スポンサーサイト

上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。

連載:賀川豊彦の著作ー序文など(第145回)

1

「姫路城・千姫の小径にてーでんでんむし」(今日のブログ「番町出合いの家」http://plaza.rakuten.co.jp/40223/)



  賀川豊彦の著作―序文など

     わが蔵書棚より刊行順に並べる
     
             第145回


    『賀川豊彦全集17』(第8回配本「月報8」)


  
 『賀川豊彦全集』の第8回配本は、昭和38年4月10日に「文学作品(小説)」として分類されている第17巻が刊行されました。

 今回の「月報8」には、「童心」と題して小田切信男氏(小田切医院院長)、「日本はアジアと共に」と題して吉村静枝氏(豊島神愛館館長)などが寄稿しています。

 いずれも、貴重な文章ですので、前回と同じく月報の前記二つを取り出して置きます。




           『賀川豊彦全集17』第8回配本「月報8」

                  童   心

                  小田切信男


 世にはエライ立派な人は少なくありません。しかし、そのような人で心から好感のもてる人はそうざらにあるものではありません。徳富翁が同時代の日本人の、しかも対照的な内村・貿川の両先生を讃えたことは特筆すベきことでありますが、私には両先生こそ最も敬し愛しうる稀な人格でありました。しかもこの両先生には特に心ひかれる共通点を見出しているのであります。それは、その人の偉大さにおおわれてしばしば見失われがちな童心であります。もちろんこれは神を父と呼ぶ子の自覚から自然に流れ出たものでありますが、私は、この神による童心にこそ愛すべき「人」を見出したのであります。なぜなら童心の人なる信仰者には老人なく、英雄・超人・聖人もあり得ないからであります。

 賀川先生は診察の目的ではなしに新宿時代の小院をご訪問下さったことがあり、無理に尿を採って頂いて顕微鏡検査を行ったことがあります。その折、短い会話の中に終生敬愛すべき童心の人を発見したのであります。その後四谷の医院新築感謝会において、激励のお言葉を頂いたことも忘れ難い感謝であります。

 私の五人の子供等は賀川先生の松沢教会の幼稚園や日曜学校で育てられ、いずれもすごい賀川先生のファンでありました。夕の祈りに、賀川先生のご健康とお仕事とを守り給えと祈る小さな末の娘の祈りには、ハッと心を打たれるものがありました。それが人を尊敬することを知らぬご時勢であっただけに、子供等に「尊崇の人」貿川先生のあることは誠に嬉しいこと、有り難いことでさえありました。

 昭和三十五年四月二十三日夜、私はお宅にお見舞をかね、渡独のご挨拶にお伺いいたしました、その時奥様から、先生は四時間程前から意識不明と告げられ、驚いて二階のお部屋に伺ったのであります。ベッドに横たわり、その身に「キリストの傷痕」(ガラテヤ六・一七)を刻む先生のお顔には、もはや生気なく、意識なく、血圧も極めて低く辛うじて計れるくらいのものでありました。慢性の腎炎から心筋梗塞症、そして、その後しばしば出没性の垂下性肺炎に襲われ、次第に心力を低下し、今や危篤状態に陥ったものと判断せざるを得ませんでした。しかし、常に巨大な人格はヨハネ伝の宣言にも似て(一一・二五~二六)そのまま不死であります。ご家族の方々は、たとえ死の不安を抱いていたとしでも、今がその時とは到底考えられないという、その心情はよく分ります。もちろん入院中も、しばしば危篤と告げられながら幾度も危機を脱し、そのため賀川先生には医学的判定は定め難いと医師達をして嘆かしめた程でありました。しかし「今」が「その時」であると知った医師は真実を語らねばなりません。奥様はじめご家族の皆様にご臨終の近接を告げると共に、私は病院から最後の治療としての注射薬を急ぎとりよせたのであります。

 特にうす暗くしてある電燈の下に、先生の喘ぐ呼吸の荒々しさは、きびしい定めの時に
急ぎつつあるものの如く、人々の心に痛みとなって反響して来ます。父と子との繋りを手に握りしめるご長男、或はひざまづき或はベッドに寄り添い見守る人人、奥様はやや離れて祈るが如くでありました。側に立つ私は突如先生が――あたかも眠より今目醒めたかの如く目を見開き、あの童心の微笑を浮べて、挨拶なさいましたのを見てびっくりいたしました。しかも、そのまなざしは、その瞬間天を仰いで祈るように見えました。「先生!と呼びかけますと、先生は重々しく頭を廻らしはじめ、周囲の人々を見渡されるのかと思わしめましたが、その頭の重さを支えかねるものの如く、ガクッと左側に頭を落すと共に、世を去られました。大いなる「瞬間死」の終焉! その時奥様はツト手を差し延べ、先生の頭にやさしく触れ「よくお働きになられました」「御苦労様でした」と万感を胸に秘めてお別れのご挨拶を述べられました。私は襟を正し、声を出して祈りました。この人を日本に遣し給いし神に感謝し、その信仰と戦闘の生涯を讃えつつ。

 数日後、私はアンカレッヂよりハンブルグヘの空の旅で賀川伝を読み続け、北独乙巡回講演の旅ではしばしば求められて賀川先生を語り、会衆の共感と偉大な日本人キリスト教徒の死に対する弔意をうけたのであります。

 ドクトル・カガワは独乙では「世紀の聖者」であり、私には大いなる、神の「童心の人」であります。                                 
                                  〔小田切病院院長・医博〕




                日本はアジヤと共に

                  吉村 静枝


 百三人の賀川先生を思慕する人々によって語られたキリスト新聞社発行の「百三人の賀川伝」は、それぞれの異なった立場から、その多彩多方面な賀川豊彦先生をあらゆる角度から書き記されております。私はそれを読んで、私の知っている賀川先生が、先生の全人格のほんの一部分でしがなかったということを知って驚いております。

 そしてその多くの人を感動させた出来事の全ては、賀川先生が純粋にイエスにならおうとなさったそのおん足跡でしょう。

 私がある年のイエスの友会の新年修養会に出席して間もなくのことでした。イエスの友会というのは、次に記す五つの綱領をもっていて、社会奉仕に専念しようとする人々の集りでした。その綱領というのは、
 一、イエスに在りて敬虔なること
 一、貧しぎ者の友となりて労働を愛すること
 一、世界平和のために努力すること
 一、純潔なる生活を尊ぶこと
 一、社会奉仕を旨とすること
以上のようなものでした。小さいながらも、私もその綱領に従おうと努力しはじめました。

 先生は以前外遊の時、インドで自動車事故にあわれて、ひどく背骨を打って痛み始めたころ、足がはれて呼吸も少し困難だといっておられました。一度阪大の外科で診察を受けたいとおっしゃって、その日診察を受けるために西宮を出られました。幸い私は自由になる時間がありました。それに私は看護婦の資格も持っていました。又先生が診察を受けたいと申される岩永外科の勝手もよく知っていましたので、お供をする光栄に浴したわけです。

 酉宮を出て梅田で降り、大阪駅前を通りすぎようとしますと、大ぜいの人の波が寒い正月の風に吹きさらされた中に、兵隊が一群となって、日の丸の旗のはためく中で訣別の挨拶をしておりました。先生は黙々とふり向きもせず、歩いておられます。私はその後を追っかけるように、小走りに追いすがりながらききました。
「先生、今度の戦争はどちらが勝つでしょうか」
 先生はちょっと立ちどまって、奇異な面持ちで私を見つめられました。そしてあの悪い目をしょぼしょぼさせながら「どっちが勝っても悲惨だよ」「でも日本が勝つでしょう」

 私はそのころの多くの日本人が考えたように、日本は闘えば勝つもの、勝ったらいいじゃないか、貧しい日本の生きる道は戦争に勝って領土を拡げるより方法はないのだと考えておりました。

 「戦争はね、両方とも傷つくものなんだ。剣で勝つ者は剣で破れる。ましてアジヤが闘ってはいけない。日本はアジヤと貿易することによって、はじめて生きる道があるんだよ」

 岩永外科での診察は、思いのほかに暗いものであったように記憶しています。
 病院を出ると先生は、私を映画に案内しようとおっしゃってくださいました。そこで私は、いつか見た戦争映画の帰りにつくった俳句を示しました。
  月ふくれ月地平線に触るる怒り
というのでした。

 賀川先生は字に書いてみるようにといわれますので、電車のゆれ動く中で下手な句を書きつけました。先生は眼鏡に紙片をくっつけるようにして読みながら、
 「十分戦争の怖ろしさを知っているじやないか。よくできてるよ。句集を出すといいね……」
とおっしゃってくださいました。私は得意になってしまいました。そこで私の好きな句を二、三お目にかけました。

  バタ煙逃げゆく窓のうろこ雲
  鶏頭が夕焼雲につゞく道

近詠で良い句評をとったもの

  住吉の年老る松に月凍てき

があるんですと話しますと、
 「君は月だの雲だのが好きなんだね――」
と、じっと句を見つめておられました、

 その時にいっしょに見た映画は、天然色の珍しいものでした。アメリカもので、私がはじめて見た美しい映画でした。北野劇場であったように紀憶しています。「石の花」などのソ連のものが出たのは、それからもう少し先ではなかったでしょうか。先生はきっとその天然色の映画というのがどのようなものかごらんになりたかったのではないかと思われます。その時私は私のお供の労をねぎらってくださったと考えて、良い気になっておりましたけれど。
         
 映画の筋はアメリカのある有名な男優が、田舎から出てきたまだ幼いように若い女優志望者に新鮮な才能を見出して、彼女を愛し、その娘が成功するようにいろいろ尽力するのでした。その新進の女優が名声をかちうるにつれて、その有名な男優は酒に身を持ちくずし始め、映画をとるにも時間をまちがえたり、酔払って、さんざん監督や助手に苦労をかけ、演技も不真面目になり、人気を落してゆくという筋で、最後にはその女優の別荘でアル中の身体を養生していましたが、失望のはてに海にはいって自殺するというもので、最後のシーンは、真赤に沈む夕陽が血のしたゝりのようで、印象的でした。
       
 私は映画が終るまでの間、こんな人間臭い映画を賀川先生はどんなに考えて見られているだろうかと、時々不思議に思ったり、また途中で立ちあがって、外に出られるのではないかとさえ心配して、先生の横顔をちらちらと盗み見たりしました。
             
 先生はあの弱い限で一生懸命に見ておられるではありませんか。私は不思議なものを見る思いでした。
               一
 そのころ先生は「魂の彫刻」だの「銀鮫の進路」だの、次々に発表しておられた時でした。「死線を越えて」は、今の石原慎太郎以上に若人の血潮を湧き立たせ、また美しいヒューマニズムをうたいあげたものでした。                         

 やがて映画が終り、外に出ました。全く陽がくれていて、往く時あの駅前をさわがせていた人波も今はまばらの淋しい駅前風景でした。
 「ありがとうございました。よい映画を見せていただきまして……天然色は私はじめてでした」

 私がていねいにお礼を申しますと、
 「馬鹿だねえ……あの男は、酒のんじやって海にはいって死んじやったよ、はっはっはっはっ」

 突然、先生はお腹の底からおかしそうに笑われるではありませんか。驚きました。全く。

                                     〔豊島神愛館館長〕





スポンサーサイト

コメントの投稿

非公開コメント

プロフィール

keiyousan

Author:keiyousan
このブログのほかに同時進行のブログもうまれ全体を検索できる「鳥飼慶陽著作ブログ公開リスト」http://d.hatena.ne.jp/keiyousan+toritori/ も作ってみました。ひとり遊びデス。

最新記事
最新コメント
最新トラックバック
月別アーカイブ
カテゴリ
検索フォーム
RSSリンクの表示
リンク
ブロとも申請フォーム

この人とブロともになる

QRコード
QR
上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。