吟味はかうした贖罪愛の観点からなされる必要を感じた。

 私は道徳心理学を精神分析の立場より、三十数年間に至って研究して来た。そしてその間に読み散らした書物の多くの中から、ノートして来たもの、又話して来たものをここに綴って私の同志達に読んで貰ほうと思ってこの書を編輯した。

 この書を纏めるに当って私を援助してくれた多くの友人、同志達に感謝する。特に、筆記を担当してくれた神戸章子姉、岩浅農也氏に対してここに感謝の意を表する。

  1947年11月22日
    
         賀 川 豊 彦




       武藤富男著『賀川豊彦全集ダイジェスト』の解説

          『東洋思想の再吟味』について


 本書は敗戦の傷がまだ癒えやらぬ昭和二十四年二月十五目の発行で、発行所は東京の一燈書房である。序文の日付は一九四七年十一月となっているので、終戦後二年目に書かれたものである。昭和二十年八月十五目の降参は日本人の傲慢を打砕くとともに、その誇りをも奪ってしまった。マッカーサー治下においては、日本的なものが蔑視され、東洋的なものが侮られる傾向が生じた。この時に賀川が、贖罪愛の見地から東洋思想及び日本思想を再吟味したのが本書である。

 第一章の『易経に学ぶ』は、賀川としては、他において未だ語らなかったことで、読者にとってはフレッシュである。易は占いが目的でなく精神修養が目的であり、逆境に処する道、変化に処する道、貧乏に処する道など示されているという。

 第二章の『孔子の論語を読む』においては、貿川が九才の時から禅寺へ漢学の稽古にやられて、大学、中庸、孟子の素読をやり、反省ということが頭から消えなかったこと、孔子の論語は聖書とともに家庭に一冊備えておくべきことなど述べた後、孔子の略伝を語り、その謙遜を讃え、彼のすぐれているところは、内部生活における反省であったという。賀川は論語にいう『仁』とキリストの『贖罪愛』とを比較し、『天』の思想においてキリストの孔子とは互に接近する、我々はキリストによって天の父の完全を学び、天の神の贖罪愛を意識して孔子の『仁』の足らないところを補い、神による精神生活を完成するように常に反省を怠ってはならぬと勧める。

 第三章「老荘学派の精神」においては、支那の民衆が孔子よりも老子荘子についており、それが道教として宗教的の力を支那民衆の間にもっている、(日本では孔子の教えが基礎となり、これを釈迦がつちかった形になっている)その理由は老荘の思想には、孔子に見当たらぬ精神的、宗教的のものがあるからであるという。老子の思想は無限絶対者への信仰であり、荘子は造物主についての考え方をもっている、老子は無用の用、無欲の欲を説き、政治の根本を無事においており、また敵を愛する精神を説いて、悪に報いるに徳を以てすべきことを教え、この点でキリストに接近している、荘子は融通自在の心持を強調し、キリストが赤ん坊を尊敬したような心持がある、老荘の欠点は本能肯定に走ったことにあり、それが仙人道に移行し、神仏の霊術と化し堕落の道を辿った、それは罪に関する意識が稀薄であったからである、こうした東洋思想の足りないところをキリストの精神によって補って行くべきであると説く。
                                      (以下略)


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