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連載:賀川豊彦の著作ー序文など(第141回)

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「修理中の<天空の白鷺>」(今日のブログ「番町出合いの家」http://plaza.rakuten.co.jp/40223/)



   賀川豊彦の著作―序文など

      わが蔵書棚より刊行順に並べる
       
             第141回



     『賀川豊彦全集8』(第4回配本「月報4」)

  
 『賀川豊彦全集』の第4回配本は、昭和37年12月10日に「哲学・経済・社会科学」として分類されている第8巻が刊行されました。

 今回の「月報4」には、「政治家以上の人」と題して西尾末広氏(民主社会等委員長)、「贖罪愛の活動」と題して今井新太郎氏(兵庫県知事)などが寄稿しています。

 いずれも、貴重な文章ですので、前回と同じく月報の前記二つを取り出して置きます。。

 なお、付言するまでもなく、この全集第8巻は発刊の企画段階で問題提起を受けて、不幸な顛末を迎えましたが、詳細については、現在連載中の『賀川豊彦と現代』(絶版・テキスト化)(ブログ「対話の時代 宗教・人権・部落問題」http://d.hatena.ne.jp/keiyousan/ )などで論究していますので、ご笑覧・ご批評願います。





            『賀川豊彦全集8』第4回配本「月報4」

                  政治家以上の人

                   西尾 末広


 わが国の労働運動や社会運動は、とくにその初期において、キリスト教の影響をうけることが多かったし、クリスチャン出身の優れた指導者が輩出して、大きな功績を残している。その中でも、私にとって忘れることのできない人は、安部磯雄氏と賀川豊彦氏である。

 両先輩ともに、今の言葉で言えば民主社会主義者であり、議会主義者であった。そして何よりも、徹底した信念の人であった。

 賀川さんは、大疋七年から十一、二年ごろまでの数年間、関西における労働運動の中心的指導者だった。賀川さんが労働運動に入った動機は深くは知らない。それは多分、神戸の貧民街でのイエス団の運動から生れた必然の発展だったのであろう。また第一次世界大戦のさなか、二年九ヵ月にわたって米国に遊学し、キリスト教の伝道に従事するかたわら、先進国の労働運勁を実地に見聞して帰国した直後のことであることも見逃すわけにはいくまい。

 そのころ、私もまた関西にあって、当時の友愛今のもの日本労働総同盟の大阪連合会の資任者になっていた。自然、賀川さんと私とは労働組合運動の同志として、また同じ友愛会ないし総同盟の瞬部として、常時顔を合わせるようになったが、その間、一貫して賀川さんが健実な労働組合主義者であり、民主主義、議会主義を通じて労働階級の地位を向上させ、革命なくしてそのいわゆる「人格的社会主義」を実現しようとする、今でいえば民主社会主義の思懇の持主だったことをなつかしく憶い出すのである.

 賀川さんが労働運動に挺身していた時期は、第一次大戦後の激動期で、革命的なサンヂカリズムの思想が一世を風靡していた感があった。今日からみれば妙な話だが、当時の急進的な労働運動者は普選獲得運勁にさえ反対した。有産、無産の区別なく選挙権を与えて、勤労者の声を議会に反映させようとする運動に対して、議会否認の立場から反対したのである。議会はブルジョアのものであって、これにプロンタリヤを参加させようとするのは、直接行動による政権奪取、つまり革命への労働階級の情熱をマヒさせようとするものだというのが、その反対の理由であった。

 このような議会否詔、普選反対、直接行動謳歌の風潮に対して、賀川さんは敢然として立ち向い、これと闘かった。そして常に、じゅんじゅんとして議会主義を説き、漸進的な労働組合運動の必要を力説した。殊に、私の印象に残っているのは、大会や集会などで激越なアジ演説が会場の空気を支配すればするほど、賀川さんは一層冷静な調子で持論を説き、過激分子の反省を求めたことである。のちに、大正十三年の大会で総同盟は有名な方向転換宣言を行ない、その運動方針を現実主義の方向にあらため、普選獲得運勧についても積極的にこれに協力することとなったが、これには賀川さんの努力が大いにあづかって力があったこというまでもあるまい。

 その後、サンヂカリズムに代って、マルクス・レーニン主義が盛んになっても、賀川さんはその態度を変えなかった。実に、信念の人だったと思うのである。

 賀川さんは、優れたキリスト教の信者であると同時に、その教義の実践者であったが、しかし、いわゆる政治家の部類に入る人ではなかった。既に述べたように、立派な政治的見識と実行力を持っていたが、同時に夢多き詩人であった。生前、賀川さんを政界に出そうとする動きはしばしばであったが、私はいつも反対したものである。賀川さん自身はどう考えていたか知らないが、私にとって貿川さんは政治家以上のものであったからである。
                                    〔民主社会党委員長〕



 

                  贖罪愛の活動

                  今井新太郎


 賀川先生の人間像、聖者と言うには、余りに活動家であり過ぎた。預言者と呼ぶには余りに科学者でありすぎた。然し祈りの姿の先生は全く聖者であり、社会革命の情熱は、預言者的であった。

 全国に子供の保育所を十七か所も経営し、農民運動、労働運動、生活協同組合運動、医療組合運動、神国運動等社会改良運動に終始した活動家、その精神的エネルギーの根源は祈りであった。

 四十六年前に神戸の貧民窟に入って、九尺二間の家に住みながら、貧民窟生活を享楽している。『私は多年貧民窟に生活したが、貧民生活は信仰をもってとぴこむ入間にとっては享楽に値ひする』と言って居られる。

 『然し貧民窟で私が世話していた人殺しの三公も、「うかれぶしの松公」も、みな亡霊に苦しめられて、私に救ひを求めた。三公も、出獄後も夜寝静まると殺した者の亡霊に悩まされて、発狂者の如くになってしまった。喧嘩の好きな村田は貧民窟の済生会病院に入院したが「亡霊が出て私を喰い殺しにくるから、早く来て亡霊を払うお祈りをしてくれ」と。殺人犯の「三公」も「松公」もキリストの贖罪愛の十字架を抱いてその亡霊の悩みから救われた。』

 賀川先生の貧民窟伝道は全く贖罪愛の活動であった。

 受難週の金曜日の早天祈祷会が大阪の労働街生野の聖浄会館で開かれた。床を抜け出して、会堂に出てみると、十人位いの青年労働者ばかりが熱心に祈っていた。

 或る者は鉄工所に、或者は金属工場に、或る青年はミシン工場に働いていた。それが、後に、立派な指導者となり神戸市になくてはならぬ人物となった。

 賀川先生は祈りの人であった。賀川先生は、よく、祈りの人を語った。電信を発明したウィリアム・モールスも祈りによって発明を完成した。マルコニーも無線電信を祈りと共に発明した。電動機を発明したファラデーも祈りの人であった。新しい科学的発明も祈りによって与えられたと祈りの力を礼讃しているのは賀川先生であった。

 預言者エリヤが鳥に養われたことは、賀川先生の信仰と生活であった。満洲事変以後、十数年間、憲兵隊に監禁され、巣鴨の刑務所に拘置され、人間的には全く絶望していた。雑誌に新聞に、いつも悪評がかかげられた時、飯を食ふ途がたたれたかに思われたが、人間の形をした天使達があすこから少し、こちらから僅か、一家族が飢えない程度に食を運んでくれたので恩寵録をつくった。

 人間には、病気、廃疾、老衰、虚弱、いろいろな悪条件がある。賀川先生もあらゆる病気に、殊に眼疾に悩まされたが、信仰と祈りとで、これを克服して奉仕的活動をつづけられた。先生曰く、跛者のニュートンは引力を発明した。セムシのスタインメッツは電気の方程式を発案した。盲聾唖のヘレン・ケラーは霊能を現わして文化に貢献した。人間は信仰によって、悪条件を克服して奉仕することが出来るのだと賀川先生は不遇に泣く人々に勇気を与えてくれた。

 神国実現の理想と情熱に燃ゆる信仰と祈りの賀川先生は、著述に講演に、日本全国津々浦々に活動をつづけられ、又東南アジヤに欧洲に、到る処に神国運働を展開されて、その雄弁と慨博な智識と殊に科学的な理諭とにもとづく情熱とにうたれて改悔して信仰に入り、神国運動に参加したものの数は数えきれない。

 近世日本の産める最大の予言者、信仰的英雄として、その感化は永久につづくであろう。
                            
                〔東京家庭学校校長・上水保育園園長〕















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