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連載:賀川豊彦の著作ー序文など(第148回)

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「カトリック神戸中央教会にて」(今日のブログ「番町出合いの家」http://plaza.rakuten.co.jo/40223/)



       賀川豊彦の著作―序文など

      わが蔵書棚より刊行順に並べる
 
          第148回



     『賀川豊彦全集1』(第11回配本「月報11」)


  
 『賀川豊彦全集』の第11回配本は、昭和38年7月10日に「神・キリスト・聖書・教育」として分類されている第1巻が刊行されました。

 今回の「月報11」には、「キリストに近く生きた人」と題して小崎道雄氏(霊南坂教会名誉牧師)、「淡々とした無の生活」と題して緒方彰氏(神戸職安次長)などが寄稿しています。

 いずれも、貴重な文章ですので、前回と同じく月報の前記二つを取り出して置きます。





            『賀川豊彦全集1』第11回配本「月報11」

                キリストに近く生きた人

                   小崎 道雄


 それは一九六〇年四月二十三日早朝、賀川先生夫人春子さんより電話で、先生の容体がよくないとの連絡があった。妻の静と二人で賀川先生宅に行ったのはその朝十時頃であった。都留先生も来訪されておった。春子夫人の案内で二階の先生の病室に入ると、先生は静かに病床におられたが、久しぶりに見る先生はその顔が非常に小さく、少年の如くやさしく見えた。

 私と都留先生と握手に続いて短い祈祷を捧げると、直に先生も祈祷を捧げられた。その声は小さくてよく聞えないので、私は耳を先生に近く持って行った。先生は、
「世界に平和を与え給え。日本の教会が強くなって充分に福音を宣教できるように助け給え。アーメン」
と祈られた。短いが、この祈は先生の全生涯を表現する真に完全な言であると思われた。

 私共はしばらくしてお別れしたが、その夜ついに先生は最も有意義な生涯を終られたのであった。

 不思議にも先生と私は同じ明治二十一年の誕生で、私の方は十一月十六日で少し先生の弟である。人生の最も不思議なことは、神の摂理により各人がそれぞれ様々の人々と知合となり、又面識の折を与えられることである。

 私が先生を知ったのは大正十一年十月北米の留学を終って帰国してからであるから、ざっと四十年の昔であった。特に大正十二年の関東大震災に際して、先生は直に上京して専ら震災救済に日夜指導の任に当られ、私は今の基督教協議会により組織された基督教震災救護団の主事として、海外諸教会よりの協力援助により救済と伝道と慰安の事業に当ったのであった。それより引続いて「神の国運動」の全国伝道等、協議会は全面的に賀川先生のご計画で活動をすることとなった。

 右の様な関係で協議会を中心に先生の奉仕活動に参加することとなり、昭和十六年の第二次世界大戦の始まる年の春にはキリスト教の親善使節の一員として先生に従い北米に旅行することとなった。

 日米の不幸なる戦争の起らんとする時に、日本の教会が賀川先生を中心としてこの使節団を送り得た事情に就いては、過日、筧光顕氏が「最後の日米和平工作」と題してキリスト新聞に連載されたが(キリスト新聞八一二~八二六号)、今から考えると、これこそ歴史に働き給う神のみ手であって、このことのため戦後直に教会は日米協力を実現できたばかりか、タリスチャンは平和時にも戦時にも一つのキリストの体に属するものであることを具体的に記録する結果となった。

戦後先生は、実に百パーセント以上の活動と奉仕をキリストに献げ、文字通り最後の血の一滴までもキリストに献げ尽されたのであった。

 北米の人々が、印度のガンヂー、日本の賀川と言って、この稀に見る人物に絶大な尊敬を払ったことは世人のよく知るところである。私共はこの歴史に数少い神の人に直接、近く接触し、よきご指導を受けることができたことは全く神の特別な御恵みとして、感謝する言もないのである。先生の偉大なことは賀川全集だけでも証明することができるが、全くキリストに近く生きた人であった。

 神が賀川先生を日本に与え給うた恵みは実に大きい。神は日本民族を救うため多くの証人を与え給うが、先生の如く広くかつ徹底的に日本人全部を救うために遺された方はほかにないように思う。

 「神はそのひとり子を賜わったほどに、この世を愛して下さった。それは御子を信じる者がひとりも滅びないで、永逮の命を得るためである。神が御子を世につかわされたのは世をさばくためではなく、御子によってこの世が救われるためである」(ヨハネ三・一六~一七)

 先生は一人残らず救われることを信じた人であり、神はさばく神でなく救う神であることを先生の全生涯で立証された。永遠の生命は先生の如く永逮の生命を持つ人を知ることによって最も容易に人々に与えられる。先生が日本に誕生して七十年の生活を許されたことは実に神の大なる恵みである。

 先生を想うことにより与えられる神の恵みと感謝は、如何に尊いもの、またありがたいものであるか分らない。

                               (日基教団霊南坂教会名誉牧師〕






             生涯のお友達 賀川先生と父(下)

                  山室 民子


 賀川先生と父との交りは、その後も長く続いた。父は先生の招きで再度廃娼運動の会合のために神戸に赴いた。賀川夫人には、社会事業に携る者はその家庭を犠牲にし、妻たる者も負担が重いので注意するようお話したと言うが、これは彼自身の辛い体験に基く忠告であった。

 大正十年十二月一日号「ときのこゑ」掲載の父の文中に「賀川豊彦君と邂逅す」という一項があり、次のように記してある。

 「十一月五日(土)朝大会席にて久し振に賀川豊彦君に出あふ、別室にて一時間ばかり話し合ふ、真に益ある対談であった。同君の健康が益々宜しいのが何より嬉しく覚えられた」

 昭和二年三月十六日(水)の父の日記に次の一節がある。

 「綾部ニ到着、賀川豊彦君ガ三日ノ特別運動ノ後、中耳炎二罹リ高倉氏方ニネテ居ラルルト聞キ見マヒニ立寄ル、共二祈ツテ別ル」

 昭和五年三月Ξ十一日付の父から賀川先生に送った手紙には次のように書いてある。

 「『基督教世界』を見て岡山で病気せられたことを知り驚き入りました。其後如何でせうか。何分無理が続いて居りますから御体にさはらぬやうにと、それのみ心配するのであります。」

 昭和八年九月四日の日記に父は次のごとく記している。

 「賀川君の親切により服部弥二郎博士来診、余の病気は動脈硬化の初なりとのことなり、そのつもりにて養生せざる可からず」

 昭和九年四月、父は石井十次氏永眠後二十年の記念の催に参列のため茶臼原に赴いたが、途中賀川先生らと同車した。夜は同じ旅館に泊り、次の日には先生も父も共に諸集会に出た。父は朝の式で説教し、夜は先生の語られた後で父も講演した。その日、先生と父とは石井氏の慕前で互に腕を組んで記念撮影した。

 昭和十五年三月父が重態に陥った時、旅行中の先生は賀川夫人に私たちの家を見舞うようはかられた。同年六月神戸で開催の父の追悼講演会では、「霊魂の熱愛者、労働者山室軍平氏の瞑想」と題し、一時間二十分にわたって語られた。

 昭和三十一年三月十一日の東京神田の救世軍中央会館における父の記念会においても、賀川先生は「宇宙創造と創造精神」なる講演をしてくださった。

 なお先生の著書の中には救世軍や山室軍平夫妻について語られた個処が少なくないが、それは別の機会に一層よく調べて述べさせていただくこととしたい。

                                     〔前救世軍書記長官〕





                 淡々とした無の生活

                   緒方 彰


 私が賀川先生に直接お世話になったのは昭和十三年八月である。ちょうど瀬戸内海の豊島に胸部疾患者のため、保養圃を開くことになったという記事をイエスの友機関誌「火の柱」で知り、早速先生あてお順いし、豊島を訪ねることとなった。かくして開設早々の保養園で、日曜学校のお手伝やその他の雑用をさせていただきながら療養生活を送った。

 ところが開園後数ヶ月、「神愛館」の建設が完成しただけで、第二棟の基礎工事の最中に村会議員全員の署名による反対決議がなされるところとなり、先生は躊躇することなく、

 「皆さんのと要望に副い速かに保養農園を閉鎖いたします」

 と宣言され、あっさり島から退却されたのです。その際の実にいさぎよい淡々とした先生の態度に、私は大変教えられました。

 その後昭和十七年の夏から一年八ヵ月にわたり、第二回目の療養生活を豊鳥神子ヶ浜で送ることとなったのですが、折しも、平和運動の○により、憲兵隊に捕囚後の心身の静養をかね、病人の世話を直接されていた際でもあり、先生と起居をともにする機会が与えられたのであります。

 早朝に起きて読書され、朝食前にゲッセマネ(先生の命名による岩山)で静かに祈られる姿、また食前の讃美歌を大きな声で歌い、病人の癒えるために熱心に祈られる敬虔なお姿は、療養する者に強い慰めと快復への希望を与えずにはいられませんでした。

 特に感激したことは、先生と一緒に入浴するたびに、背中を流していただいたことです。私が「先生の背中を流させてください」と言っても、「僕はよいから」と言って、どんどん洗ってくださるのには恐縮しました。

 それはイエスが弟子の足を洗われた故事にも似て、いつまでたっても忘れえぬ先生の立派なしかも愛情あふれる生きた教訓でした。

 私の病気も大変快方に向った翌年の正月早々、西宮市瓦木村の冬期福音学校へ講師として出席されるので、私も鞄持をして先生に同行することとなった時のことです。

 三等車の狭い席で揺れながら一生懸命ノートにペンを走らせておられる先生に向って、
 「何を書いておられるのですか」
 とたずねたところ、
 「これは『宇宙目的論』といって、自分の畢生の論文だ、これを書いていると楽しくて、宇宙の神の意匠がだんだんと深くわかるのでこんなに興味深いことはない」
 と、寸暇を惜しみ、車中でも筆を休ませぬ熱心な様子は、
 「わたしの父は今に至るまで働いておられる。わたしも働くのである」(ヨハネ五・二七)
 といわれたイエスの御言葉に似て、何ともいえぬ感激を覚えたものです。

 やがて、阪急西宮北口駅を降りて一麦寮へ向う途中、先生は私の持っているボストンバッグを「僕が持ってあげよう」
 といって、どんどん歩いて行がれるので、辞退しようと追いかけても
 「いいよ、君は病人だから」
 といってサッサと足速く進んで行かれる様子を見て、感涙にむせんだことでした。

 さらに、その福音学校開校中のある時、無名の一青年が先生の宿舎(武内勝氏宅)を訪ねてきた際のことです。その何年が金を使い果して困っていることを聴かれた先生は、
 「君これを持って行きなさい」
 といって金一封を渡されたのです。その時先生の財布には五円しか入つていないことを自分は知っていましたが、先生はそれをそのまま渡してしまわれたのです。青年が帰った後で、
 「全部あげては困るのではないのですか」
 とたずねたところ、
 「神様がまたくださるよ、僕の生活はいつもこんな無の生活だよ」
 と至極平気な様子に、またまた強く感動させられたのです。

 かくして数ヵ月の短い期間でしたが、先生と同じ釜のめしを食べる光栄ある機会を与えられ、先生の言葉だけでない実生活に触れて、ますます賀川先生の真価の偉大さを知り、爾来先生が亡くなられるまで、否先生なき現在に至るも、実践された贖罪愛が永遠の生きたことばとして私の魂に内住しているのであります。

                             〔神戸職安次長・イエスの友中央委員〕












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