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連載:賀川豊彦の著作ー序文など(第149回)

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「神戸映画資料館」(今日のブログ「番町出合いの家」http://plaza.rakuten.co.jop/40223/)


       賀川豊彦の著作―序文など

        わが蔵書棚より刊行順に並べる
  
             第149回



      『賀川豊彦全集23』(第12回配本「月報12」)


  
 『賀川豊彦全集』の第12回配本は、昭和38年8月10日に「文学作品(随筆・旅行記・その他」として分類されている第23巻が刊行されました。

 今回の「月報12」には、「善事不怖」と題して池田鮮氏(日本YMCA同盟総主事)、「日米会談の裏舞台」と題して阿久沢英治氏(東駒形教会会員)などが寄稿しています。

 いずれも、貴重な文章ですので、前回と同じく月報の前記二つを取り出して置きます。





            『賀川豊彦全集23』第12回配本「月報12」

                    善事不怖
                 
                    池田  鮮


 「君は賀川さんをよくご存じでしたか」と、ごく最近聞かれたことがある。所はワシトンD・C郊外アーリソトソである。人はアメリカYMCA同盟前総主事ユーヂン・バーネット博士であった。

 氏はアメリカにあるカガワ・フレンド協会の一員であると言い、「あまり熱心ではないがね」とすまなそうにつけ加えられた。

 さて、どれほど私が賀川先生を存じあげているかという問題になると、直接的、間接的の二方面にわかれる。

 幾度か壇上縦横に、白紙に墨で書きつつ語る先生を見上げたことがある。「神による新生」その他の小誌の幾冊かを感激をもって読み、かつ友人らに贈ったこともあったし、時に京王線に乗車するお姿を見かけた。さらに三等寝台の朝、静かに拡大鏡をもって十銭の紙表紙聖書を読んでおられる先生の横顔を見た……等、すべて間接的である。

 大戦中のある時期、私は上海におったが、中國基督教界の人々は、この時期に賀川さんは何を考え、何をしておられるのだろうということが問題になった。色々と情報が人々を通してもたらされた。国家主義に迎合しているというような噂、また憲兵隊に軟禁されて活動出来ないというような話、そして或る日、当の賀川さんがやって来られた。

 昭和二十九年頃であったろうか。隣あって食事をした時、先生はご自分の皿からハムを私の皿にのせた。 「僕の眼には豚肉がわるい」というようなことをいわれた。食糧事情がわるい日本から来られた先生に私は今度は自分の皿から鶏を先生の皿にうつした。「肉のうちでは羊の肉が一番身体にいいんだ、聖書に書いてある通りだね」ともいわれた。これは比較的直接的経験に属する。が、バーネット博士にいわれた時、反射的に思い出した、より直接的なものは次のようなものであった。

 終戦直後のことだから、学生達はアルバイト等で苦しんでいた。銀座二丁目か三丁目の中通りだったと思うが、学徒援護会なるものの事務所があった。学生らが商品の販売をするのである。ところが学生達は経営者が搾取するといって、賀川さんに調停を依頼した。

 賀川さんは経営者と会って、再組織をすすめ、賀川さん自ら理事長となり、YMCA同盟の来包敏夫氏、それに学生部主事をしていたので私も理事の末席に加って、学生達の希望するようなものにしてゆかうとした。

 その第一回理事会の印象が、賀川先生というと直ちに思い起されるものなのである。

 従来の経営者はむろん基督者ではなかったが、先生には一目も二目もおいていた。或は畏敬の念さえあったように思う。彼らは「先生の言われるとおりだが、今日の政治状況では、よいことでもそのとおりには出来ないところに私共の苦衷があるのです」というようなことを述べるのであったが、先生は断乎として言われた。

 「よいことがとおらないということはありません。法律といえども、政府といえども、よいことには反対することはできません」

 そしてこのヤクザのような連中に、親分のような親しみと包容力とを示して、
 「君やろうじゃないか」
 と言われた。

 この言葉、この碓信、この態度は、すべてを圧倒した。私はその時しみじみ先生は偉大であると感じた。

 私は先生を多く知らない。しかしこの小さな事件を通して、貿川先生を知ったと思う。賀川先生を生かしていたスピリット、信仰と愛とに、私はじかにふれたと今でも思っている。
                                  〔日本YMCA岡盟総主事〕




                 曰米会談の舞台裏

                  阿久沢英治


 昭和十六年四月二十二日に渡米した賀川先生は、同年八月十八日に帰国されたが、横浜港へ迎えに行った私の顔を見るやいなや、
 「阿久沢君、日米会談をどう思うか」
 という質問を発せられた。
             r            I  JI
 その当時日本は支那事変という泥沼に足を踏み入れて進退難に陥り、国民を挙げて心を痛めていたのであった。

 日米会談というのは、時の内閣総理大臣であった近衛文麿公が事変の収拾をもてあましていたおりから、十五年十一月二十九日、米国力トリックの最高学校メリーノールの事務総長でカトリックの神父補助監督ドラウト師が産業組合中央会理事井川忠雄氏と会見したのに端を発し、近衛ルーズベルト会談の案が持ちあがり、その計画は近衛総理の共鳴となり閣議を動かし、十六年一月二十三日野村大使の特派にまで進展し、ついで井川氏及び当時陸軍軍事課長であった岩畔豪雄氏等の出発となったのである。

 野村、井川、岩畔氏等の努力が漸次功を奏し、日米会談も順調のうちに展開するかに見えたが、時あたかも、独伊両主脳と会談、帰途モスコーに立寄り、スターリンと中立条約を締結、日本の運命を独りで担って立つが如く自信過剰に陥り、軒昂たる意気と凱旋将軍のような思いあがった態度で帰国した松岡外務大臣は、根本的に時局認識の見通しを誤り、近衛総聡の日米会談に非協力であったばかりか、むしろこれに妨害を加える態度に、せっかくの日米会談も殆ど頓挫するかも知れぬ状態に陥ったのである。

 天皇陛下もお心をいためられ、近衛総理も遂に松岡首切りのために十六年七月十七日内閣総辞職をなし、翌十八日第三次近衛内開を組閣、八月四日近衛ルーズベルト第二次会談を決意して野村大使に訓令を発し、八月二十八日近衛文書をルーズベルトに手交、近衛ルーズベルト第二次会談は本格的に軌道に乗り出すかに思われたのである。

 賀川先生は在米中、この会談成立のために三度もルーズベルト大統領に会い、井川、岩畔氏等と共に野村大使を助け尽力された結果、第二次会談即ち近衛ルーズベルトハワイ会談のお膳立ても一応の目鼻がついたのであった。よって井川、岩畔氏等と共に急拠帰国してその達成に没頭されたのである。

 私はそんな事情は全然知らなかったので、「どう思うか」と言われても「かいもく見当がつきませんね」と返事をするよりなかった。すると先生は、
 「日米会談はまとまるよ!」
 と先生一流の直截的な言葉で断言されてから、
 「僕は全力を挙げてこの会談成立に協力しているのだ。君も応援してくれよ」
 と言われた後、当時の国内情勢についていろいろと質問され、
 「これから出来るだけ機会をつくって世間話を聞かせてくれ」
 と言われた。

 当時の国内情勢は、このせっかく希望をかけた日米会淡は全く行きずまり、日本は何とも形容し難い重苦しい空気に包まれ、国民の意気は極度に阻喪沈滞し、証券市場の如きも全く火の消えたような閑散状態を辿っていた。

 それが先生らの帰国後間もなく、八月二十八日には近衛文書が野村大使を通じてルーズベルト大統領に手交され、第二次日米会談は急に曙光を見せはじめ、九月に入ると同時に 「近衛ルーズベルトハワイ会談近く開かる」という各新聞いっせいの報道に国民の愁眉は夜明けが来たようにひらかれ、証券市場も急に活況を呈し始めた。

 しかしこの好機も、軍部のうちにあった支那事変の解決を好まぬ勢力によって、九月六日には日米会談よりも戦争に重点をおくような御前会議の決定があり、南仏印の進駐となって、すぺての努力は画餅に帰してしまった。

 この会談が成果を収めていたならば、日本はあんな哀しい敗戦焦土の憂目も見ず、世界の歴史も今と全く異っていたであろうに、すべては夢のように消えた。苦い思い出の記録である。

 しかし、賀川先生の人類愛から出発した、平和を希う祈りは永遠に続けられて行くであ
ろう。      
                                  〔日基教団東駒形散会会員〕











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