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連載:賀川豊彦の著作ー序文など(第157回)

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「白鶴酒造資料館」(今日のブログ「番町出合いの家」http://plaza.rakuten.co.jp/40223/)


        賀川豊彦の著作―序文など

       わが蔵書棚より刊行順に並べる
  
              第157回


     『賀川豊彦全集22』(第20回配本「月報20」)


  
 『賀川豊彦全集』の第20回配本は、昭和39年4月10日に「文学作品(随筆・旅行記・その他)」として分類されている第22巻が刊行されました。

 今回の「月報20」には、「お祈りの用意」と題して秦孝治郎氏(同志社理事長)、「新語の天才」と題して吉田源治郎氏(西宮一麦教会牧師)などが寄稿しています。

 いずれも、貴重な文章ですので、前回と同じく月報の前記二つを取り出して置きます。




           『賀川豊彦全集22』第20回配本「月報20」

                  お祈りの用意
                       
                  秦 孝治郎


 それは、去る昭和三十一年(一九五六年)七月のことでありました。「基督と教会の為め」を標語として、過去七十五年間世界的に連絡し、奉仕している万国基督教共励会はダイヤモンド記念を各国で守ることとなったが、世界を二地域に分け太平洋地域は、日本に開催することとなり、長野県軽井沢の星野温泉をその会場と定めました。

 太平洋会議の第二日である七月三十一日には、賀川豊彦先生の講演を、万国連合基督教共励会会頭ボーリング博士の懇請から特別に依頼していました。当日の午後賀川先生は、星野温泉にお着きになり、旅装も解かず、兼ねて予定していた部屋にもお入りにならないで、私共が忙がしくしていた狭い事務室の椅子にお座りになりました。

 開口一番、かなり強い調子で
 「お祈りが出来ていますか」との一声でした。
 早遮、それに応じて私は答えました。
 「第一日の夜九時から三十分間この会議のために、然も米国のゲーツ博士の指導で祈祷会がありました』
 先生はすかさず
「それはそれでよろしいが、私が頼まれている第二日日の夜の講演会の為めに、神の祝福を祈ってくれましたか」
 私は、その用意が全然無かった事を告白しました。
「何しろ、共励会が日本にその種が蒔かれてから五十年以上になりますが国際的の大会を開いたのは初めてであり、米国を始めカナダ、濠州、香港、台湾、韓国からの出席者とドイツからのオブザーブもあって、この盛会はまことに感謝ですが、全く準備が不充分で先生に対して申訳がありません」
 と平あやまりにあやまりました。

 先生の顔がやや柔和に還りほころびかけて来ました。さらに一寸手をあげ仰しゃいました。
 「それや、よかった、私は昔は、共励会の集りに出たのだが、終戦後は、こん度が始めてで、一体どんな充実した集会になるのか、心配して来たのです、さあ、今晩の講演会の為めに祈ろうじゃないですか」
 
 祈るべく余りにも雑然とした室であり、心の底から祈祷すべく余りにも心の準備が出来ていませんでしたのと、そこへ万国基督教共励会総主事のウェスタ―ホフ氏が顔を出しました。賀川先生を歓迎すべく駆けつけたのですが、その挨拶も交わさず、立つたまま祈りの仲間に入ることを、私は要請しました。

 まず、賀川先生が不充分な準備ではあるが、神のお護りを祈られ、私と、ウェスターホフ氏との三人が、日本語と英語との区別こそあれ今夜の大集会に神の御支えと恩寵とを祈りました。熱のこもった大変よい祈りが出来ました。

 演題は「日本基督教の一般情況」でありましたが、二時間に瓦る長講演の内容は新教が日本に渡来した背景とでも云うべきものであり、近世基督教論と云った纒まったまれに見る秀れたものでした。例の如く大きな紙に墨書されたものの中から、今なお私の保存している一枚には、景教とか大泰寺とか書いててあります。海外からの出席者が異口同音に世界的の伝道者と敬服したのもこの時でした。共励会に「お祈りの用意」が中心となったのもこの教訓に由来して居ります。
                                       〔同志社理事長〕
   





                   新語の天才
              
                   吉田源治郎


 賀川先生は、新造語の天才であったとは定評のあるところ。例えば、神の国遷動、キリスト運動、キリスと新聞(普通は、キリスト教新聞とするところ)、キリスト愛、死線を越えてとか等々。又、書名にはいつも工夫をこらした。「涙の二等分」(詩集)、とか[雲水遍路]などその最も典型的なもの。

 A・シユワイツァーは、ゲーテのことを「宇宙的人格]と評価したが、賀川先生は正にゲーテに劣らない「宇宙的人格」であった。その高さ――彼は高層ビルであり、同時に地下何階もの底層をもつ稀な人格構遣であった。その面積――幅は無限大にひろがった。それは、微視的な原子核の世界から巨視的な宇宙の構造にまで及んだ。賀川先生が、原子番号の一(水素)から九二(ウラン)までを、独特な語呂のいい言葉で暗記していたことは知る人ぞ知る。「君は原子番号をみな言えるかね、ぼくは二分間で全部言えるよ」といって、(一)水素、(二)ヘリウム……(八八)ラヂウム、(九二)ウランと得意になって読誦した。それは「いの一番に水素」「パッパともえるラヂウム」といった工合にリズムのある言葉で一~九二の原子番号全部を暗記していたからであった。彼はまた、「原子将棋」を考案、原子名と番号を一々、将棋のコマの上に記入、そして、その遊び方を同志たちに教えた。原子番号を憶えることは科学教育の土台をつくると考えたからであろう。彼の名著「宇宙の目的」の読者は、もしも原子番号を知っていれば、随分、役立つことと思われる。

 昭和九年の頃の一年間、東北六県――殊に旧南部藩の岩手県、山形県方面は冷害のために極度の不作、農民は飢餓に瀕した。この事が新聞に報道せられると、賀川先生は、親類運動という名の救済運勁を提唱、その陣頭に立った。


 関西では、大阪TMCA内に、親類運動の母胎、大阪キリスト教幸仕団(当時の大阪YMCA主事、小倉源二氏担当)が、広くキリスト教界にアッピール。東北貧窮家庭の親類となる有志を募った。その間、賀川先生や小倉氏それに同じYMCA主事の井口保男氏らは、数回に亙り東北六県を巡回、不作地の実状をつぶさに視察、これを関西にもち帰って弘報した。


 それで、大阪市及びその周辺で約二〇〇人の親類ができて、これが、岩手県達曾部村青寵村、久慈町、下閉伊郡の一小学校、山形県、最上郡の一小学校、谷地町等の災害地の家族(約一〇〇以上)と結びつけて、金品を一年間、継続して寄贈し感謝された。


 その方法としては一教会各個人で三世帯乃至十五世帯の親類と附き合いをすること、また実情に応じて現地のキリスト教会や、キリスト教幼稚園を介して援助の手を差しのべた。当時、東北の冷害地では欠食児童二万一千人以上、母乳のない乳児一万二千人以上に達したという。児童の弁当はトウモロコシ、ナラの実、トチの実、カエデなどであった。


 賀川方式の救済事業は、助けるものと助けられるものとの間を「親類」という名でつないだ所に新らし味があり、人格的交流があった。不特定多数を対象に金品をばらまくのでなくて、くわしくケースカードに記載されている調書に基づきその家庭で最も必要とするものを、例えば学童のための教科書、学資、母乳のない乳幼児にはドライミルクの配給という方法をとった。


 この運動の長所は、特定の個人又は団体が、特定の家族に一年間月一回、継続的に「臨時親類」となったという点にある、小学校を対象とした場合も学校の調査にもとづいて、同様な救済を実施した。これらの方法は正に、賀川先生の好んでよくロにした、いわゆる「人格的社会事業」の一事例であったと言えよう。関東方面では、関西のやり方とは多少方法を異にし、直接、クリスチヤンの家庭に災害地の学童を引取り一年間世話をした。現に賀川先生の如きは率先して、十数名の貧困学童を自ら引取り、或いは他へ輯旋することにより、親類の暖か味を冷害地に示した。「親類運動」という名称はいかにも賀川式で、魅力のある造語であった。

                                    〔西宮一麦教会牧師〕
   




                 るすいばん奉仕
           
                  斎木進之助


 関東大震災の翌年、大正十三年九月ある夜、私は本所基督教産業青年会に賀川先生の話をはじめてききに行ってからは引続いて熱心に足繁く通い出した。

 当時私は十八歳であった。その頃親しく迎えてくれたのは手足の不自由な井上勝造君や松村信幸氏等であった。多忙な賀川先生には会えなかったし、少年であった私は直接お話しすることもなかった。しかし其の頃先生の個人雑誌「雲の柱」が発売されている事を知り、月々愛読してゐた。中味の諸諭文はさておき『アンペラ小屋より』と題した小活字組の便りが一番やさしく興味があった。之を読むと先生が今何を計画し、何時実行しようとしていられるか等が判り一方的ではあったが先生と自分が一つのつながりをもっている様な気がして何んとなく嬉しかった。しかも其の便りの中に労働者伝道の一環として労働中学を開校すること、そして中学の理想や参加する講師の紹介等々を読んだ時は本当に嬉しかった。当時工手学校建築科を卒業していたが、出来ればもう少し中学の課程(今の高校)を勉強したいと思っていたからであった。

 大正十五年四月労働中学第一回入学の許可を得て黎明寮に泊めてもらった夜、母からもらって来た一か月の生計費二十円を何者かに盗まれて、一時は途方に慕れたが牧野仲造氏や原沢直三氏の好意によってピンチを切り抜け希望通り中学に於いて新しい友達と勉学に励んだ。しかし半年程して自分の専門職場が横浜の方に決まったので地理的時間的に無理が生じ、止むなく退学しなければならぬこととなって親しい友達に別れを告げた。しかし労働中学で多くの友人が出来、中でも服部正男君や小林好雄君とは特に親交を結び、其の後此の二人が揃って本所青年会の木立義道主事等を助けて賀川先生の愛の実践の奉仕の生活をしているのを見て私は心をうごかされたのであった。

 昭和十年秋、私は神戸税関営繕係で働くことになった。早速算合新川の神戸イエス団を訪ねて行った。古臭い会堂に建て増した教会を中心に診療保育隣保の事業が細々と遮営されていた。教会は無牧で聖日礼拝は午前七時で精々集っても二十名位で武内勝氏、中村竹次郎氏等が講だんを守り、月一回平均伝道旅行途中の賀川先生が立寄られて其の時は百名位の人が集ったりした。

 私が通い始めてまもなく留守居番役の青年が病気で帰郷したので、独身の私に留守居番をしないかと言う話があった。間接的に社会奉仕になると思い母と一緒に有難く引受け泊り込むこととなった。保育と診療の方は専任の奉仕者がいたがみな通勤で、こちらは、戸締り第一火の用心、朝夕の清掃、昼日中は自分の働きに出かけ、夜間は水曜をのぞき週三晩は学習会、日曜日は朝から晩まで礼拝の準備、日曜学校の準備、そして其等の跡片付と言うことで朝五時から就寝は十時すぎ、相当の重労働になる訳で、時々は辛いと思う日もあったが、そんな時は何時も本所の労働中学の時の友達の事を思い浮べ、おくれをとってはならぬと心に鞭打ったものであった。しかし此の奉仕の中で一番困ったことは、定期集会の時に講師が都令悪く来られない時のあることで、定刻になると入れ換り必らず誰か予期していない人がボツリとやって来るもので、一人でも二人でも集れば放っておく事も出来ず、最初のうちは思い出話で済まされるがそう同じ話も出来ない、元来人を指導説得する等と言うことは考えたこともない私は全くこれには一番困った。

 或る時本棚で種さがしをしていたらザラ紙の十銭本の「神による新生」が出て来た。立読みしていたら興味が出て来て、これは何か受け売りが出来る様な気がして、それから一生懸命精読し「宗教は生きる工夫」以下キリスト、十字架等、賀川先生の定めたコースに従って準伽をはじめた。途がひらけ出し私の心の目が開かれ奉仕は人のためでなく私にも大きな恵みを与えて下さることを知って感謝した。

                                  〔尼崎市建設局土木部技師〕


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