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連載:賀川豊彦の著作ー序文など(第154回)

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「灘の酒蔵」(今日のブログ「番町出合いの家」http://plaza.rakuten.co.jp/40223/)



       賀川豊彦の著作―序文など

      わが蔵書棚より刊行順に並べる
 
          第154回



    『賀川豊彦全集4』(第17回配本「月報17」)


  
 『賀川豊彦全集』の第17回配本は、昭和39年1月10日に「神・キリスト・聖書・教育」として分類されている第4巻が刊行されました。

 今回の「月報17」には、「イエスの“めしうど”」と題して都留仙次氏(前明治学院院長)、「若い日の先生」と題して牧野仲造氏(松沢教会会員)などが寄稿しています。

 いずれも、貴重な文章ですので、前回と同じく月報の前記二つを取り出して置きます。




           『賀川豊彦全集4』第17回配本「月報17」

               イエスの“めしうど”

                 都留 仙次


 賀川豊彦はパウロと同様、一生涯キリストにつながれた囚人であった。イエスはベテロやヨハネに『今から後、わたしはあなたがたを「しもべ」と呼ばないで「とも」と呼ぶ』と告げた。弟子達の実質は僕であり、また友であった。友は王子婚宴の客である。王子と悦びを分つ者である。賀川はイエスの僕であり、また同時に友であった。彼は一生、主のくびきを負うたが、それは感謝であり、また歓喜であった。彼はイエスの友会を主催した。

 主の僕として、また「めしうど」として緊縛されたが、それは真実の自由であった。バウロはこのような自由をガラテヤ書に説いている。主の僕は王侯の前でも迫害者の前でも、恐れることなくひるむこともない。

 賀川豊彦は魂(こん)かぎり主を愛した。しかし、彼の愛にもまさって主は彼を愛した。彼には人に吹聴すべき系図はなかった。頼むべき手蔓(てずる)も学閥も持だなかっだ。彼は直接に神から召され、選ばれ、捕えられた聖なる器であった。彼はキリストから立てられた万国民への予言者であった。彼による福音の証言は地上の国境を越えて拡がった。彼はイギリスにも、独仏にも、南北米にも、中国やインドにも主の福音を宣べ伝え、地球を前後幾巡廻したであろうか。数えきれないほどであった。

 賀川は決して頑健な体躯の持ち主でなかった。彼はむしろ病弱であった。しかし、主は彼を支えていた。彼は弱い脆い土の器であったが、主は驚嘆すべき程の―-彼自身があやしみを感ずるほどの――力を宿してくれた。彼は四方から患難を受けたが窮しなかった。途方にくれたが行き詰まらなかった。迫害にしばしば遭ったが見捨てられなかった。倒されたが滅びなかった。彼は世をも人をも惑わす者のように誤解されたが、しかも真実であっだ。攻められたが殺されなかった。死にかかっているようであったが、見よ、生ける者であった。悲しんでいるようであったが常によろこんでいた。貧しくあったか多くの人々を富ませた。何も持たないようであったが主にあって凡ての物を持っていた。彼はしばしば鞭打たれ、つばきされたが呟やかず、また人を呪わなかった。彼は嘲ける者に「平安」をもって答えた。彼は罵しる者に「祝福」をもって応えた。彼は神と人とに見すてられたような時にも神にむかって愚かなことを言わなかった(ヨブ記一・二二)。

 賀川はどんな境遇にいても足ることを学んだ。彼はありとあらゆる境遇に対処する秘訣を体得していた。彼は貧に処する道を知っていた。彼は富におる道をも心得ていた。彼は飽くことも、飢えることも、富むことも乏しいこともよく承知していた。そして富にも婬せず、貧にも屈しなかった。

 彼は極度の苦離、絶望、非境の社会に突入し、同棲して神気悦楽、浄潔であっだ。彼は悲親者の唯中で徹底的に楽観した。彼は「くらやみ」の中に置かれた光であった。悩み苦しむ人々と共に泣いたが、創造者による宇宙目的の達成を確信する楽天家であった。

 賀川はその地上生活終焉の数刻前、最愛の妻春子と、親しい友人三人と握手を交わしてから、次のように祈った。

  神様感謝いたします。
  教会をお恵みください。
  日本をお救いください。
  世界の平和をお守りください。
  すべてをみ手に。安心。
  イエス・キリストのみ名によりて。アーメン。

 これは彼の最後の発言、最後の祈りであった。これは彼の信仰、思想、生活、事業の要約、エッセンス、結論である。

 彼は一切を創造者のみ手にゆだね、安心して復活の主のもとに帰った。
                                     〔前明治学院院長〕
  




                 神の人だった

                  正木良一


 それは昭和六年のことだった。神戸YMCAで会計がこまっている、帳簿にくらべて現金が足りなくなっているという。理事会から精査を頼まれたわたしが調べると、会計組織が乱雑で複式簿記を大福帳式でやっており、三種の会計が区画されていない。伝票も不完全で、結局赤字は六百円ないし千四百円と判定するほかなかった。貸借対照表の科目にまちがいのあることを理事たちも気づかなかったのだ。その年の六月四日に開かれた理事会で、私はこの報告をした。理事一同が対策に苦しんでいるとき、少しおくれてこられた賀川さんが大札を一枚わたしの前に置いて。
 「僕はこれだけ出します」
とただ一言。しばらくして退席された。わたしはあっと驚いた。――賀川さんにしていただくには及ばない、失礼だが、たくさんおかねがあるはずはない、大切な仕事にいくらでもおかねが必要だろう、わたしでもそのくらい出せない身分でもないが、出す必要を感じていない、賀川さんという人は何という向う見ずのことをなさる方か、とその時に思った。

 稿料かなにか、ちょうど手にはいったのだろう。ほかの理事は誰も出しはしなかったと記憶する。もしわたしなら、大きな支出はかれこれ考えて比較検討してかたく決意して実行する。賀川先生の態度を長いあいだわたしは考えた。会計係をせめないで、理事がまず責任をとり応分のつぐないをする。事業を平和に運ばなければならない、と先生は直感して即行されたのではないか。やっぱり神の人だった。

 終戦後のある年NCC(日本キリスト教協議会)の総会が銀座教会で開かれた際、賀川、富田両先輩が伝道方針について衝突、大激論をした。場内手に汗をにぎるような場面だった。富田牧師は最有能な指導者、賀川先生は燃えたつ伝道者、教会が主のからだであり、それなくては伝道はみ心にそわないと一方は主張する。福音に感激し、救いに泣く身が、み声を民衆に伝えないでおれるか、教会は伸びようが縮まろうがそれは主にまかせると一方はさけぶ。方策と熱情と、地の声と天の声と。両先生の激した顔と声、わたしは今も忘れない。

 近年信徒の使命が強調されるが、教会人のわくをはめる論もある。教会を忘れたり、離れた信徒伝道は孤立のはかなさがあろうが、社会生活に信仰を生かそうと志すとき、教会のさしずを待ち牧師の賛同を求めていてはまにあうまい。あのときの大論戦は今もつづいている。

 一九二三年九月八日、神戸市内全教会の代表が中央教会に集まって関東大震災の救援方法を協議していた。熱弁が続き方法は立たない。うしろの方にわたしは座し、右隣りが賀川さんだ。東京の様子がわからないので相談がまとまらない。すると賀川先生が立って、
 「いま救援の船が出る、利用するが良い」
と発言されたが、誰が行くか、何を積むかと問う人ばかりで煮えきらない。先生がまた立った。私はその顔を見あげた。
 「僕は行く」
と一言、そのまま出て行かれた。おどろいた、なんと果断な人だろう、身ひとつでどうなるのだろう。そのあとの先生の行動は皆の知るとおりだった。わたしは今にして思う。
 「行け、何も持たないで行け、必要なものはその時にわたす」
と主のみ声をきいておられたにちがいない。たしかに賀川さんは神の人だった。

                               〔日本基督教団信徒会専務理事〕
   



                   若い日の先生
                   
                    牧野 仲造


 川崎造船所のストライキ(大正十年)の直後から先生のお宅で居候になること二年間、その間に思い出されることを書いてみました。先生はストライキの犠牲者の生計を心配し、困っている者にはその生計費を届けに行ったことが思い出されます。神戸イエス団の会員の病気見舞の使い走りも私たち居候の仕事でありました。先生は藤永田造船、藤田農場の争議の指導に日夜奔走され、私も先生にお供して講演会に行くこともありましたが、臨監の警官から“弁士注意”“中止″を命ぜられることが常でありました。

 新潟県木崎村の小作争議の時、小作人の子弟だけの小学校の指導をしておられたのは大宅壮一氏であったかと思います。当時アインシュタイン博士が改造社の招きで来朝され、大都市で講演会があった際、賀川先生と会談されたことを思い出します。大杉栄、鈴木文治、久留弘三、青柳善一郎、安部磯雄、西尾末広、村島帰之氏等労働運動の指導者がしばしば先生を訪ねてこられたころでした。

 毎日曜日の早朝、さんびかを歌って貧民窟の路地を歩き、夜は路傍説教で街角に立ち、迷わざる九十九匹より迷える一匹を探ね喜び給うキリストの心をもって力をつくしておられました。私も神戸イエス団の“神は愛なり”と書いた十字架のチョウチンを持って出かけました。先生の朝の講義と礼拝が終ると、出席者は朝食をいただいて先生と親しく交りました。今日朝食祈祷会が各地でもたれておりますが、先生は四十年前から実行されておりました。

 賀川先生ご夫妻が台湾伝道から帰宅されるや酒乱の松井さんに前歯を折られた際、奥様が後からとめられましたがかえって倒されてしまったことを目撃して、何ともできなかった私自身の憐れさが思い出されます。また正月に神戸雲内教会の伝道集会に出かける際、食堂で酒乱の松井さんに短刀で刺されようとしたところ、先生は大喝して彼のそばによって行かれたため、彼はなすすべを知らずうろうろしていたことが思い出されます。先生はパウロのいう、神の僕として人を惑わしているようであるがしかも真実であり、人に知られていないようであるが認められ、死にかかっているようであるが生きており、懲らしめ
られているようであるが殺されず、悲しんでいるようであるが常に喜んでおり、貧しいようであるが多くの人を冨ませ、何も持たないようであるがすべての物を持っている、融通自在の信仰に徽しておられました。紙屑も再生産されればきれいな白紙になる様に、人間の屑の中に再生力を見出されて「だれでもキリストにあるならばその人は新しく造られた者である」(第二コリント五・一七)の原理に基いて、至難な人間再生を信じて貧民救済に心血をそそがれました。

 貧民窟にイエス団友愛救済所を設けて、病人に無料で治療を続けておられました。当時の医師は馬嶋僴氏でありました。賀川夫人の妹本多歌子さん、馬嶋夫人の妹さんか病人の世話をしておられました。貧民窟では、その日の糧に困る者で助けを求めに来る者には、賀川夫人も母堂にあたる芝ひろ姉も惜しみなく与えてくられました。賀川先生の結婚式に招かれた人は、聖書に書いてあると同じように貧乏人、不具者、足なえ、盲人でありました。聖書は多く真理がかくされていることを先生は身をもって具体化されました。先生は貧民窟の中で臨床社会病理学を研究され、「貧民心理の研究」を著わされました。生活不安に充ちた貧民窟にて、主の祈りを心からささげられていたことは忘れられません。貧民窟に「神は愛なり」と書いたチョウチンをともしてこられたその神様の心を、身をもって示された賀川先生の貴い人格と業績は、我国キリスト教史、社会運動史上に銘記されて感謝されることです。

 賀川先生の愛唱さんびかは四九五番、

  「我はほこらん ただ十字架を
   天ついこいに 入るときまで」

でした。自分を捨て、自分の十字架、いな民族の十字架を負うてキリストに従われた貴い生涯でありました。
 
                                  〔日基教団松沢教会会員〕












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