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連載:賀川豊彦の著作ー序文など(第159回)

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「ぶらり散歩:新湊川公園」(今日のブログ「番町出合いの家」http://plaza.rakuten.co.jp/40223/)


      賀川豊彦の著作―序文など

     わが蔵書棚より刊行順に並べる
 
          第159回


     『賀川豊彦全集18』(第22回配本「月報22」)

  
 『賀川豊彦全集』の第22回配本は、昭和39年6月10日に「文学作品(随筆・旅行記・その他)」として分類されている第18巻が刊行されました。

 今回の「月報22」には、「“私がひきうけた”」と題して平山照次氏(東京山手教会牧師)、「飛躍の信仰」と題して筧光顕氏(立教大学教授)などが寄稿しています。

 いずれも、貴重な文章ですので、前回と同じく月報の前記二つを取り出して置きます。




           『賀川豊彦全集18』第22回配本「月報22」

                 “私がひきうけた”

                  平山 照次


 一九二八年、私が小樽高商(現商科大学前身)一年の秋、全国協同伝道北海道に来られた賀川先生は、中央座だったかの映画館で「神による新生」という題で講演された。私が賀川先生を知ったのはその時が初めてだった。満堂の聴衆だった。私は試験中だったがちょうど小樽公園通教会で求道中だったのでききに行った。講演が終る頃、賀川先生は右足を折って前方を踏まえ、右の手で階上階下の聴衆を指しながら、
 「わたしは芸者の子です。母は貧乏で身売させられたのです。どんなに恥ずかしかったことか。ここにおられる方々の中にもそういう貧乏な方がおられるに違いない、わたしはそういう方々が神の愛によって新しい生命に立上って下さるためにここに来ました! 希望を持って下さい。決して絶望するにはあたらないのです!」

 そう叫んで満堂を見渡した時、会場はシンと静まり返った。ライトに照された賀川先生の眼から涙が流れ落ちていた。その涙の中に光る真実が、躊躇なく決心カードに記名さしたのであった。

 一九四六年終戦翌年の一月、中国の華北から復員帰京した私は、自分が知らない間に「福音伝道団」の主事にさせられていることを知った。すなおにその役を引受けた。終戦の年早くも労働組合や政党や民主団体等は総会なり大会なりを開いて立直りを示していた。

 私は当時霊南坂教会の牧師だったが、キリスト教が大会も総会もせず萎縮しているのを残念に思い、当時の富田満教団統理に臨時総会開催を要望した。食糧事情、交通事情、宿泊事情が悪いからとの理由でことわられた。政党や労組の働きで条件が出来上ってから開催するようでは、何の面目があって「救世」を語ることができよう。

 私は八方信徒大会開催の説得に努めた。福音伝道団委員会にかけたら、一同共鳴し賛成してくれた。ところが資金をどうするかには思案投首だった。神田錦町の基督教会館四階の私たちの室の隣りにある「世界平和協会」室から、賀川先生は弁当箱を左手に、右手に箸を持ったままはいって来られた。

 「何の相談ですか」「これこれしかじかで募金の相談中です」「いくらいるのですか」「十万円です」「よし、引受けた、募金運動を極力やって下さい、不足分は私が全部引受けた!」

 六月九日全国信徒大会開催はここに決定した。(そのお蔭で教団の臨時総会も開けたのだった)私はその総務主事ということで、散文館、聖書協会、明治学院、YMCAなど歴訪して訴えた。結局賀川先生には一文も出して貰わずに出来た。何千人かの信徒が参集した。

 会場の青山学院正門正面には、私が作った標語「全日本ヘキリストを!」の横幕が掲げられた。そこから「新日本建設キリスト運動」が出発した。賀川先生と共に私が、その特別請師に任ぜられた。

 「食糧救済、伝道救霊、道義高揚」の三目標を掲げて火の玉のように、全国を伝道して廻り、私だけでもその三年間に、講演一千回、聴衆七万人、洗礼決心者三千人ぐらいの集会をしたかと思う。もとをただせば「私が引受けた」という賀川先生の一言が、キリスト教戦後立上りのきっかけを作ったのであった。

 場所は前と同じ神田錦町キリスト教会館四階廊下でのこと、パッタり出会った賀川先生は、いつになく不機嫌な顔で、私を怒鳴りつけるような調子で「平山さん、あなたは今度代議士に立侯補するそうですね」「いいえ、しません」「いやあなたはする! 碓かな筋からきいている」「いいえ、そんな話はありましたが、私は立候補のつもりはありません」

 「本当ですか、それきいて安心した。平山さん、わたしたちは、全国各地の淋しい人たちを慰めて廻りましょうね」
 賀川先生はやっと手を差出して握手してくれた。その手は暖かく柔かった。

                                 〔日基教団東京山手教会牧師〕



               

                  飛躍の信仰
              
                  筧 光顕


 それは何年何月であったかはっきりと記億して居ないが、我々が戦争の痛苦をひしひしと身に覚えはじめた頃、暖を取る火もない冬であった。或る寒い朝、私は賀川、小川清澄の両君を連れて目白の有田八郎氏の私邸をおとづれた。当時貴族院議員で、大臣の前官礼遇者の政治家で、しかも自由主義の立場を守って、国際的見識の高い有田氏と、絶対平和主義である賀川君との間に、戦争と平和について意見をたたかわす機会を与えたかったのである。後年有田氏は社会党に入って平和主義者になったばかりでなく最後の東京都知事選挙の際は賀川君がその後援会長をつとめたような両者の関係が出来たが、その時は初対面であり、外交界政界の先輩と野人賀川豊彦との会談であった。

 国際平和の問題に関して有田氏は、「今の世界では、平和は国際的な力の均衡か保たれている場合にのみ保持し得るものだから、われわれ政治家は、常にそういう力の関係に自国を置くように常に努力しなければならない。歴史的にみて力の均衡のみが現実の世界における平和の基礎である」と主張した。それに対して賀川君は、「有田先生は政治家だから、そう考えられ、またそのように努力されているので、私はそれに対して敬意を払いますが、私は宗教家としてそれ以上に進まなければならないと考えています。宗教家というものは常に現実の上に常識の上に飛躍する理想こそが、平和の基礎であると信じなければなりません」と自己の信念を語った。

 この飛躍の理想、飛躍の信仰こそが、賀川君を動かした力であった。私は、今でも国際危機という事態が起りかける時にいつも、この意味で賀川を思うのである。彼こそは如何なる危機にも、行詰りにもこの信仰で立向って行き得る人であった。
                                       〔立教大学教授〕





                 貧しき人々の友

                 今村 好太郎
 

 私が神戸神学校本科一年に入学したのは、明治四十二年九月のことであった。当時新学年は九月に始まった。神戸神学校は、東京の明治学院神学部から分離して、明治三十九年米国南長老教会伝道局によって、あらたに設立されたもので、私が入学した年の六月最初の卒業生として富田満君を学校から送り出した。当時学生も教授も発足間もない時代として、きわめて少数であった。学生は本科三年に東京から移ってきた学生が二名、本科二年には、これも東京から転校してきた賀川豊彦君とほかに四名、本科一年に私のほかに三名、予科に五名計十六名の学生に対して教師陣は外人教師三名、邦人教師三名計六名という状態であった。そのため、よく上級と下級との合併授業が行われ、おかげで私は度々賀川豊彦君と机を並べて勉強する機会をえた。

 当時、賀川君は二十一歳、下級の私が二十五才であった。その頃、彼の健康はきわめて不良であった。彼は度々喀血して学校を休んだが、殆ど彼は自己の病気を意に介しないかの如く、自己本来の使命だと言って、新川のスラム街に移り住んでいた。当時の神戸新川のスラム街は、通路の極端に狭い、悪臭をはなつ路道の両側に建ちならんだ、二帖一間、三帖一間の古い茅屋であった。賀川君はこの狭い部屋二戸を打ぬいて一間として、そこで日曜学校も開けば、説教もし、祈祷会も開く集会場としていた。彼の語るところによると、毎朝六時にはスラム街を廻ってさんぴかを歌って歩いた。これは時計のない貧民たちには、起床のサイレン代りになると言うので喜ばれたとのことであった。

 彼は神学校の授業をおえて帰ると、夜は毎夜のように路傍に立って街頭説教を試みた。彼は胸の疾患に悩みながら、病者の世話、困窮者の救助、失業者や、酔漢の金銭の無心に悩まされながら、モの間には読書もすれば、研究もし、また執筆もした。小説『死線を越えて』『貧民心理の研究』『主観経済学原理』その他の著書もこの茅屋の中から生れた。彼はさらに消費組合運動、医療伝道、東京、大阪、神戸のセツルメント設置やイエス団の組織などを計画し、また川崎造船所の大ストライキ事件にも、陣頭に立ってその指揮にあたるというように、彼の活動は年とともに発展した。

 彼は、頭脳明晰な天才肌の人であった。そのため天才に共通する半面の短所欠陥をももっていた。彼の計画、彼の研究と読書はきわめて多方面であった。後に彼は世界的な大宣教に運動をも試み、世界を旅して活動し、社会党の前身労働総同盟や農民組合、消費組合運動など活動して、一躍世界の名士となり、福音の実践者、基督愛の行者となって各方面から聖者のように仰がれる人となった。

 けれど、学友であった私の心を引くのは、そうした政治運動や、労働運動、消費組合運動に活躍し、二百冊におよぶ著書を書いた同君ではなく、プリンストン大学の神学校を卒業して帰朝しても、当初の志を変えず、ハル子夫人と共に貧民窟に起居しながら、病苦に悩まされつつ、貧しい人々の友となり、彼らの救霊と救済のために千苦万苦をしのんで働いていた当時の君であった。『残されしただ一枚の衣だに、友のためには脱がんとぞ思う』と歌った彼の歌の言のように、また貧民窟で書いだ彼の詩集『涙の二等分』のごときも、その標題の由来をきいたとき私は感動した。それはある時一人の婦人から赤ん坊の世話を頼まれた、空腹に啼き叫ぶ赤ん坊に彼は与えるミルクを買う金さえもなぐ、困感のあまり自分も涙にくれて自らの涙をスブーンにうけて子供にのませたところから、『涙の二等分』と名付けたといっていた彼の言に、私も胸を打たれたのであった。

 要するところ、彼は身をもてイエス・キリストの愛を実践しようとした、愛の使徒であり、貧しい者の友となり、彼らの救済を救霊のために全身全霊を傾けて、働きぬいた基督教の戦士であった。前途に大なる夢を描きつつ貧民街で苦労していた頃の賀川豊彦君を、今も私ば心に思いいでて、尊敬となつかしさを禁じえないのである。
                                   〔日本基督住吉教会牧師〕











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